妄想劇場 <記憶>


 ある日、青春学園テニス部コートに、白薔薇がやってきた。──正確に言うなら、文字通り抱えきれない白薔薇を抱えた人物が。
 いまどき『両手一杯の薔薇の花束』なんて、ラブラブ盲目状態の恋人同士ならともかく、傍から見たら寒い光景でしかない。そんな花束を抱えた人物が街を歩いていたりしたら、注目の的か笑いの種だろう。
 それが、『男子』テニス部に現われたとなれば、寒いというより、自分の目を疑い、その次にその人物の感性を疑ってしまうというものだ。
 もちろん何事にも一部例外はあって、もし花を抱えていたのが、たとえば花以上に愛らしい1年生ルーキーだったりするのなら、それは目の保養、心和む光景となる。
 しかしこのとき薔薇の花束を抱えて現われたのは、残念ながら越前リョーマではなく、青学の生徒ですらなかった。
「おひさしぶりですね、越前リョーマ君。んふっ」
 独特の笑い声を語尾にたずさえて、花と共にやってきたのは、聖ルドルフ学院テニス部マネージャー観月はじめだった。
((((うげえ!!!))))
 その姿に、テニスコートにいた青学テニス部員達(一部除く)は、心のなかで悲鳴に近い嫌悪の声を上げた。
 確かに観月は世間一般的に見ても整った顔立ちといえるだろう。だが薔薇を抱えるその姿は寒い。夢見る少女達なら頬を染めて喜ぶかもしれないが、同じ男から見たら、なんだコイツ頭ダイジョブか!?というのが正直なところだ。
 しかも先日の試合で、この観月という男がどんなにいやな性格か、骨身に染みて分かっている。そんな奴が青学に来たというだけでも大変なことなのに、それがなんとなんと、薔薇の花を抱えて、しかもあの『越前リョーマ』を名指しなのだ。
 一部の人間はその光景の寒さに引き、一部の人間はリョーマに近づこうとすることに怒り、一部の人間は恐怖に青ざめた。
 恐怖に青ざめたのは、主にレギュラー陣であった。彼らは知っていた。青学テニス部には、決して怒らせてはいけない影の支配者がいることを。そして、それは、越前リョーマに近づく人間に対して、情け容赦などないのだ。観月の行動は、明らかに彼──不二周助の怒りを買うものだった。
(あいつ、間違いなく殺られる!!)
 青ざめた者達は、皆そう思った。そしていつ何処から魔王が降臨するのか、神経を張り詰めさせてまわりを伺った。──けれど、意外なことに、何処からも黒いオーラは飛んでこなかった。
 いろいろな思惑や感情の渦巻くテニスコート上の中で、薔薇の花を差し出された張本人リョーマの反応は、あっけないものだった。

「……アンタ誰?」

 ボーーーーーーン。
 もちろんこの擬音の主体は観月だ。
 しかし同時に部員の半分くらいも同じ擬音を背負ってしまった。
(誰って…………)
「ぼ、僕のことを忘れてしまったんですかっ? 聖ルドルフ学院の観月はじめですよ。都大会の準々決勝で戦ったじゃありませんか」
 観月は必死になって言い募る。
 リョーマと直接対決はしていないが、青学とルドルフは接戦といえるほど戦っていたし、自分はマネージャー兼参謀としてずっとコート上にいた。コート内やコート外でも彼に二言三言だが話し掛けもした。名前がわからなくても、せめて顔くらいは覚えていてくれるはずだ。
「んー?」
 小首をかしげて、リョーマは記憶を探っているようだった。眉根を寄せて、目の前の観月と、自分の記憶を照合しているようだった。
 たっぷり1分間たったのち、リョーマは記憶の検索結果を打ち出した。
「アンタなんて知らない」
 ボーーーーーーン。
 あまりの見事な言い切りっぷりに、再び観月と部員達がその擬音を背負うことになった。
 テニスにおける関東の強豪校には、異様にアクの強い人物が多い。そのあまりのアクの強さの中では、観月は『比較的マトモ』の無類に入るのかもしれない。あくまで相対比較の話ではあるが。とにもかくにも、そのせいで観月の印象がやや薄かったとも考えられるが、ここまできっぱり忘れてしまうというのもひどいというかスゴイ。
 レギュラーでもないコートの外から眺めていただけの1年生ヒラ部員だって、ほとんどの者が『食わせ者』として観月のことを覚えていた。それなのに、直接対決はなかったとはいえ、レギュラーであるリョーマがここまで綺麗さっぱり忘れているというのはある意味素晴らしい。
「リョーマ君。知らない人と話しなんかしちゃ駄目だよ、危ないからね。こっちおいで」
 すこし離れたところから、さわやかな声が投げかけられる。常にないほど爽やかなその声は、このテニス部の影の支配者のものであった。その本性を知るレギュラー達は、どれほど不二が怒っているのか恐れたが、意外にもその声には裏がない。あふれる怒りを押し隠しているというわけでもなさそうだ。これはすこし不思議なことだった。
「はーい」
 よいこのお返事をして、リョーマは不二のほうへと去っていってしまった。
 後に残されたのは、白薔薇を抱えて、薔薇よりも白く燃え尽きている、ルドルフマネージャー。あまりなリョーマの対応に、彼は復活できずにいた。存在を否定されてしまったのだ。嫌われるよりタチが悪い。
 ちなみに彼は、おおかたの予想通り、越前リョーマに告白およびデートの誘いに来たのだ。それが、告白のコの字を出す前からこれほどの仕打ちである。自信家でもある彼にとっては、早々立ち直れるものではなかった。
(哀れ、観月…………)
 青学部員の何人かは、心から彼に同情した。しかし大半としてはザマーミロというところであった。
 そして白く石と化した観月は練習の邪魔ということでそのままコート脇に捨てられていたが、良識人でありかつ彼に同情した大石副部長がルドルフに連絡し、回収に来たルドルフ部員に連れられて帰っていった。



 その日の練習終了後、レギュラーが部室で着替えているとき、不意にリョーマが「あ」とちいさく声を上げた。
「どうしたんだ、おチビちゃ〜ん?」
「思い出した。ルドルフって、不二先輩の弟がいるところじゃなかったっけ?」
 確認するように、リョーマは傍にいる不二を見上げた。
「うんそうだよ」
 まるで積み木がうまく出来たと自慢する子供を誉めるように、不二もそれに笑顔で答える。
「やっぱり!」
 リョーマは何処か得意げに言っているが、他のレギュラーはなかば呆れ気味にそれを見つめた。
「何を今更……」
「ていうか、それさえ忘れてたのかよ……」
「おチビ思い出すの遅すぎ」
 レギュラー達がリョーマには聞こえないように小声で感想を述べていると、また何かを思い出すように、リョーマは首をかしげた。
「あ〜、あれ。そういえばあのひと見たことあるような……確か不二先輩と対戦してなかったっけ?」
「うん。まあね」
「えっと、そうそう、あの観月って、乾先輩みたいにデータばっかり集めてる奴だよね。あのひと今日何しに来たんだろう。薔薇なんか持っちゃって」
「リョーマ君」
 不意に、不二が片手でリョーマの顎をつかみ、自分のほうへと向けた。
(キスでもするつもりか!?)
 と他の部員達は一瞬慌てたが、顔が近づく気配はなく、ホッと一息つこうとして……出来なかった。

 不二の目が開かれていた。

 いつもは閉じられて見えないその瞳──。それが今、赤く光って見えるのは、光の加減のせいだろうか。いや、光の加減のせいだ。そうであってくれ。そうでなければあれはなんと説明する? あの、赤く妖しく恐ろしく光っている悪魔の瞳は。
「……リョーマ君。君が他の男のことなんて気にすることないんだよ。君は僕のことだけ考えていればいいんだからね。だからあんな奴のことなんて……忘れてしまおうね」
 リョーマの目をまっすぐに見つめながら、不二はゆっくりと言葉を紡ぐ。
 まるで睦言を囁くようにその言葉は優しい。いや実際、言葉だけ考えるなら、それはただの睦言だろう。だが、それが恐ろしい呪文のように聞こえるのは何故だろう。部員達の背中を、冷たい汗がだらだらと流れてゆく。
「──うん。ふじせんぱい──」
 そう答えるリョーマは何処かおかしかった。目の焦点が合っていない。何処かうつろで、まるで、操られているかのような……。
 にやり、と不二の口元が妖しい笑みの形に吊り上げられるのを、部員達は確かに見た。そしてあまりの恐ろしさにメデューサの首を見たかのように固まってしまった。
 何故そう見えるのかはいまだに謎のままの赤い瞳を見開いて、妖しげな笑みを口元に浮かべる不二は、まさしく『悪魔』──いや、『魔王』だった。
 しかしその次の瞬間には、すべては幻だったかのように、瞳はまた笑みの形に閉じられ、口元はいつものアルカイックスマイルに戻っていた。
「じゃあリョーマ君、帰ろうか」
 まるで何事もなかったかのように、不二は言った。
「そうっすね」
 答えるリョーマの様子もいつもと変わりない。いつのまにか、不二の恐ろしさに目が釘付けになっているあいだに、リョーマの様子も元に戻っていた。さっき目の焦点が合っていなかったのさえ、嘘のようだ。
((((……今のは一体……))))
 一部始終を見ていた、見たくはなかったが目撃してしまったレギュラー達は皆そう思った。だがそれを口に出せるものなど数少ない。2年生レギュラーなどは呼吸困難になりそうなほど恐怖に固まっていたし、3年生でも不二に口出しできるつわものは、手塚と菊丸くらいだった。
 その中で、勇気ある、というより怖いもの知らずの菊丸が、帰ろうと鞄に手をかけているリョーマに尋ねた。
「なあおチビ……。ルドルフの観月さあ……」
 話し掛けられたリョーマは、きょとんと目を丸くした。
「? ミヅキ? 誰っすか、それ」
「あ? 誰って、今話してたばっかじゃんか。今日コートに白薔薇抱えてきただろ?」
「はあ? 何言ってんすか菊丸先輩。夢でも見たんじゃないすか」

「「「「!!??」」」」

 かみ合わない会話に、レギュラー陣の中を驚きと疑問符が飛び交う。
 リョーマは本当にわからないらしく、首をかしげている。そう、今日コートで、観月に会ったときのように。演技などにはとても見えない。
 多分リョーマは、本当に知らないのだ。観月のことを。
 ほんの数分前、自分の口から話題にしていた人物であるにもかかわらず。
 そう、少なくとも今のリョーマは、観月を、知らない。
 ……ということは。
 消えてしまったのだ。記憶から。
 リョーマの中から、『観月はじめ』の記憶が消えている。
 ほんの数分前までは認識していたのに。
((((……不二……))))
 みんな冷や汗をかきながら、恐る恐る、視線を元凶と思われる男へと向けてみた。
「どうしたんだい皆。僕の顔なんか見て」
 世間的には『美しい』と評されている美貌が、淡い笑みを浮かべてそこにある。
 笑顔だ。そうそれは笑顔だ。だが何故こんなにも怖いのだろう。皆の流れる冷や汗の量が、加速度的に増えてゆく。このままなら、皆の汗を全部集めれば、冷や汗風呂くらいは作れるかもしれない。
 ここには誰もテレパスなどいない(はずだ)。だがみんなの脳裏にははっきりと声が聞こえた。
(リョーマ君に余計なこと言ったらどうなるか……わかっているよね?)
 それは決して幻聴ではないだろう。そしてそれは比喩でも大げさでもなく、言葉どおりに実行されることなのだろう。
「不二先輩。帰ろ」
 てこてこと歩いてくるリョーマに、ぱっと不二は笑顔になった。
 いや、さっきも笑顔ではあったのだが、さっきのものとは種類が違う。恐ろしさはナリを潜め、慈しむような優しげなまなざしと笑みがただひとりに注がれる。
「そうだね、帰ろう。みんなお先」
「お疲れさまっす」
 ふたりは軽く挨拶をすると、そのまま部室を出て行った。
 ふたりが去った部室内では、だがいまだいやな沈黙が落ちていた。
(……そういえばあいつ、千石のことも知らないとか言っていたけど、あれももしかして……)
(越前が、人の顔と名前を覚えないだけかと思っていたら、こんな真相だったとは……)
(ていうか不二……)
(魔術……?)
(なんかあったら俺達も消されるんだろうなあ……)
 それはもう、記憶だけではなく、存在から消されてしまうのだろう。万一そうなったとしても、きっと犯罪として発覚することなどありえない。それ以前に、すべての人の記憶から消されて、何もなかったことになるのかもしれない。
「「「「…………」」」」
 前々から分かっていたことだった。青学テニス部には影の支配者がいて、命が惜しかったら絶対怒らせてはいけない相手がいることくらい。もう身にしみて分かっていた。
 けれどこのとき彼らはその誓いをもう一度強く噛み締め、胸に刻み込むのであった。


 END