輝ける星(2)


 太陽が月が、世界を照らしてくれなくてもいいのです。
 貴方という星が輝いているなら。
 たとえ世界が永遠の夜でも、私は歩いていける。
 ……貴方が輝いているなら。



 アンジェリークが重いまぶたを開くと、そこは見慣れた自分の部屋で、自分のベッドに横たわっていた。おそらくは、オスカーが運んでくれたのだろう。
 泣き過ぎたせいか、頭が鉛のように重く、鈍く痛んだ。
「目が覚めたか?」
 傍らにいたオスカーが、気づいて声をかけた。
「……オスカー」
「平気か? アンジェリーク」
 優しい手が、髪を撫でる。小さな子供をあやすように。
 オスカーの手は、普段は剣を握るものであるにふさわしく、骨ばった硬い手をしている。けれどこういうとき、それは無類の優しさにあふれる。まるで、無償で無条件の愛を注ぐ、母親の手のごとくに。
 アンジェリークは、この手が好きだった。この手にこうして触れてもらうのが好きだった。
 だから、この手を失くしたくなくて、引き換えに、アンジェリークは大陸を捨てたのだ。アンジェリークを天使と信じ、慕い、愛してくれた民を、捨てたのだ。
「何があったんだ?」
 いたわるように、そっと尋ねられる。
 翡翠の瞳からまた涙があふれた。言葉が胸に詰まって、うまく言葉を紡げなかった。オスカーはそんなアンジェリークから無理に聞き出そうとはせず、彼女が話しだすまで辛抱強く、そっと髪を撫でていた。
 その手にうながされるように、やがてアンジェリークは話しだした。
「あのね、エルンストさん……エリューシオンの民だったの……」
「!?」
 オスカーも、その事実には驚いた。
 エリューシオンとフェリシアは、試験後女王候補達の手を離れ、他の惑星と同じように扱われることとなった。エリューシオン自体の文明も上がったこともあり、他の惑星や文明との交流もはかられることになった。
 だから、かつてエリューシオンにいた民が、他の惑星にいてもおかしくはない。けれど、こんな身近にいるとは思わなかった。
「私が補佐官であることが許せないって……女王試験、放棄したことが、許せないって……。私、なんにも言えなかった……」
「…………」
 アンジェリークの気持ちを推し量ると、オスカーは言葉を失った。
 王立研究院の主任という立場上、エルンストは過去の女王試験のデータを目にしただろう。そこで知っただろう。自分達の天使が、試験放棄したという事実を。
 愛し、信じ、慕っていた天使が、自分達を捨てたのだということを。
 あの頃どれほど熱心に彼女が大陸の育成に励んでいたか知っている。大陸のことに一喜一憂して、ときには眠れない夜を過ごしたり、自分の危険も承知で大陸のために尽くしていた。
 アンジェリークは間違いなく大陸を、民を愛していた。
 ただ、大切なものが他にもあって、どうしてもそれを選べなかった。どうでもよかったわけでは、決してない。
 でもそんなことは、エルンストにしてみれば、同じことだろう。アンジェリークが試験放棄したことに変わりはないのだから。
「……アンジェリーク」
 アンジェリークの試験放棄に関しては、オスカーにも責任がある。
 守護聖という立場でありながら、女王となるべきだった女王候補を、その座から引き降ろしたのだから。
「君だけのせいじゃない。俺にも責任がある。俺が、君に試験を放棄してくれと頼んだのだから」
 その言葉を否定するように、アンジェリークは首を横に振る。こぼれてゆく涙が、量を増して、シーツに吸い込まれる。
「違う……貴方のせいじゃない……。私……もしも時間が戻って、同じ選択を迫られたとしても、私、きっとオスカーを選んでしまう。他を選べない。大陸を、民を選べない……」
「アンジェリーク……」
「私、エリューシオンの天使様なんかじゃなかった。ただの欲得ずくの人間だった。試験のために大陸を利用して、必要なくなったから捨てたのと同じ」
 いくつもいくつも、こぼれる涙が頬を伝う。
「私は……!」
「もう少し、休んだほうがいい」
 言葉をさえぎって、オスカーはアンジェリークのまぶたの上にそっと手を置いて瞳を閉じさせる。
 これ以上、彼女が自分を責める言葉を聞きたくなかった。傷ついていくところを見たくなかった。
「君が眠るまでずっと傍についているから、今は、もう少しおやすみ」
 空いている片方の手で、そっと金の髪を撫でる。こぼれてゆく涙を拭う。
「…………」
 優しいオスカーの手のぬくもりに、アンジェリークの意識はまた沈むように眠りに落ちてゆく。
 眠りに落ちる寸前の、意識と無意識の間で、想い出達が揺らめくように現われる。
『天使様!』
 かつての大神官の笑顔が、民達の笑顔が、水の上に花びらが落ちて波紋を描くように、アンジェリークの心に降ってくる。
 大陸エリューシオン。それは、女王試験のためだけに用意された大地だった。
 宇宙には、もっと高度に文明の発達した場所もあり、そこの力を借りればエリューシオンもフェリシアも、一気に発展できた。それをあえて一切遮断し、二人の女王候補の力によってのみ、発展が促されることになったのだ。
 何もない大地に放りだされた、発達した文明を持たない人々。
 雛鳥のようにか弱い彼らの庇護者はアンジェリークだった。彼らは自分達の元に舞い降りた天使の言葉を信じ、すみよい世界を目指して発展しようと頑張っていた。
 けれどそれは、本当は試験のためだった。アンジェリークにとって、どうすれば大陸が発展するか考えるというのは、チェスの次の手を考えるのと同じだった。大陸が発展するというのは、植えた鉢植えが芽を出し花を咲かせるのと同じだった。
 民達は、時には飢えに苦しみながら、寒さに凍えながら、それでも一歩ずつその手でその足で、荒野を耕し荒れ地を切り拓き、少しずつ少しずつ進んでいった。アンジェリークはそれを飢えることも寒さに凍えることもない高みから眺めて、時折ほんの少しのサクリアを送っていただけ。
 ただ、それだけ、なのに。
『見てください、天使様! 大陸はこんなに発展しました。天使様のおかげです!』
 何も知らない彼らは本当に純粋に、それを天使の恩恵と信じ、アンジェリークに感謝していた。
 自分を天使と信じ、慕い、愛してくれた民達。
 愛していなかったわけじゃない。大切だった。愛していた。一番ではなくても、アンジェリークは確かに、エリューシオンとその民を愛していた。
 でも、それがすべてにはなりえなかった。
 大陸のことだけを考えて、大陸のためだけに生きることはできなかった。



 私は。
 本当は、天使なんかじゃなかった。



 エリューシオンでは、天使に対する信仰は絶対的で普遍的なことだった。
 はっきりとした宗教ではなかったが、外界から閉ざされているその地では他の宗教的概念はなかったし、天使は実際に現われていくつかの助言や奇跡を起こしてくれていたのだから、そうなるのも当たり前だった。
 天使の姿を実際に見ている者は多くいて、エルンストの祖父母もかつてその姿を見たと言う。人口が増えてきて、土地問題で暴動が起きそうになったとき、金色の天使が舞い降りてきて、山脈を越えた処には気候も安定した住みやすい土地があるからそこを目指せと、教えてくれたのだという。
 祖父母は何度も何度も幼いエルンストにその話を語った。その天使がいかに美しかったか、素晴らしかったか。
 エルンストも、小さいころから天使を信じて生きてきた。
 大地の恵みを天使に感謝し、明日の変わらぬ安息を天使に祈る。この世界を守り導いてくれる天使様がいるからこそ、今、自分達はこうして幸せな日々を送れているのだと、信じていた。
 けれど、それはぼんやりとした概念だったのだ。
 エルンストは実際にその目では、天使を見たことがなかった。
 天使は今も定期的に大神官の元には現われて、助言を与えてくれているそうなのだが、それ以外の者に姿を見せてくれることはなかった。
 存在を信じないわけではないけれど、実際に見たことのない天使様は、エルンストにとって、信仰というよりはただの憧れに近い感情だった。お伽話のお姫様にほのかな想いを寄せるような、そんな感情だったのだ。
 それが変わったのは、あの大災害のとき。火山の噴火に巻き込まれ、死に直面していたエルンストを天使が舞い降りてきて助けてくれた、そのときだった。
(……天使様……)
 あやふやなお伽話のようだった存在は、はっきりとエルンストの前に姿を現した。
 惜しげもなく、その背の輝ける羽根から光をまきちらしながら。
(ほんとうに、たすけにきてくれた……)
 自分は本当に天使のよって守られていたのだと実感した。
 そのときやっと、熱く天使様について語っていた祖父母の気持ちが分かった。この美しく輝ける存在が、いつも見守り、危機には助けてくれるのだ。
 守られているのだ、この金色の天使に。
(天使様……)
 そのとき、天使は、エルンストの唯一無二の信仰の対象となった。あやふやな憧れなどではなく、はっきりとした崇拝の感情が生まれた。
 あのとき大陸にいたほとんどの者が同じだったろう。実際、大災害の後、大陸での天使に対する信仰は深まり、さらにいくつもの神殿が建てられた。
 天使に守られているのだという信頼感と誇りが、エルンストをどんな苦境からも立ち上がらせる力となった。
 学力を認められ主星の学校に通うことになったとき、そこで、エルンストを田舎者だと嘲笑う者もいた。閉ざされ続けていたエリューシオンは、主星などから見たら、ろくな文明も持たない野蛮な星に見えるのだろう。
 けれどエルンストは自分がエリューシオンの民であることを、天使の守る大陸の民であることを誇りにしていた。嘲笑う言葉になど、負けなかった。
 また、エリューシオンと他の発達した文明圏では、根底的な知識にも大きな差があった。エリューシオンで一番の学校を一番の成績で卒業したエルンストでも、主星の小学校の教科書に載っていることも知らない有様だった。文明の発達度が違うのだからそれは仕方なかった。
 彼は必死になって勉強した。根底的な遅れを取り戻そうと、まさに寝食を忘れるほど勉強と研究に励んだ。見たこともない文字で書かれている、彼の知っているだけの知識では到底考えられないような難しい数式も、考え方を根底から覆されるような新しい自然科学の法則も、彼は理解しようと頑張った。
 すべては、彼の天使様のためだった。
 この苦労も、いつか天使様の役に立つと思えば、つらくはなかった。
(天使様が、この世界の女王になったとき、少しでも、その手伝いができるなら……。天使様の、役に立てるなら……)
 エルンストの努力はやがて実を結び、他のどの惑星出身の者よりも素晴らしい研究の成果をおさめた。誰もがその理論と知識に感心し、称賛を与えずにはいられないほどだった。
 彼は、異例の速さと若さで王立研究院の主任という、女王直属の、名誉な役職を与えられることとなった。
 あのとき彼がどれほど嬉しかったことだろう。
 気が狂ったように叫びだして、世界中の人に報告して回りたいほど、嬉しくて嬉しくて嬉しくて、数日間はまともに眠れないほどだった。
(王立研究院……天使様のお役に立てる! 天使様の傍で、彼女のために働ける!!)
 ずっと、あの8歳の日からずっと夢見て、頑張ってきたことが叶ったのだ。
 どんなにつらかったことも、大変だったことも、そのすべてが報われる日が来たのだ。
(天使様が、この宇宙の女王になる……)
 宇宙の移転という、聖地の時間で数ヶ月かかった大仕事を終えて、まもなく新女王の即位式が行なわれることになっていた。そのあと、エルンストも聖地へ移り、女王となった天使のもとで働くことになるのだ。
 その日を、どれほどの想いで待っただろう。どれほどの期待と喜びとで胸をあふれかえさせて待っただろう。

 けれど。

 天使は女王にはならなかった。
 女王の衣装をまとって玉座についているのは、彼の金色の天使ではなかった。



 軽いノックの音に、エルンストは読んでいた書類から目を上げて扉を見た。
「はい、どうぞ」
 エルンストの返事とほぼ同時に扉が開いて、目にも鮮やかな赤い髪が入ってくる。炎の守護聖、オスカーだ。
「オスカー様。わざわざこちらに足をお運びいただかなくても、お呼びいただければこちらから出向きましたのに」
 エルンストは、大きく動揺する心を押し隠して、椅子から立ち上がってオスカーを出迎えた。
 通常、守護聖が研究院に来ることは少ない。大抵はこちらが必要な資料を宮殿の方に届けるので、わざわざ足を運ぶこともないのだ。
 炎の守護聖が研究院の、しかもエルンストの部屋まで来るなんて、通常業務に関することではない。それなら、用件の内容は決まっている。
「アンジェリークに、話は聞いた」
 オスカーは、重い口調でそう切り出した。
 予想通りの内容に、それでも動揺しそうになる。それを必死に隠そうと、エルンストは眼鏡を押し上げる。
 オスカーに椅子をすすめることも忘れて、その場に立ち尽くす。動けなかった。今動いたら、悪戯がばれた子供のようにうろたえて、平静を保てなくなりそうだった。
 オスカーが、心底すまなさげな顔になって、少しうつ向く。いつもの威厳に満ちた彼とは大きな違いだった。
「お前達の気持ちはわかるが、アンジェリークを、責めないでくれ。彼女は本当にエリューシオンとその民を愛していた。俺がいなければ、間違いなく彼女は女王になっていた。俺がお前達の天使をうばったんだ。俺が彼女の……お前達の天使の羽をもいだんだ。責めるなら俺を責めてくれ」
 エルンストの目の前で、オスカーは深く頭を下げた。あの炎の守護聖が、女王と年長の守護聖以外に頭を下げる処なんて、見たことがなかった。
「俺に償えることなら何でもする。だから、アンジェリークを責めないでくれ。彼女を、許してやってくれ」
(許す?)
 違う、違うのだ。
 確かに彼はアンジェリークを許せないと言った。でも、エルンストは誰かを、アンジェリークやオスカーを責めたいわけではないのだ。謝ってほしいわけではないのだ。そんなこと、望んではいない。
 償いなんて、そんなものはいらないし、そんなものではどうにもならない。
 ただ、エルンストは、自分がどうすればいいのかわからないのだ。彼は迷子の子供なのだ。親鳥を失った雛鳥なのだ。
 唯一絶対的に信じていたものに裏切られて、道標を失って、どうすればいいのか分からずに、どちらへ行けばいいのか分からずに、膝を抱えて座り込んでいる子供なのだ。
 不安で、周りがなんにも見えなくて、絶望と虚無に押し潰されてしまいそうなのだ。
 だから、アンジェリークに当たり散らすように、彼女を責めてしまったけれど、そうではない。そうではなくて。
「私は、ただ……」
 エルンストの呟きに、オスカーが顔を上げた。そして驚きに目を見張る。
 エルンストは泣いていた。ちいさな子供のように、顔を歪ませて。不安と、寂しさと、心細さに押し潰されそうな顔をしながら。
「私はただ、輝いていて欲しいだけなんです。私の、たったひとつの道標に、輝ける星に。私を、導いて欲しいだけなんです……。彼女が輝いていなければ、道を示してくれなければ、私は、何処へ進めばいいのかさえ、分からないんです……」
「エルンスト……」
 輝いていて欲しいだけなのだ。彼の、たったひとりの天使に。たったひとつの輝ける星に。
 でも、どうすればいいのか分からない。
 たとえ、今からアンジェリークが女王の座についたとしても、それはエルンストの道標にはならない。彼を導いてはくれないだろう。
 もう、目指していた星は、何処にもない。



 どうかどうかどうか、輝いていて。
 貴方は私の、たったひとつの、輝ける星だから。
 寒さに凍える日も、飢えに苦しむ日も、悔しさに涙をにじませる日も、すべて、貴方がいたから耐えてこられた。
 だからどうか、輝いていて。私を、支えていて。
 私の、たったひとつの、輝ける星。

 願いは、たぶん、それだけ。


 To be continued.