ラプンツェルの塔 〔2〕


 ぼんやりと、リョーマは暗くなった家への帰り道を歩いていた。
 頭の中には、つい数十分前に不二に言われた言葉が、頭の中を回っていた。
『君が好きなんだ』
 その言葉は、うれしかったような気もするのに、同時に、心はこれ以上ないくらいに冷えていた。
 不二のことはテニスのうまい先輩として尊敬していて、それ以上もそれ以下でもないと言ったが、それは本当はすこし嘘だった。本当は、ほんの少しだけ『それ以上』で、『それ以下』だった。
 いつもやわらかな物腰で、テニスだけでなく勉強でもなんでもそつなくこなす彼に、あこがれていた。そして、それと同じくらい、妬んでいた。リョーマは彼がうらやましかった。
 たとえ『テニス』という枠を外れても、彼なら多くの者に好かれるだろう。──リョーマとは違って。
(どうせ)
 不二自身にも告げたことだが、リョーマはその気持ちを信じていない。たとえ今はそうであったとしても、すぐに変わると思っている。
 別に、どこぞの夢見る乙女のように『永遠の愛』がどうだこうだ、というわけではない。そんなものはあるかもしれないし、ないのかもしれない。それはどうでもいい。ただ、リョーマは自分に向けられる好意が、ずっと続くとはどうしても思えないのだ。
 リョーマはまだ若干12歳だが、告白というものはすでに何度か受けていた。さすがに数え切れないほど、という数ではないが、一度や二度ではない。その中には異性だけでなく、同性からの告白もあった。けれどそれを受け入れたことは一度もない。
 性別や、相手の性格や容姿や、そのほかもろもろのことではなく、告白してきたすべての相手に対して、その気持ちが信じられないのだ。不二に対しても思ったように、どうせすぐにその気持ちは変わるだろうと思っている。どうせすぐに愛想を尽かすだろうと。いつか飽きられて捨てられるなら、だったら、はじめから付き合わないほうがいい。
 ずっと、リョーマはそう思っていた。そして今でもそう思っている。

『弱い君など、誰も愛しはしないよ。──僕以外は』

 やわらかな笑顔、優しい口調で告げられたその言葉。
 今もその言葉が、胸の奥に張り付いている。まるで、束縛の呪文のように。
(知ってるよそんなこと、徳川さん)
 きっとそのうち、不二も気付くだろう。リョーマがただの、わがままで傲慢な子供だと。好きだと思ったのは、ただの錯覚であったと。そうして、離れてゆくのだろう。あのひとが、言ったとおりに。
『……君が、好きなんだよ。本当に、本当に、君が好きなんだ』
 不二の言葉を思い出す。いつも余裕綽々の彼が、どこか力なく、泣きそうにさえ見えた。それを思い出すと、ほんのすこし、心が痛んだ。
 けれどリョーマは、それを頭から追い払う。
 どうせ、今その気持ちが真実だとしても、程なくそれは、変わってゆくだろう。それならそんなものを信じるだけ無駄だ。リョーマが傷つくだけだ。
 胸の痛みごと、リョーマは不二の影を追い払った。



 次の日も、前日に引き続いての晴天だった。屋外活動が主体のテニス部にとっては部活日和といえるだろう。試合が近いこともあり、まだ朝早い時間だというのに、テニス部の面々はすでにコートにそろい、朝練の準備をしていた。
 リョーマもコート脇で準備体操をしていると、不二が笑顔で近寄ってきた。
「リョーマ君。一緒に柔軟やらない?」
 リョーマはすこし驚いて不二を見つめた。
 不二からの告白に、リョーマははっきりと拒絶の意を表わした。そのあとの曖昧なやりとりで、付き合うことになったんだかなっていないんだか、リョーマ自身にもよくわかっていない。だがどちらにしろ、リョーマは不二を振ったのだ。
 普通そんなふうに拒絶されれば、しばらくはその相手に近づきたくないと思うものだ。特に、不二のように何でも出来て、今まで振られたことなどないような人間は。
 だからきっと、不二はリョーマを避けるのではないかと思っていたのに。彼は自分からリョーマに近づいてきたのだ。
(なんで?)
 きっと避けられて、そのうちうやむやになって、終ると思っていたのに。
「……結構です」
「でもほら、もうみんなペア組んじゃってるから、残っているの僕だけだよ」
 まわりを見れば、レギュラー陣はみなすでに二人組になって柔軟をはじめていた。レギュラーは一般部員とメニューが違うから、レギュラー同士でやるのが一番よい。となると、作為的にか無作為なのかは分からないが、これでは不二とやるしかない。
「……ヨロシクオネガイシマス」
「そんな、嫌そうな顔しないでよ」
 仕方なさげなリョーマの様子に、不二が困ったように笑う。
「別に嫌じゃないけど……不二先輩のほうこそ、俺とやるの嫌じゃないの?」
「まさか。僕は嬉しいよ」
 不二は本当に嬉しそうに笑う。それは、常に彼がたたえている仮面のようなものではなくて、リョーマはそれに見惚れた。
「すこし、意外」
「? 何が?」
 リョーマのちいさな呟きを、不二は聞き取って尋ねてきた。
「不二先輩は、すぐあきらめるひとかと思ってた」
 あきらめる、というのともすこし違うかもしれないが、彼は、手に入らないものがあるなら、それはそれでいいと思うタイプかと思っていた。
 よく、追いかけられるより追いかけたい、相手が逃げるほど燃える、というタイプのひともいるが、いつも飄々とした不二はそういうタイプではないかと思っていた。
 なんでもそつなくこなす彼は、あまり『努力』という言葉が似合わない。なんでもさらりとこなしてしまうように見える。いや実際、そうなのだろう。才能でも容姿でも家柄でも、彼は何でもそろっている。ほとんどのものが努力せずとも手に入る。だからこそ、執着とは無縁のように思えた。たとえば持っていたおもちゃが壊れても、すぐに他の新しいおもちゃを手に入れることができるから、それが壊れたことなどすぐ忘れてしまう子供のように。
 だから、リョーマに振られたところで、特に執着などせず、すぐに忘れてしまうのかと思っていた。彼ほどの男なら、黙っていたって、女の子たちのほうが放って置かないだろう。どんなかわいらしい少女も妖艶な美女も、すぐにモノにできるだろう。
「僕ってそんなふうに思われていたんだ……まあ、あんまり否定はできないけど」
 柔軟のため、リョーマの背中を押しながら、不二は言葉を続ける。
「今まで僕は、君の言う通り、あんまり執着したりしないから、たいていのものは手に入ったし、たまに手に入らなくてもまあいいかって、思ってたんだ」
「…………」
「でも君が、好きなんだ。君が僕のことをなんとも思っていなくても、君を好きってこの気持ちは、どうしても消えないんだ」
 不二には背中を向けているから、リョーマには彼がどんな表情をしているのか、見ることはできない。
「だから、努力しようと思って。君が僕のこと、好きになってくれるように。君が僕の気持ちを信じてくれるように。──迷惑、かな?」
「────」
 リョーマの胸が小さく痛む。今まで告白は何度もされたけれど、こんな気持ちになったことははじめてだった。
 どうしてこんな気持ちになるんだろう。
 不二の気持ちを信じたわけではない。いつか変わるだろうという確信に似た気持ちは、相変わらずリョーマの胸にある。
 それでも。

「────試合、しようよ。不二先輩」

 不意にそう言って、リョーマは立ち上がった。
「えっ?」
 まだ柔軟だって途中だし、練習メニューは別に決まっている。それなのに急にそんなことを言い出したリョーマに不二は目を丸くする。
「リョーマ君?」
「試合、しよう」
 かたくなな子供のように、リョーマは繰り返した。
『弱い君など、誰も愛しはしないよ』
 胸の奥に張り付いたままの言葉。
 知っている。弱い自分は愛されない。だけど、強い自分なら、テニスの強い自分なら。テニスをしている自分なら。
(テニスをしてる俺なら、不二先輩も)
 それがいつまで続くか分からないけれど。
 いつか変わる気持ちならば、それが少しでも長く続けばいいと思った。


 To be continued.

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