リバーシブル・エッジ 13


 リョーマがその場所へ行こうと思い立ったのは、本当に突然のことだった。
 明確な理由らしい理由があるわけではない。ただ、ふと、行きたくなった。それだけのことだった。兄が眠る、その墓前へ。いつもリョーマの胸の根底にあるものの、その象徴のような場所。
 ずっといろいろ考えていた。自分のことや、手塚のことや、不二のことを。それはリョーマが考えなければならないことだったし、意識しなくてもいつのまにか心に浮かんで考えてしまうことだった。特に、不二のことは。
 自分の記憶の中にある不二の記憶が、何度も何度も浮かび上がってくる。付き合おうと言われたときのこと。部活中に自分にかまってきたときのことや、一緒にゲーセンへ行ったときのこと。登下校中に話したたわいもない話。そして、もう終わりにしようと言われたときのこと。
 この脳味噌は、飽きることもなくそんな思い出ばかりを繰り返し引き出しては、リョーマの心を掻き乱した。繰り返し、繰り返し。壊れたオルゴールが、それでも回り続けて無様な音を奏でているように。
『リョーマ。ちゃんと考えろ。不二が、好きなのか?』
 手塚に言われた言葉が頭の中で回る。
 不二のことをどう想っているのか。
(……すき?)
 自分の中で返る答えはいつも疑問形だ。自分の気持ちなのに、自分でも理解など出来ない。本当に、わからないのだ。あるいは、怖いのかもしれない。そう認めてしまうことが。何かを手に入れるということは、いつかそれを失くすかもしれないということだから。それを、恐れているのかもしれない。
 答えの出ないまま、それでもずっとずっと考え続けて。脳味噌がもつれた糸のように絡んでしまいそうだった。そういえば、理科の教科書に載っていたあの捻れたアンモナイトは、今の自分と同じように何かを悩みすぎたのかもしれない。
 考えることに疲れて、だから気分を変えたかった。何かきっかけのようなものが欲しかったのかもしれない。
 理由なんて本当にただそれだけで。そのときふと思いついたことが、兄の墓参りに行こうというだけのことだった。
 けれど、命日でもお盆でもないのに急に墓参りに行きたいなどと言えば、きっと南次郎や母親に心配をかけてしまうだろう。リョーマにとってそんなに深い意味はなかったとしても、両親達はきっと心配してしまうだろう。
 だから、リョーマは朝、いつもどおり学校へ行く振りをして家を出た。
 そうして、学校へ向かわず駅へ向かう途中、携帯で手塚にだけ連絡を入れた。部員として、部長に部活を休むことの連絡を入れておかなければいけない。それと、学校も休むことを、担任に伝えてもらうために。
 無断で学校を休んでは、きっと家へ連絡が行ってしまう。かといって、リョーマ本人が休むと連絡を入れても信用されず確認の電話をかけられてしまうかもしれない。だが、手塚は教師からの信頼も厚い。手塚を通しての連絡なら教師も信用するだろうと踏んでのことだった。
 電話で手塚にそのことを伝えると、彼は敏感に何かを感じ取ったようだった。理由もなく、リョーマがそんなことを言い出すはずがないと。
『……どこへ行くんだ?』
 どこか硬い声が、電話の向こうから聞こえた。その声には心配がにじんでいる。
「墓参り」
 リョーマは手塚には正直に答えた。適当な嘘では、手塚は納得してくれないだろう。それに、手塚には曖昧な嘘をついて不安にさせるよりも、多少心配をかけるとしても正直に話して安心させたかった。
 電話越しのため表情を知ることは出来ないが、きっと手塚は複雑な表情をしているのだろう。あるいは苦しそうな顔をしているのかもしれない。わずかな沈黙が落ちる。
『ひとりで、平気か?』
「うん」
『分かった。おまえの担任には俺から休むと伝えておく』
「ありがとう、……国兄」
 数秒ためらったのち、リョーマそう呼びかけた。手塚のことを、昔通りのその呼び名で。手塚自身に向かってそう呼びかけるのは何年ぶりだろう。ひどくなつかしい気がした。
 電話の向こうで手塚もそう呼ばれたことに驚いているようだった。ちいさく息を飲む音が聞こえた。
 ほんのちいさな一歩。きっと傍から見たら、おたまじゃくしに後足が生えたくらいの成長だろう。それでも、リョーマと手塚にとっては、意味のある一歩。
『部活をサボるんだから、明日は校庭20周だぞ』
「わかってる」
 おそらくは照れ隠しで部活のときのように厳しい口調で言われた言葉に、リョーマも照れ隠しでぶっきらぼうに答えた。
『部活ではちゃんと部長と呼ぶんだぞ』
「わかってる」
『それから、知らない人についていくんじゃないぞ。行き方は分かっているんだろうな? 迷子になったらすぐに連絡するんだぞ。電車代はあるのか?』
「…………、ぷっ」
 注意されるその口調は、ちいさかったあの頃そのままで、なつかしさとともに、思わず笑いが漏れる。
『なんだ?』
「ううん、なんでもない。大丈夫だよ」
『──そうか』
「うん。いってきます」
『ああ』
 もうすこし手塚と話していたい気もしたが、リョーマは電話を切った。手塚とは、またあとで話せばいいのだ。これからいくらでも時間はあるのだから。こんな電話越しでなく、ちゃんと会って話せばいい。いろんなことを。
 いつのまにか、ほんのすこし、心は軽くなっていた。
 そうして、リョーマはひとりで駅へ向かった。



 越前家の墓は、家から電車で1時間ほど行った場所にある。南次郎は寺の坊主をしているが、それはいわゆる『雇われ坊主』で、越前家の墓は他にあった。20分も歩けば海に出られるような、海が程近い、静かなちいさな街の片隅にあった。
 リョーマは駅のベンチにひとり座って、ただぼんやりとしてた。
(もう、帰らないと)
 陽はすでに傾きかけている。一年のうちでもっとも陽が長い季節であるため、まだ外はかなり明るいが、ここから家までかかる時間も考慮すれば、そろそろ帰らなければならないだろう。両親には学校へ行くと告げて出てきたのだから、いつもどおりの時間に帰らなければいけない。それでもなんとなく動きがたくて、ずっと駅のホームのベンチに座っていた。
 今日一日何をしていたかといえば、ぼんやりしていたというような記憶しかない。
 思い立って兄の墓参りに行ってみたものの、墓石はただの石でしかなく、何かを答えてくれるわけでも示してくれるわけでもない。別にリョーマだってそんなことを期待していたわけでもないのだが、それが妙に哀しかった。
 ただ、花も持たずに墓石の前に立って感傷に浸り、近くのコンビニで適当に昼を買って食べ、それからまたぼんやりといろいろなことを考えて過ごした。
 今日一日で、多少の気分転換にはなったかもしれないが、それでも結局、何ひとつ正しい答えが出たわけではなかった。
 他に人の姿はまばらだった。向かい合わせに造られたホームのあいだに、上りと下りの2本の線路が走っているだけの、ちいさな駅だ。さすがに改札は無人ではないが、ホームには駅員の姿はなかった。周囲には住宅地しかないせいか、下りるひとは結構いたが、電車に乗ろうとホームで待つ人影も少なかった。
 一時間にそう何本もない電車を、すでに数回見送った。ほんの数分前にも、来た電車には乗らずに、ここでぼんやりしたままだった。
(次の電車で帰ろう)
 それでも、次の電車がくるまでにはまだしばらく時間があった。だからリョーマはそのまま、ベンチに座ったままでいた。
 ちょうどリョーマの視線の先、向かい側のホームに電車が滑りこむ。こちらのホームと同じく乗り込む人は少ないようだが降りる人は結構いるらしく、人の波がまばらに動いていた。
 乗客を乗せ換えて、電車が走り出す。遠くなってゆくその後姿を、意味もなくリョーマは目で追っていた。
 そのとき。
「リョーマ君!」
 ぼんやりしていたリョーマは突然名を呼ばれて驚く。
 急いでまわりを見回せば、今電車が去っていったばかりの向かい側のホームに見知った姿があった。
「不二先輩?!」
 見間違えるはずもなく、そこに不二がいた。
「待ってて、今そっちに行くから」
 どうして不二がここにいるのかとリョーマが疑問に思う間もなく、不二はそう叫ぶとホームをつなぐ階段のほうへと駆け出した。
 あまり待つこともないうちに、不二は階段を渡りきり、リョーマのいるところへと走って来る。
「リョーマ君」
「……不二先輩……」
 どうしてここが、と思いかけてすぐに気付く。きっと手塚に聞いたのだろう。ここへ来ることを知っているのは彼だけなのだから、それは容易に想像がついた。それでもまだ疑問は残った。
「どうしてここに?」
 不二が、わざわざここへ来た理由が分からなかった。まさか、不二も何か用事があってそれが偶然この場所だったということはないだろう。それなら何故、不二がここにいるのか。
「……それは」
 ここまで走ってきてすこし上がっている息を整えるように、不二は数度深く呼吸した。それからまっすぐにリョーマの顔を覗き込んでくる。
「君に、逢いたかったから」
 瞳が、ひどく近くにある。それはただリョーマだけを映している。そのことに、何故だか心臓がはねた。
 そういえば、こんなふうに不二と向き合ったことなどなかった。実際の距離としても、精神的にも。あんなに一緒にいたのに。
「一緒に、帰ろう?」
 促すように手を取られた。手を引かれ、リョーマは座っていたベンチを立つ。
 手をつないだままで、ホームの端でふたり電車を待つ。時間としては、そんなに長くない。きっと10分程度のことだろう。けれどどちらも無言で、ただ手をつないだまま電車を待っていた。
(心臓が、痛い)
 訳の分からぬ痛みに、リョーマはうつむく。
 静かな場所は静かな場所なりに喧騒があるはずなのに、ふたりのまわりの空間だけ切り取られたように音が聞こえなかった。手のぬくもりだけが奇妙にリアルだ。つないだ指先の脈まで計れそうな気がする。
(どうして)
 リョーマには分からないことだらけだった。答えは何ひとつ見つかっていないのに。何故不二がここにいるのか。何故こんなところで手なんか繋いでいるのだろう。『恋人同士』だったときには、手を繋いだことなんてなかったのに。どうして、今。
 分からなくて、リョーマは視線を足元にさまよわせる。
 不意に、うつむいていたリョーマの耳に言葉が落ちた。

「君が好きなんだ」

 一瞬分からなくて、リョーマが顔を上げると、不二がこちらを見ていた。まっすぐに。
「不二、先輩?」
 言葉を理解したあとも、それが本当に不二の言った言葉なのかうまく判別が付かなくて、もしかしたら幻聴だったのではないかとさえ思えて、リョーマはちいさく首を傾げて尋ね返した。
「君が、好きなんだ」
 もういちど、不二はそう繰り返した。
 今度は間違えるはずも、幻聴かと疑うこともない。それは不二から自分に伝えられた言葉だと理解できた。
 不二にそんなこと言われるなんて思っていなかった。ついこのあいだまでは『恋人同士』だったけれど、そんな言葉とは無縁だった。そして別れて。今ここで、不二の口からそんな言葉が出てくるとは思っていなかった。
 不二が嘘を言っているとは思わない。不二は、こんな嘘は言わないだろうし、こんな顔で嘘は言わないだろう。こんな真剣な、けれどどこか泣きそうな顔で。
(俺は)
 どうして不二が急にそんなこと言い出したのかなんて分からない。けれど、それでも、ちゃんと答えなくてはならない。それはおそらく、リョーマの義務だ。
「不二先輩。俺いろんなこと考えた。自分のこととか、国兄のこととか、不二先輩のこととか」
 リョーマもまっすぐに不二の目を見ながら答えた。
「国兄に、言われたんだ。不二先輩のこと好きかって」
 不二がちいさく息を飲むのが分かった。リョーマは言葉を続ける。
「──不二先輩のことが、好きだよ。一緒にいて楽しいし、いないと寂しい。これが不二先輩の『好き』と同じ意味かは分かんないんだけど。もしかしたら違う『好き』かもしれないんだけど」
 逸らされることもなく、リョーマの瞳は不二を映す。

「でも、不二先輩と一緒にいたいって思う。それじゃダメかな」

「──全然、ダメじゃないよ」
 つないでいた手の、握る力が強くなった。なんとなく、リョーマも不二の手を握り返す。
「また明日から、朝、迎えに行ってもいい?」
「でも不二先輩、朝大変じゃない? 無理しなくていいよ」
「無理じゃないよ。君と一緒にいたいんだ。帰りも一緒に帰ろう?」
「うん」
「キスしても、いい?」
「──うん」
 かすめるように、ほんの一瞬だけくちびるが触れる。
(不二、先輩)
 すべてのことを一日や二日ですべて乗り越えて理解するなんてことは到底無理で。歩き出したとは言っても、それはおぼつかない足取りで、何度も何度も転びながらで。
 きっとまた、あの事件の夢を見ては悲鳴をあげて飛び起きるのだろう。うまく感情を表に出すことも出来ずに、まわりのひとを困らせたりもするのだろう。
 不二とのことだって、これですべてがうまくいくわけでもなく、きっとまた間違ったり迷ったりもするのだろう。傷付いたり、傷付けたり、傷付けられたり。そんなことばかり繰り返すのかもしれない。
 それでも。
「俺も」
 ちいさな声で、リョーマは呟いた。かき消されそうなそのちいさな声も、不二は聞き逃さない。
「俺も、先輩のこと、『周助』って呼んでも、いい?」
「──うん」

「しゅうすけ」

 意味もなく、その名を呼んでみる。訳もなく、胸が締め付けられた。きつく繋がれたこの手のように。それが何か今はまだ分からないけれど、いつか、分かればいいと思う。あるいは、この気持ちに向き合うだけの、強さを得られればいいと思う。いつか。あるいは、そう遠くない日に。
 機械的な声のアナウンスが流れて、もうすぐ電車が来ることを告げる。
 すぐ目の前に電車が滑り込んで、巻き起こる風がふたりの髪を揺らす。
『リョーマ君』
 電車が止まる騒音の中、不二のくちびるがリョーマの名を呼ぶ。音はかき消されて耳に届かなかったのに、何故だか呼ぶ声がはっきり聞こえた気がした。
『しゅうすけ』
 リョーマも、不二を呼ぶ。やはり音は、届きはしなかっただろうけれど。
 見つめあったままの視線を逸らせないまま。
 電車が止まる、その一瞬。

 どちらからともなく、くちびるを触れ合わせた。



 END.