輪舞曲 5


 リョーマの婚約指輪を買おうと言い出したのは、手塚のほうだった。
 ふたりは婚約しても、まだ指輪を買っていなかった。世間では婚約したら指輪を贈ることは一般的だが、どうしてもしなければならないことではない。だからリョーマは別に必要ないと思っていたし、手塚もそうだと思っていたから、この突然の申し出に驚いた。
「指輪なんて、別にいいのに」
 そう言うリョーマに、手塚はめずらしく強い口調で返した。
「俺が贈りたいんだ。リョーマはいやか?」
「やじゃないけど、でも……」
 手塚家の婚約指輪となれば、偽物の宝石を使った安物などではなく、宝石も細工も一流の高価なものを買うことになるのだろう。光物の大好きな少女達なら目を輝かせて喜ぶのだろうが、リョーマは特に宝飾品などに興味もないし、欲しいとも思わない。むしろ、わざわざそんな高価なものを買わせてしまうことが申し訳ないような気持ちだった。
 そんなリョーマに彩菜がこっそりと耳打ちした。
「もらっておきなさい、リョーマ。国光はね、あなたが自分のものだって、みんなに自己主張したいのよ。ふふっ、子供よね」
「国光が?」
 リョーマはすこし驚いた。手塚がそんなことを考えているとは思わなかったのだ。指輪を買おうと言い出したのは、せいぜい、世間一般でやることだから自分たちもやらなければいけないと思っているとか、そんな気持ちかと思っていたのに。
 5年も一緒に過ごしてきたが、、意外と手塚の独占欲が強いことをはじめて知った。
 そう彩菜に告げると、彼女は笑って頷いた。
「そうなのよね。普段あんまり物にも人にも執着しないし、なんでも飄々とこなしちゃうからまわりからは冷静沈着とか思われているけど、本当は人一倍独占欲が強いのよ。──特にリョーマに関してはね」
 からかうように言われて、リョーマはわずかに頬を染めた。
 彩菜に諭され手塚がはっきりとリョーマに気持ちを告げたあの日以来、手塚はリョーマへの想いをことあるごとに告げてくるようになった。それは家族や友人の前でも同様で、嬉しくはあるのだけれど、慣れないリョーマにとってはまだ気恥ずかしいものだった。
 リョーマのことが好きだと、大切だと、手塚はまっすぐに伝えてくる。生真面目な彼のことだから、きっと今までもそう想っていたのだろうが、うまく気持ちを告げられなかったり、告げていいのか迷っていたのだろう。そんな不器用さも愛しいと思う。
(国光)
 手塚の愛情は、ぬるめの湯に身を浸すような、やわらかな肌触りの毛布に包まれるような、あたたかな気持ちにしてくれる。リョーマをやわらかくくるみこんで、うっとりと目を閉じていたい気持ちにさせる。
 ──あの、痛みすら伴いそうな熱さはないけれど。
 そう考えて、リョーマは瞬間的にその考えを頭から振り払った。
 もう考えないと決めたのだ。リョーマは手塚を愛し、手塚だけを見て生きていこうと決めたのだ。何かと比べる必要などない。ただそれが唯一のものであればいいのだ。それ以外の感情など、固く鍵をかけて、水底に沈めて。
 指輪の存在は、ちょうどいいのかもしれない。それがあれば、周囲にリョーマは手塚のものだと知らしめるだけでなく、リョーマ自身にもそれを分からせてくれるだろう。
「国光」
 リョーマは手塚に近づいて、そっと袖をつかんだ。
「俺、指輪のこととかよくわかんないけど、変なの贈ったら怒るからね」
「もちろんだ。おまえに似合う最高の指輪を贈らせてもらう」
 手塚はリョーマの左手を取って、薬指の付け根にくちづけた。
「国光」
 握られた手を、リョーマも強く握り返す。
 それが合図のように、そっと手塚に引き寄せられた。



 その次の週、早速指輪を作るために、リョーマは手塚とともに出かけた。
 まだ冬の気配が強く残る街並を並んで歩く。ふたりは身長差ゆえに歩幅も違って、すこしだけ手塚の歩調のほうが早い。それに合わせるために、リョーマはほんのすこし早足になってしまう。
「ねえ国光。どこ行くの?」
 手塚の隣に並び、見上げるようにしてリョーマは尋ねた。指輪を買いに行くことは分かっていたが、何所へ行くのかは知らされていなかった。
 てっきり街の宝石店か老舗のデパートにでも行くのかと思っていたが、どんどんと歩いていく手塚は、いろいろな店が建ち並ぶ街の賑わう一角を抜けてしまった。ここから先には店はあまりなく、普通の屋敷が並ぶばかりになってしまう。一体何処へ行くのだろう。
「もうすぐだ」
 手塚はそれにははっきりとは答えず、どんどんと住宅地を進んでゆく。仕方なく、リョーマもそれについていった。おおきな屋敷が立ち並ぶ高級地の中をどんどんと歩いてゆく。
 やがて手塚は、ある屋敷の前で、足を止めた。
「着いたぞ。ここだ」
「ここ?」
 示された家に、リョーマは首をかしげる。
 それは手塚の家と同じくらいに大きく立派な洋館だった。レンガ造りの壁には蔦が伝い、窓枠には繊細な装飾が施されている。門から見える庭には、大理石のオブジェとベビーローズの花壇が見えた。まるで、おとぎ話のお姫様がひっそりと隠れ住んでいる館のようだ。とても美しい。
 だが、どう見ても、ここが何かの店を開いているようには見えない。
「国光。ここが宝石屋なの?」
「いや、そういうわけではないんだがな」
 言いながら、手塚はおおきな門の前でインターホンを押し、インターホン越しに対応に出た相手と二言三言話した。そして数秒も待たないうちに、門の先の玄関が開いた。
「いらっしゃい、手塚、リョーマ君」
「!?」
 ぼんやりと屋敷の美しい庭を眺めていたリョーマは、突然聞こえた聞き覚えのある声に、弾かれたようにそちらを見た。
 そこにいたのは、不二だった。ラフな格好をした不二が、扉を開けて招いている。
 リョーマは目を見開く。何故こんなところに不二がいるのだろう。
「あれ? リョーマ君びっくりしてるね。手塚言わなかったの? ここは僕のうちなんだよ」
 リョーマの驚いた顔を見て、くすりと笑って不二が答えてくれる。
 ここが不二の家だということは分かったが、何故指輪を作りに不二の家へ来なければならないのだろう。疑問に満ちた視線を手塚に向けると、それに手塚が答えてくれる。
「おまえに贈る指輪のデザインを、不二の姉の由美子さんに頼んだんだ」
「僕の姉さんは宝石デザイナーをやってるんだよ」
 手塚の足りない言葉を補うように、不二が説明してくれる。
 それによると、リョーマはあまり装飾品などに興味がないから知らなかったが、不二の姉の由美子は、有名な宝石デザイナーとして世界に名を馳せているそうだ。そして、リョーマに最高の指輪をと思った手塚が、不二を介して、由美子に指輪のデザインを頼んだということだった。
 本来なら、高名なデザイナーである由美子への依頼は、予約をして何年も待たなければいけないのだが、今回は特別に作ってくれることになったそうだ。
「無茶を言って悪かったな、不二」
「ううん。姉さんにリョーマ君の写真を見せたら、ひとめで気に入っちゃってね。ぜひ自分が作りたいって言い出したんだよ」
 その言葉に、手塚の片眉がぴくりと動く。
「……待て不二。何でおまえがリョーマの写真を持っているんだ?」
「この間のパーティのときに乾が撮ったんだよ。もらった写真の中にリョーマ君のも入っててね」
「乾め……」
「乾だけじゃないよ。手塚は女の子たちに囲まれてたから知らないだろうけど、リョーマ君、結構写真撮られてたよ」
 リョーマ自身も、乾にもその他の人間にも写真を撮らせた記憶はない。一体いつの間に撮られたのだろう。きっと、よっぽど『手塚の婚約者』がめずらしかったに違いない。
 眉間に深くしわを寄せる手塚に、不二がからかうように言う。
「手塚、写真くらいで怒らないでよ。いいじゃない、君はリョーマ君本人を手に入れられるんだから。他のひとには写真くらいあげたって」
「断る」
「あはは。手塚怖いなあ」
 普通の相手なら怯んでしまいそうな手塚の様子にも、不二は動じることなく笑って受け流す。たとえ数年間会っていなかったとしても、すぐにこうして親しく言葉を交わせるというのは、この二人は、タイプは違うようだが、やはりよい友人同士なのだろう。
「さ、中に入って。姉さんも待ってるよ」
 不二に案内され、居間へと通される。
 家の中も外観と同じく、繊細な洋風の造りになっていた。柱の細工や何気なく置かれたアンティークの置物が美しい。
 居間ではすでに由美子が待っていた。
 由美子は不二に似た、きれいな女性だった。その指や耳元に飾られた宝石は、美しいデザインでとても由美子に似合っていた。それだけでなく、宝石が目立ちすぎず、けれどつけている人を引き立たせるような絶妙なものだった。おそらく彼女自身がデザインしたものだろう。それだけでもデザイナーとしての彼女の腕の良さが分かった。
「はじめまして、リョーマ君。写真で見るよりずっとかわいいわね」
 由美子はソファから立ち上がってリョーマ達を傍へ招くと、リョーマの顔を覗き込むように見つめてきた。リョーマは幾分緊張する。
「は、はじめまして」
「由美子さん。今回は無理を言ってすみませんでした」
「いいのよ。周助の昔からの友達の頼みだし。何よりこんな可愛い子のためだったら、ただでも引き受けちゃうわ」
 少女のように悪戯っぽく笑う由美子はとても可愛らしかった。それを見て、リョーマの緊張も解けていく。こんなところも、由美子の腕のひとつなのかもしれなかった。
 上質な革張りのソファに向かい合わせに座って、早速指輪のデザインを決める話し合いがはじまる。
「リョーマ君はどんな指輪がいい?」
「えっと……」
 はじめに由美子に尋ねられて、リョーマは困って言葉を濁した。
 リョーマは宝飾品には興味がないから、どんなものがいいかと訊かれても、何も思い浮かばないのだ。どんなことを答えればいいかも分からない。それに気付いた不二が、助け舟を出してくれる。
「リョーマ君。こんなデザインがいいとか、この石を使いたいとか、あとはシンプルなものがいいとか目立つほうがいいとか……具体的なことじゃなくてもいいんだ。好きな色とか、ぼんやりしたイメージでもいい。何でも言ってみて?」
「ん……と。スポーツとかするし──できれば、そんなに派手じゃないのがいい。大きいのとかも嫌かな。ほら、よく厚化粧したオバサンが両手にギラギラすっごいでかいのとかつけてるじゃん。ああいうのはやだな」
 リョーマにとって宝石というと、その程度のイメージしかないらしい。そんなかわいらしいリョーマの様子に由美子は微笑むと、手塚のほうを見た。
「じゃあ、贈り主のほうは何か注文あるかしら? 手塚君」
「俺もあまり宝石などは詳しくないんだ」
 宝石に興味がないのは手塚も同じらしい。めずらしく困ったような顔をしていた。
「じゃあこっちで、リョーマ君に似合いそうなのをデザインするわね。リョーマ君ちょっと手を出してくれる?」
 リョーマは素直に左手を差し出した。
 由美子は差し出されたリョーマの手を取って、じっくりと眺めている。時折形を確かめるように指でなぞったりしている。何気ない行為だが、由美子の目は驚くほど真剣だ。
 単に手といっても千差万別、指の長さや太さは人によって大きく違っている。それによって似合う指輪が決まる。幅の細い指輪が似合うひともいれば、おおきな宝石のデザインが似合わないひともいる。由美子の仕事はそれを見極め、その人に一番似合う指輪をデザインすることだ。
「リョーマ君の指って細いけど意外としっかりしてるのね。それに色も白いし、これなら、そうね……プラチナのリングに蒼い石なんてどうかしら? 細身のリングをすこし波打たせて、そこに石をはめ込んだら……」
 なにかいいイメージでも浮かんだのか、由美子は近くに用意していた紙に、簡単なデザインのイメージを描きはじめた。その様子は真剣で、誰も声をかけられない。
 由美子がデザイン画を描いているのを興味深く見つめていると、いつのまにか席を立った不二が、リョーマの隣に来ていた。不二は手に、鍵束のようにまとめられた、サイズを測るためのリングを持っていた。
「リョーマ君、指のサイズ測るから、左手出してくれる?」
「あ、はい」
 差し出された不二の手に、リョーマは左手を乗せる。
 不二はリョーマの手を取ると、その薬指にそっとリングを通した。まるで、結婚式で、花婿が花嫁に誓いを込めてその指に指輪を通すかのようなうやうやしさで。
「ああ、ちょうど9号だね」
 数度試すこともなく、たった一度で、リングはリョーマの左薬指にぴたりとはまった。
(もしこれが、本物の指輪だったら)
 サイズを測るためだけの、黒ずんだただの金属の輪っかでなかったなら。そうだったなら──どうだというのだろう。
「9号でぴったりだけど、でもリョーマ君成長期だから、すこし大きめに作っておく?」
「いや、3年後には結婚指輪に作り直すから、そう問題ないだろう」
 手塚の言葉に、リョーマは現実に引き戻される。
 そうだ。リョーマは手塚の婚約者なのだ。そして、手塚だけを見て生きていこうと決めたばかりだ。そう決めたのに、すぐに揺らいでしまう自分の心が、すこし恨めしかった。
 その想いには、固く固く鍵をかけて、心の奥深くに沈めたはずなのに。それなのに、いまだ水面を揺らしてくる。
「まだイメージだけなんだけど、こんなのどうかしら?」
 由美子が、描き上がったばかりの数点のデザイン画を見せてくれる。それはどれもがその才能を示すような美しいデザインだった。
「まだ完成じゃないんだけど、どっちのほうがいい?」
「えっと……」
 リョーマは並べられたデザインを前に迷う。どれもすばらしいデザインで甲乙つけがたいし、どれがいいかと訊かれても特に選べない。
「リョーマ君には、こっちのデザインのほうがいいんじゃない?」
 不意に横から腕が伸びて、並べられたデザイン画のひとつを指した。
「うん──俺も、それがいいと思う」
「わかったわ。まだすこしデザイン変更するところもあると思うけど、基本はこのデザインでいくわね」
「よろしくおねがいします、由美子さん」
 手塚は律儀に頭を下げる。
「どういたしまして。私もリョーマ君みたいな可愛い子のためだったら創作意欲が刺激されていいわ。指輪はそうね……出来上がるまで2週間くらいかしら? できたら連絡するわね」
 由美子はさすがに世界的なデザイナーであるだけあって忙しいらしく、もっとリョーマと話がしたかったと名残惜しみながらも、仕事のためにすぐに出かけていった。
 リョーマ達も、用事は済んだので、帰ることにして席を立った。
 不二は門までリョーマ達を送ってくれた。不二の屋敷を出てまだすこししか歩かないところで、リョーマは自分から甘えるように、手塚の腕に自分の腕を絡めた。
「国光。指輪ありがとう」
 きっと、門まで見送ってくれた不二が、まだ見ているだろう。わざとその姿を不二に見せつけるように。自分自身に言い聞かせるように。心の水底に沈めた想いが、浮かび上がってこないように。
「おまえに気に入ってもらえてよかった」
 甘えるようなリョーマに手塚が相好を崩す。
「早く指輪できるといいな」
「うん」
 手塚とリョーマの、婚約指輪。それは周囲にリョーマが手塚のものであると知らしめると同時に、リョーマへの戒めだ。リョーマは手塚のものなのだと、リョーマ自身に知らしめるためのもの。
 早く指輪ができるといい。そうして、自分を縛り付けてくれればいいと思う。もう何処へもいけないように。他のことなど、考えられないように。
 リョーマはきつく、目を閉じた。


 To be continued.

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