Craziness side A


「怖いんだ」
 一度だけ、彼が漏らした台詞を思い出した。
 あれは、初めて抱かれた日だった。
「何が怖いんですか?」
 怖いと言う彼の手は確かに震えていて、服のボタンをうまく外すことさえできなかった。
 あの頃は、そんな彼の心がわからなかった。むしろ怖いのは、初めて身体を開く自分の方ではないだろうかと思った。
 彼は、噂にたがわず遊び人で、何人もの、それこそ数えきれないほどの女と経験があるはずだった。それなのに、生娘ひとりを抱くくらいで、何を今更怖がることがあるのか。
「多分、俺は、いつか、君を壊す」
 彼は、声まで弱々しく震えていて、泣き出しそうな子供のようだった。
 あんな彼を知るのは、おそらく、この世界で私だけだろう。
「一晩だけなら、いくらでも優しくできる。そのときだけなら、いくらでも優しくしてやれる。でも、それが永遠に続くわけじゃない」
 震える指は、それでも、服を探り肌を探り、彼の意志とは別の生き物のように動くことをやめはしなかった。
「だから、俺は、いつか、君を壊す」
 そうして、彼は、懺悔をする罪人が神の御前で頭を垂れて床にくちづけるかのように、肌にくちづけた。


 それは多分、彼の本性のようなもので、それこそが炎の守護聖に選ばれた要因でもあるモノなのだろう。
 すべてを焼き尽くして、燃し尽くして、すべてを失わせてしまう、炎の本質。
 ほんのひとときだけなら、あるいは表面上だけなら、いくらでも覆い隠せる。寒さに震えるひとを暖める暖炉の炎のように、暗い夜をほのかに照らしてくれるランプの灯のように、優しいふりもできる。
 でも、その奥に眠る本質は変わらない。
 本当に愛するということが、心をさらけ出すことなのだとしたら、さらけ出された彼の本質は、その相手を焼きつくしてしまうだろう。熱すぎる情熱は、いつか、ただの狂気に成り果て、愛するものを壊すだろう。


 だから、彼は、誰も愛さずにいたのに。


 出逢わなければよかった。
 そうすれば、彼は誰も愛さずに、ひとときの快楽だけをつなげて、生きていけた。
 壊されてしまいたいというのは、ただのエゴで、それは彼の苦しみを増やすだけだと知っていた。
 知っていたのに、離れることもできなくて。
 この結末を、知っていたのに。


 せめて、彼も一緒に連れて行ければよかった。
 それだけが、心残り。


 END