妄想劇場 <汗>


 連日真夏日が続く、暑い暑い日本の夏。
 気温だけでなく、湿度まで高く、じんわりと重い空気は不快なことこのうえない。この気候に慣れている者でもつらいのに、アメリカ育ちで日本の気候に慣れていないリョーマにとってはさらにつらかった。
「あ〜つ〜い〜〜〜!!!!!」
 リョーマは扇風機に向かって叫んだ。声が振動で震えて変なふうに聞こえるが、 それを楽しむ余裕も笑う余裕も、リョーマにはなかった。
 暑い。暑い。暑い。
 その不快さだけが、ひたすらリョーマの脳裏を占める。さっきから少しでも涼を取ろうと扇風機の前に陣取っているのだが、ちっとも涼しくならない。拭っても拭っても肌の上を汗が流れてゆく。
「ごめんねリョーマ君。ちょうどうちのエアコン壊れちゃってて。今日業者のほうがお盆休みで、明日にならないと修理に来ないんだ」
 不二が申し訳なさそうに謝りながら、冷えたジュースを差し出した。
 冷たいジュースはひととき喉を潤してくれるが、結局この暑さの根本的解決にはならない。むしろ、水分を取ったせいで、余計汗が出てきたような気がする。
(こんなはずじゃなかったのに…………)
 頬を流れてゆく汗を無造作に拭いながら、リョーマは形のよい眉をしかめた。
 本来なら、寒いほどにエアコンの効いた室内で、悠々と過ごすはずだったのに。
 越前家には、居間にしかエアコンがない。しかもそれも、本当に暑いときや来客があるときくらいしか付けることがないのだ。
 スポーツ選手にとって、発汗は体温調節のために重要なことだ。だが、エアコンなどにあたりすぎるとその発汗機能がうまく働かなくなることがある。また、どんな気候でも試合で最高の力が出せるよう、暑さや寒さにも慣れておく必要がある。 そんな南次郎の意向によって、越前家ではこの暑い夏であっても、ほとんど扇風機しか活動することがないのだった。
 たしかにエアコンにあたりすぎるのがよくないということはリョーマにも分かる。だがそれでも暑いものは暑い。耐え切れない。暑さのためというよりは、暑さによる不快感からくるストレスで体調を崩してしまいそうだった。
 だからリョーマは暑い自分の家から、エアコンがフル稼働しているであろう恋人の家に避難してきたのだが。
 来てみれば、不二家の居間のエアコンは故障中だというのだ。そうして、越前家と同じく、扇風機が頑張って首を振っていた。
 これでは家にいるのと変わらない。いや、この暑いなか移動してきただけ損のような気さえする。これなら図書館あたりに行ったほうがよかったのではないだろうか。
 額ににじみ出る汗に比例して、リョーマの不機嫌と不快度はどんどんと増してゆく。
「よっと」
 リョーマにグラスを渡した不二は、不機嫌なリョーマの様子を特に気にすることもなく、そのままリョーマの隣に腰を下ろした。
 それは別にいい。不二だって扇風機の前に来たいだろう。
 しかし、何故こんなにも近くに座るのだろう。腕がぶつかるというよりも、すでに体半分が密着したような状態になっている。
「ちょっと周助。くっつかないでくれる?」
 不二を離そうと、リョーマは不二の腕を押すが、不二が動く気配はない。かといって、リョーマのほうがどく気もない。今リョーマがいる場所は首振りをとめた扇風機のまん前で、リョーマはここから一歩たりと動きたくないのだ。
「恋人にくっつくななんて言うなんて、リョーマ君ひどいなあ」
「ひどいとかじゃなくて、暑いでしょ。俺、今、汗でベタベタしてて気持ち悪いだろうし」
 暑さのため、リョーマはタンクトップにショートパンツという薄着でいる。その剥き出しの腕にも足にもじんわりと汗をかいて、肌は湿っていた。暑がるリョーマに対し、不二はあまり暑がりもせず汗もかいていないようだが、半袖から出ている腕に、汗で湿った腕があたれば不快だろう。
 自分自身が暑いということもあるし、不二への配慮も含めた言葉だったが、そんなことを意にとめた様子もなく、不二は全開の笑顔をリョーマに向けた。そう、あやしすぎるほどに綺麗すぎる、分かる者には分かる、裏のある笑みを。
「そうかな。僕はいいと思うけど。汗」
「は?」
「試合中とか、リョーマ君が汗かいてるの見ると、すごく興奮する」
「はあ!?」
 リョーマが反論するよりも逃げるよりも早く、リョーマは軽く腕を引かれ、不二に抱え込まれるように抱きしめられていた。
 暑い、と抗議する前に、頬から額にかけて、ねっとりと生あたたかいものが這う。
 一瞬それが何か分からなかったが、不二を見れば、いたずらっこのようにちいさく舌を出して笑っていた。それを見て、リョーマは理解する。舐められたのだ。不二に。
 怒りにか羞恥にか驚愕にか、顔を紅くするリョーマにもういちど笑いかけると、不二はまたリョーマに顔を近づけた。今度は一度ではなく、何度も何度も、頬に額に鼻に、舌を這わせられる。動きとしては、親猫が子猫の顔を舐めるのに似ているが、その動きの卑猥さと執拗さは猫などとは比べものにならない。
「ちょ、ちょっと…………周助!」
 リョーマは精一杯腕を突っぱねて不二をどかそうとするが、不二の力は強く、びくともしない。思うがままに、顔中を舐められる。
 散々顔を舐めまわしてある程度満足したのか、リョーマを腕に抱えたまま、不二はやっと顔を離して、リョーマに満面の笑みを向けた。
「おいしいよね。リョーマ君の汗」
「はああ!?!?」
「だからもっと舐めさせてよ」
 言いざま、またリョーマのこめかみに舌を這わせて、ちょうど流れ落ちようとしていた汗を舐め取る。
「へっ変態!」
「ははは。ひどいなあリョーマ君。そんなひどいこと言うとお仕置きするよ?」
 不二は本当に楽しそうに笑っている。そしてこんなふうに笑っているときはロクでもないのだ。リョーマは不二から逃れようともがくが、その腕の戒めは強く、逃げることが出来ない。この男から逃れることは決して敵わない。何故にこんな男を恋人に選んでしまったのか、自分を嘆くばかりである。
 今リョーマの額から流れていくのが暑さによる汗なのか、冷や汗なのか、脂汗なのか、リョーマ自身にももうよく判別がつかない。
 だがそんなことはお構いなしに、不二はまた、リョーマに舌を這わせた。



(……そういえば)
 リョーマの家では、居間にしかエアコンがないが、不二の家は全室エアコンが完備されているはずである。
 つまり、居間のエアコンが壊れていても、他の部屋に行けばよかったはずだ。
 リョーマがようやくそう気付いたのは、顔の汗だけでなく、全身くまなく汗を舐め取られ、なおかつさらに暑くなることをし、風呂に入ってさっぱりしたあとエアコンのよく効いた不二の部屋に入ったときであった。


 END