妄想劇場 <不二家の人々>


「裕太。5位決定戦頑張って。聖ルドルフが関東大会に進んだら、今度こそ試合やりたいね」
 都大会前半戦の閉会式のとき、裕太に、隣に並んだ青学の列から兄である不二周助が話し掛けてきた。
 いつもの裕太なら、無視を決め込むか皮肉を返すかで、まともな返答などしなかっただろう。だがしかし、今の裕太はすこし違った。
「俺はそれより手塚さんとやりたいよ」
 口調はまだどこか尖っているものの、まともな返事を不二に返した。それに、口調が尖っているとは言っても、子供が拗ねているような、照れ隠しのような、かわいらしいものだった。
 そんな裕太の変化に、不二も少し驚いたような顔を裕太に向けた。彼も、こんなふうにまともな返事が返ってくるとは思っていなかったのだろう。
 今日の試合で、裕太は、兄の後輩にあたる1年生に負けた。試合内容だけみるなら、ボロクソに負けた。けれど、それはいろいろな意味で、とてもいい試合だった。
 対戦相手の生意気な1年生はちょっと小憎たらしくもあったのだけれど、彼のおかげで、テニスは楽しいのだということを、久しぶりに思い出すことができた。精一杯戦ったという充実感もある。まるで、テニスをはじめたばかりの、純粋だったころのような気分だ。
 いつもいつも裕太を縛って、『本当のテニス』から裕太を遠ざけていた兄へのコンプレックスが、ほんのすこし緩和され、とてもいい気分だった。
(あいつのおかげかな)
 それが意識的なものであったにせよ無意識的なものであったにせよ、暗い沼にはまりかけていた裕太を救ってくれたのは、紛れもなく越前リョーマだった。
 裕太は目線をほんのすこし後ろへ投げる。隣の列の後方には、リョーマが、長すぎる大会主催者の話に飽きたのか、つまらなそうな顔をして立っていた。
(関東大会に進んだら)
 また青学のメンバーに──越前リョーマに会う機会ができるだろう。手塚と試合をしたいというのも事実だが、リョーマとももういちど戦ってみたかった。いや、別に試合でなくてもいいのだ。この生意気な青学ルーキーと、またかかわることが出来るなら。
 裕太は自分でも無意識のうちに、じっとリョーマを見つめていた。だから、それを面白くなさそうに不二が見つめていることに、気付かなかった。
「裕太。今日家に寄って帰るよね?」
 不意に、不二がそんなことを言ってきた。
「断る……」
「母さんが好物のかぼちゃ入りカレー作って待ってるよ。姉さんだってラズベリーパイ焼くって言ってたなあ」
「う……」
 畳み掛けるような兄の言葉に、裕太は言葉に詰まる。
 どんなに強がって見せても、結局は裕太だって、まだ14の子供なのだ。ずっと寮暮らしで、寮生活は楽しいとはいえ、家族が恋しくなることだってある。最近は部活も忙しく、春休み以来一度も家には戻っていない状態だった。
(……まあたまにはいいかな)
 明日から5位決定戦へ向けての猛練習が始まるだろうが、家で夕食を食べてから寮に帰ってもそう遅くはならないはずだ。明日からの英気を養うという意味でも、家に寄るのも悪くないかもしれない。それに今まで家を避ける原因だった兄へのコンプレックスも、すでに消えかけている。
 だから裕太は、家に帰ることにした。
 それがどんなに愚かなことだったか、思い出しもせずに。



 閉会式は一緒とはいえ、そのあと各学校で連絡事項や反省会などがあるから、当然帰る時間は学校ごとにバラバラになる。
 関東大会への切符をすでに手に入れた青学は、ミーティングを早々に切り上げたらしいが、これからの5位決定戦に関東行きがかかるルドルフの反省会は、いつもより長引いた。やっと反省会が終わったときには、すでに青学部員の姿は会場のどこにも見られなくなっていた。不二周助も、すでに先に帰ってしまったらしい。
(なんだよ兄貴のやつ。待っててくれてもいいじゃねーか)
 別に一緒に帰ろうと約束していたわけでもないし、ひとりじゃ帰れなんてことはもちろんないわけだが、そう思ってしまうのは仕方のないことだった。
 裕太は同じ寮生である柳沢や木更津に家へ寄る旨を伝えると、ひとりで家路を急いだ。
 今日は久々の我が家だ。帰ったら、母はどんな顔をするだろうか。きっと帰ることは、先に家に着いている兄がすでに伝えているだろうが、急に帰ってきたことに驚きながらも喜んで迎えてくれるだろう。
 久しぶりのあたたかな我が家を想像して、帰る道ゆき、裕太は頬がゆるまずにはいられなかった。なんだかんだ言っても、彼は純粋な中学2年生だった。
 家に着き、玄関前まで来れば、好物のかぼちゃ入りカレーのよい香りが漂ってくる。ますます頬がゆるみそうにはなるが、そこはやはり意地っ張りな性格ゆえに、わざとしかめ面を作ろうとする。
「……ただいま」
 照れ隠しも含めて、裕太はすこしぶっきらぼうに言いながら、玄関のドアを開けた。
「あらっ。裕太!?」
 たまたま廊下を歩いていた姉の由美子が、帰ってきた裕太の姿に目を丸くした。
「ちょっとお母さん。裕太が帰ってきたわよ」
「本当? あらあら。帰ってくるなら連絡くらいくれればいいのに」
 由美子は本当に驚いたように、奥に向かって声をかけた。同じように驚いた様子の母がエプロンをつけたまま、裕太を迎えに出てくる。
(……あれ?)
 母と姉の様子に、裕太は首をかしげる。今日家に寄ることは、先に帰った兄が、伝えてくれたのではないのだろうか。もしかして兄より早く家に着いてしまったのだろうか。
 しかしふと見ると、玄関のたたきには兄の靴があった。ということは、兄はすでに帰ってきてるはずだ。
 そしてその隣には見慣れぬスニーカーもある。
「…………?」
 裕太は首をかしげる。これは誰の靴だろう。兄のものではない。それにしてはサイズが小さすぎる。
「ねえアンタ、夕飯食べていくつもり?」
「……そのつもりだけど」
「やだ〜アンタの分ないわよ」
「ないって……だって兄貴が…………」
 姉の言葉に、言葉をなくす。母を見れば、母も困ったような顔をしている。突然増えた裕太の分の夕食をどうすればいいか考えているのだろう。
 なんだか自分が想像していたのとずいぶん様子が違う。一体これは、どういうことだろう。
 裕太がダイニングへ行くと、そこにはすでに夕食の準備が整い、あとは食べるだけの状態になっていた。おいしそうな、かぼちゃ入りカレーの匂いが満ちている。
「あれ? 裕太帰ってきたんだ。おかえり」
 ダイニングテーブルには、すでに部屋着に着替えた不二周助が悠然と座っていた。
 だが裕太の視線はその隣に釘付けになる。
 そこには何故か、つい数時間前に、自分と戦った1年生ルーキーがいるのだ。
「…………何でこいつがいるんだ?」
「え? リョーマ君? いつも来てるわよ」
 裕太の問いに、由美子が当たり前のように答えてくれる。
「今日はリョーマ君のためにかぼちゃ入りカレー作ったのよ。このあいだおいしいって言ってくれたでしょう? たくさん食べてね」
「ラズベリーパイもあるからね。後で一緒に食べましょうね、リョーマ君」
「どうもっす」
 嬉々とした笑顔で、母親がリョーマの前によそったカレーを置く。その食器は裕太が見たことのないものだ。もしかしてリョーマ用の食器なのだろうか。
「さ、リョーマ君食べようか。今日リョーマ君は大活躍だったもんね。おなかすいたでしょう?」
 不二は、裕太が見たこともないような優しげな笑顔で、これまたリョーマ専用なのではと思われるスプーンを、わざわざリョーマに差し出してやる。
 自分を抜かして進められる『家族団欒』の様子に、裕太は慌てて兄に向き直った。
「兄貴! 今日俺が来ること言ってないのかよ」
「言ってないよ。だって裕太なんにも言わなかったじゃない」
「なっ……! でも……!」
 反論しようとした言葉を、裕太は飲み込む。
 確かに、『家に寄って帰るよね?』という兄の言葉に結局はっきりした返事はしていないままだった。そして(越前リョーマのために)母と姉がカレーとパイを作って、(越前リョーマを)待っているという事実が述べられただけである。
 不二はひとことだって『裕太のために』とか『裕太を待っている』なんて言っていない。
 いやそれは、意図的に言わず、なおかつわざと裕太が誤解するような言い方をしたのだろう。
 そうだ、何故分からなかったのだろう。
 兄がこういう奴だったと!
(観月さん……! 柳沢さん……! 木更津さん……!)
 裕太は心に、聖ルドルフ学院の皆の顔を思い浮かべた。
 他校から見てどんなに腹黒そうに見えようと、変なひとに見えようと、彼らは裕太にとっては優しい優しい仲間だった。不二周助の腹黒さに比べれば、観月などちょっとひねくれた天使のようなものだ。
 優しい彼らに囲まれた生活がしあわせすぎて、忘れてしまっていたのだ。
 この兄が、どんなに腹黒いかを……!!
「兄貴のバカやろーー!!」
 裕太は思わず子供のような捨て台詞を吐いて、滝のような涙を流しながら、不二家をあとにしたのだった。



「あ〜あ、あんまり裕太いじめるんじゃないわよ、周助。かわいそうじゃない」
 走り去っていった裕太を見送りながら、由美子が不二に向けて言った。そうは言いながらも、由美子は酷く楽しそうだった。可哀想と思うなら助ければいいのに、結局は由美子も裕太をからかうのが楽しくて仕方がないのだ。
「あははははは。ほんと裕太っておもしろいよねえ」
 不二は反省した様子などカケラもなく、面白そうに笑っている。
 裕太にしてみれば、不二家に生まれてしまったことを、泣いて悔やむしかない。
「…………」
 カレーを食べていたリョーマが、きゅと不二の服の裾を握った。
「ん? どうしたの、リョーマ君?」
「別に…………」
 口ではそんなことを言いつつも、服を握った手は離れないし、どこか力なくうつむいている。不二が裕太をかまうことに、やきもちを焼いているのだ。その可愛らしい姿に、不二の頬は自然ゆるむ。
「大丈夫だよ。僕が好きなのはリョーマ君だけだからね」
「べ、別にそんなこと言ってないじゃん!」
「はいはい。ほら、カレーこぼしちゃうよ?」
 真っ赤になるリョーマの口元をそっと親指で拭って、指についたカレーをぺろりと舐める。どこか卑猥なその仕草に、リョーマは顔を紅くしてうつむいてしまう。そんな自分をごまかすように、すこし行儀が悪いけれど、カレーを意味もなくかき混ぜてみたりする。
 その様子が可愛くて、不二はやわらかくリョーマの肩を抱き寄せて、その頬にキスをひとつ落とした。
「──本当は、やきもち焼いていたのは僕のほうなんだよ?」
 秘密を告白するように、そっと耳元でちいさく囁く。
 いくら試合中とはいえ、リョーマと裕太が二人しか立ち入れない空気を作ったこととか、なんだかんだいって裕太がリョーマを気にかけていたこととか。
 今日の裕太への意地悪は、いつものからかいというよりは、牽制で。
 分かる?とちいさく囁けば、子供特有のまろやかな線を残した頬を、淡い紅色に染めたまま、リョーマはちいさくうなずいた。
 すでにふたりのまわりにはピンクのオーラが立ち込め、ふたりの世界に突入している。
 その様子を向かい側に座った不二の母親と姉が笑顔で見つめる。
「あらあら本当に仲がいいわねえ。早く16歳になって、リョーマ君がうちにお嫁にきてくれないかしらねえ」
「ほーんと。こーんな可愛い義弟ができるなんて嬉しいわ。リョーマ君今日泊まっていくんでしょう?」
 のほほんと交わされる会話がどこか間違っていることに、気づく者も突っ込む者もここにはいなかった。
 不二家に生まれてしまった不二裕太は不幸である。けれどそれ以外の不二家の人々はしあわせなのだった。


 END