forbidden lover


 夜の空は薄い雲をぼんやりとまとい、雲がかすかな光を反射させて、世界を奇妙な薄明かりを満たしていた。月も星も民家の灯りも、他の光源はなにひとつないのに、闇に慣れた目にはそこにあるすべてものがぼんやりと映し出されていた。
 夕方に降った雨で、地面はいまだあちこちに水溜りを残し、ぬかるんでいる。一歩足を踏み出すごとに、足は浅く地面に埋まり、奇妙な粘着感を持って離れる。それはまるで、土から這い出た手に足首を掴まれるような感覚を起こさせる。
 這い出る手があるなら、それは誰の手だろう。そう考えて、オスカーはわずかに苦笑する。自分を恨む人間など、本当に言葉どおり星の数ほどいる。この宇宙に生きる人の数だけ。
 なにせ、この宇宙が滅ぶだろう大罪を、犯したのだから。
 誰からも、なにからも、許されることなんてない。
 オスカーが新たな一歩を踏み出したとき、ぬかるんだ足下の土が滑った。バランスのとりにくい身体は、自分の体を支えることも出来ずに、オスカーは無様に泥の上に倒れる。
 せめてもと、隣にいるアンジェリークを巻き込まないように、彼女がいるのと反対方向に倒れるのがオスカーに出来る精一杯だった。
「オスカーっ」
 オスカーが転んだことに、アンジェリークが驚いて悲鳴のような声をあげる。
 静かな林の中に響く声に、獣か鳥が驚いたのか、遠くでガサガサと葉ずれの音がする。
「オスカー。大丈夫?」
「……ああ。平気だ」
 確かにやわらかな泥の上に倒れたため打撲などはない。しかし泥の上に倒れたせいで、ひどい有様になっていた。シャツもズボンも泥まみれで、濡れた感触が肌まで届いて気持ち悪い。頬にべったりとついた泥が、すこししゃべるだけでも口の中に入ってくる。
「オスカー」
 アンジェリークが、自分の服の袖で、そっと顔を拭ってくれる。着の身着のままの状態で逃げてきたため、ハンカチ一つ持っていないのだ。一応、逃走資金としていくらかの金をオリヴィエから渡されていたが、近くには店どころか民家すらもないこの状態では、何の役にも立たなかった。
 泥の下に怪我でもしていないかと、アンジェリークがオスカーの頬を手のひらで包み込む。そのやわらかな感触に、オスカーはうっとりと目を閉じた。
(あたたかい)
 こうしてもういちど、アンジェリークに触れることができる日が来るなど、すこし前までは思えなかった。一度目の逃亡で捕まり、引き離されて、もうこののまま、冷たい牢獄の中でひとり死んでいくのだと、思っていたのに。
 ゼフェルとオリヴィエの手引きによって、オスカーはアンジェリークと再び逢うことができた。こうして共にいられることは、奇跡のようなことだった。
 ゼフェルとオリヴィエ、そして名前だけ聞いた、もうひとりの協力者セイランが、どうしてこの逃亡に手を貸す気になったのか。分かるような気もするし、分からないような気もした。
 ゼフェルとオリヴィエをその場に残し、アンジェリークとふたりで、そこから転移装置で何度か飛び、ここまで逃げてきた。辿り着いたところは、ある辺境惑星のひとつだった。
 通常、転移装置は王立の研究院や、首都の役所などに置かれている。そんなところでは、すぐに見つかって捕まってしまうだろう。
 だがふたりが辿り着いたのは、今はもう使われていない、女王を称える神殿にある転移装置だった。かつては立派だったのだろうが、もう長いこと使われておらず、神殿はすでに屋根もない廃墟と化していた。今はもう誰もいないその古い転移装置がまだ使えたことは、ふたりにとっては幸運といえたのかもしれない。
 移転装置で何処へ飛んだかは、時間はかかるだろうが調べられればやがて分かってしまう。だからここへ追手がかかる前に、移転装置以外の移動手段で何処かへ逃げなければならなかった。
 前回は、最終的には捕まってしまったとはいえ、そうしてかなり遠くまで逃げることができた。だが今回は、どうだろう。
「大丈夫? 立てる?」
「ああ」
 そう言ってはみたものの、オスカーは自力で立ち上がることが出来ずにいた。
 アンジェリークも手を貸して、オスカーを泥の中から起こそうとするが、彼女の力では男の巨体を引き上げることはひどく困難だった。
 オスカーを助け起こそうと、アンジェリークは地面に膝をつく。ぬかるんだ泥は彼女の服にも染み込んでゆく。
「アンジェリーク。君の服にも、泥が…………」
 アンジェリークの服に目を走らせたオスカーは、驚きに、その薄氷色の瞳を見開いた。  暗い闇の中では、形くらいは認識できても色の判別は難しい。アンジェリークの服は、オスカーと同じように泥がついて汚れてしまっていた。汚れは闇の中ではただの黒いしみのようにみえる。
 その中で、アンジェリークの腹部にも、黒いしみが広がっていた。泥が跳ねたにしてはおかしな場所に広がった大きなしみ。
 それは……血だ。
「アンジェリーク」
「大丈夫よ。ちょっと傷から血がにじんだだけ。大丈夫だから」
 まるでなんでもないことのように、アンジェリークは笑ってみせる。
 けれど、大丈夫であるわけがなかった。
 彼女は腹部に大きな怪我を負っているのだ。一応の手当ては施されているとはいえ、一時は生命の危険にさらされたほどの深い傷だ。傷がろくにふさがってもいない状態で、ここまで逃げてきて、そのあいだに傷が開いてしまったのだろう。
 血のしみを見ただけでも、かなりの出血であることが分かる。痛みだって、相当なものだろう。
「すまない、アンジェリーク」
 オスカーはうなだれた。
 こんなひどい怪我を負っているにもかかわらず、それでも彼女には自分の足で逃げてもらうしかなかった。そうして無理をさせたからこそ、傷が開いてしまったのだろう。
 そして、こんなに血を流しているにもかかわらず、それにすら気付けずにいた。
「オスカー。あなたのせいじゃないわ。私は大丈夫だし。それに、それに…………」
 アンジェリークはそっと腕を、オスカーの肩口へと伸ばした。
「あなたのほうが、こんな…………」
 それ以上言葉を続けられずに、アンジェリークはくちびるを噛む。
 一度目の逃亡で捕まったとき、アンジェリークは再び玉座に立つ見返りに、オスカーの命を保証するよう要求した。
 女王を連れて聖地から逃げるなど、それがアンジェリークも同意のことであろうと、オスカーが元守護聖であろうと決して許されることではなかった。通常なら、即、殺されていただろう。それが怖くて、その取引を提案した。
 確かにアンジェリークの要求したとおり、こうしてオスカーは生きていた。
 生きてはいた、が。
「こんな…………」
 アンジェリークの声が震える。こらえていた涙があふれてくる。
「泣かないでくれ。アンジェリーク。泣かれても、今の俺には、君を抱きしめることも、涙を拭ってやることすらできないから」
 涙を拭えない代わりに、オスカーはすこし身体を傾けて、アンジェリークの頬にしくちびるを寄せて、涙を舐めとる。そんなことが、今のオスカーにできる精一杯だった。
「オスカー……」
 アンジェリークの手が、そっといたわるように、オスカーの肩口から、腕にそって下ろされる。けれどそれも、すこしも動かさないうちにとまる。そこから先が、ないからだ。そこから先の、腕が。
 今のオスカーの身体には、腕が、ない。
 上腕部から先が、存在していなかった。
 切り落とされたのだ。
 その腕に、もう剣を持てないように。
 最初に逃げたとき、オスカーはその剣を振るって、遮るものを蹴散らして、アンジェリークを連れて逃げたから。同じことが、できないように。もうアンジェリークを連れて逃げられないように。そして罪人に対する罰として。
 その両腕は、切り落とされた。
 切り落とされた腕の傷口は、手当てを施されることもなくそのまま放置された。だから傷口はやがては化膿し、膿を孕んでいた。二の腕の中ほどから切り落とされた腕は、すでに肩まで腐食しているような状態だった。二の腕の切り口のほうはもうすでに溶けて、触れればぐずぐずと崩れ落ちるような状態だった。痛みなど、もうまともに感じない。オスカーの嗅覚ももう麻痺して、その腕から漂う腐臭に反応することはない。
 この吐き気をもよおすような腐臭にも、まるでゾンビのように腐りかけた気味の悪い姿にも、アンジェリークは驚きはしたが、嫌悪は見せなかった。変わってしまった姿を罵って、突き放してもよかったのに。
(アンジェリーク)
 自分のために涙をこぼすアンジェリークを見つめ、オスカーは想う。
 こんな状態で逃げて、どうなるというのだろう。
 最初の逃亡ですらひどくつらいものだったのに、こんな身体になって、まともに逃げられるわけもない。
 こんな姿で街へ行けば、どんな扱いを受けるだろう。移転装置以外の移動手段といっても、こんな人間を乗せてくれる船など、あるのだろうか。
 そう分かっていながら、それでも逃げることを望んだのは、エゴでしかない。
 もうオスカーは、アンジェリークに何もしてあげられない。自分自身のことさえ満足にできず、その涙を拭ってやることさえできないのに。
 それでもまだ傍にいたいと願ってしまう。
 エゴだと分かっているのに、アンジェリークを苦しめるだけだと分かっているのに、そしてそれを守る力もないのに。
 それでもアンジェリークを手放せない。ひとりで生きていけない。
 どうして、どうしてこの想いは、こんな方向へしか進めないのだろう。どうして。どうしてこんなに愛しているのだろう。
「アンジェリーク。すまない……すまない……」
 オスカーはもう一度、その言葉を呟いた。
「いいえ、いいえオスカー」
 アンジェリークは何度も何度も首を振る。もつれた金の髪は、まとまりなく揺れる。
「私が、抱きしめているから」
 彼女はかつてよりもさらに白く細くなった腕で、そっとオスカーに回した。
「あなたが私を抱きしめられないなら、私があなたを抱きしめているから。だから、だから……」
「…………アンジェリーク」
 怪我のせいであまり力の入らない腕で、それでも懸命にオスカーを抱きしめようと腕に力を込めている。それはきっと腹部の傷に響くだろう。抱きしめようと力を込めれば込めるだけ、それは彼女の痛みに代わるだろう。それなのに。
 今のオスカーには、アンジェリークを抱きしめ返すことすらできない。
 長く逃げられないことなど、分かっている。こんな身体で、どう逃げればいいというのか。それに、アンジェリークの傷も、この腕の腐蝕も、楽観できるものなどではない。逃げるよりも先に、死んでしまうかもしれない。
 分かっている。未来に光なんてないことなど。わかっている。
 でもそれでも。
「アンジェリーク。俺の傍にいてくれ。俺を、ひとりにしないでくれ」
 アンジェリークはオスカーを抱きしめる。傷の痛みにではなく、涙がこぼれた。
「オスカー。ずっと、一緒にいよう。ずっとずっと。いつか、終わりが来るときまで」
 それが、何の『終わり』なのか分からない。この逃亡の終わりなのか、世界の終わりなのか。それとも────どちらかの、あるいは両方の、命の終わりなのか。
 でも、それがどれでも同じだった。ふたりにとっては、すべてが同じ重さで、同じ意味だ。
 やがて遠くない未来に、終わりは来るだろう。
 誰からも、なにからも、許されはしないだろう。
 それでも。
「行きましょう。オスカー」
「ああ」
 オスカーは、アンジェリークの手を借りて、苦労した末なんとか立ち上がる。
 やっと立ち上がってみても、ふたりとも泥まみれのひどい有様だった。アンジェリークの傷も、広がっているように見える。ともすれば倒れそうだった。
 目の前にあるのは、灯りひとつない、暗い森に続く細く険しい道だ。
 それでも、ふたりは倒れそうな身体を寄り添わせながら、歩き出した。
 こうして、歩いてゆくのだ。ずっとずっと一緒に。
 いつか終わりが来る日まで。
 ふたりで。ずっと、いっしょに。


 END.