静穏 1


 セイランがはじめて『絵を描きたい』と思ったのは、8歳のときのことだった。

 まだ幼くて、貧しかったころ。住む家もなくて、その日食べるものもなくて、自分が生きていることの意味が分からなかった、あの頃。
 あのときセイランが死んでも、道端にゴミが増えたとか、野良犬の餌が増えたとか、その程度のことだっただろう。
 別にそれも珍しいことではなかった。
 そのころ、セイランのいた霧の惑星では、独裁者がのさばり、星全体がすさんでいた。セイランのような孤児など、街にいくらでもあふれかえっていた。それにいちいち同情したり情けをかけたりする余裕など、誰にもありはしなかった。
 あのころのセイランは、生きるということの意味が分からずに、ただとりあえず生きていた。腹がすくから物を盗んだりゴミをあさったりしてなんとか飢えを満たし、眠くなるから道端の軒先で転がって寝た。生きるというのは、ただそれだけのことだった。その繰り返しだった。

 そんな彼の世界が一変したのが、8歳のときだった。

 その日も、いつもと変わらない、なんの意味もない日だった。ただいつもと少し変わっていたことといえば、風が少し強く、雲の流れが早かったというくらいで。
 そんな一日がすぎ、太陽が沈もうとしていたとき、セイランは目を奪われて、立ちすくんだ。そこから一歩も歩けなくなった。  とても、とても素晴らしい夕暮れだった。
 朱く紅く赤く、淡い色の紗を少しずつずらして何枚も重ねたかのように、色は地平から天頂に向けてグラデーションを変え、その中心にある沈みゆく太陽は、燃えるロウソクの炎の火影のような色をしていた。
 やがて太陽が地平に消えて、残った残光すら消えて、空が濃紺の闇と星に埋め尽くされても、セイランはそこに立ち尽くしていた。

 美しいと思った。
 あの美しい景色を自分のものにしたいと思った。
 どこかに留めておきたいと思った。
 記憶などという曖昧なものではなく、なにかはっきりとした形にしたかった。

 そのとき孤児であるセイランに、紙と絵の具なんて物はなかった。もちろんお金など持っているわけもなく、買うこともできなかった。
 だからセイランは、瓦礫の屑から薄い板を引っ張りだして、硝子の破片で指を傷つけると、そこから流れる自分の血を板にこすり付けて夕暮れの情景を描いた。

 廃材に、自分の血をこすり付けて描いた夕陽。
 それが、セイランが生まれてはじめて描いた絵だった。

 けれど出来上がった絵は、到底セイランの記憶にあるあの美しい夕暮れとは似ても似つかないものだった。
 だからセイランはまた別の板を持ってきて、また自分の血で夕暮れを描いた。
 何枚も何枚も何枚も。
 セイランの血のついた廃材は山のようになり、板に血をなすり続けるセイランを気が狂ったのだと思う者もいた。
 もともと栄養が足らないうえに大量の血を流して、セイランはひどくやつれてふらふらだった。それでも絵を描き続けることはやめなかった。

 それを、それだけを、毎日毎日繰り返して、一体何日が過ぎただろう。一体何枚の絵を描いただろう。

 やがて、あの日の夕暮れを、セイランは描けた。
 あの夕暮れそのものが板に映り込んだのではないかと思われるような、あるいはそれ以上に美しいかもしれない絵が描けた。
 夕暮れを描くことで、セイランはあの夕暮れを手に入れた。

 生きる意味を知ったのは、あの瞬間かもしれない。

 何か、形ある確かなものではなく、不確かな移りゆく、けれどこのうえなく美しいものたち。ひとはそれを一瞬の感動として捕えることはできても、永遠にそして完全に手に入れることはできない。
 けれど、セイランは、描くことでそれらを手に入れることができた。
 それが彼の生きる喜びであり、生きる意味になった。

 やがて惑星にいた独裁者は制裁され、街には穏やかさと治安が戻ってきた。孤児や浮浪者のための施設が建てられ、セイランもそこに入れられ、その後は飢えることもなく育てられた。
 けれどあの情熱は消えずに、絵を描き続けた。
 文字を覚えてからは詩も書いた。楽器を習ってからは曲も作った。
 いつのまにか、セイランの生みだすものたちは周りから認められ、褒め称えられ、求められるようになった。
 天才芸術家、セイラン。
 望んだわけでもなくそう称され、彼の手による作品は、いたずら書きや彼自身がダメだと思うものまで、ふつうの人間では考えられないような値段と価値がつけられるようになった。
 繰り返されるそんな日常の中で……いつしか、絵を描くことも詩を書くことも音楽を作ることも、彼にとってただの惰性に成り果てようとしていた。
 あの日の夕暮れも、その情熱も、彼の中からかすれて消えようとしていた。


 楽園と呼ばれるかの地で、金の髪と翡翠の瞳を持った、彼女に出会うまで。


 To be continued.