月光音楽


「綺麗な音楽ね」
 突然聞こえてきた声に、セイランはピアノを弾く手を止めた。
 テラスの方を振り向けば、そこには当然のようにひとりの少女が立っていた。月を背景にたたずむ少女の金の髪は淡く輝き、白い肌はなめらかに透き通り、それはまるで幻かと疑いたくなるほどに美しい。
「……また君か」
 その姿に目を奪われながらも、セイランはわざとぶっきらぼうな声を出した。
 少女の来訪が迷惑なのではない。むしろ彼女が来るのを心待ちにしていた。だからこそセイランも、わざと窓を開け放してピアノを弾いていた。自分がここにいることを彼女に主張するように。
 けれど、それを悟られるのは少し悔しいのだ。
「こんばんわ、セイラン」
 セイランの様子などにはお構いなしに、少女は許可も取らずに部屋の中へ入ってくるとソファに腰掛けた。
 これが他の人間だったら、有無を言わさず部屋から叩きだしている処だ。
 それなのに、この少女にはそれを許してしまうのは、彼女がこの宇宙の女王だからではない。セイランは、相手の身分が何だろうと、気に入らなければ容赦はしない。
 それほどまでに、気に入っているのだ。この美しい金の髪と翡翠の瞳を持つ女王陛下アンジェリーク・リモージュを。
「また、オスカー様の処からの帰り?」
 まるで自室のようにソファでくつろぐアンジェリークを見ながらセイランは尋ねた。
 少女は少し上目遣いに、意味有りげに微笑むことで肯定の意を返す。
 宇宙の女王である彼女は、恋愛が許される身分ではない。それなのに、彼女は時折夜の炎の守護聖の館に忍んでゆく。そして、そこからの帰りに気まぐれにこうしてセイランの処へ寄っていくのだ。
 そして少し話をしたり、描きかけの絵を眺めたりして、また気まぐれに宮殿へ帰ってゆく。
「今日、オスカー様に言われたよ。『芸術家として美しい小鳥に惹かれるのは分かるが、お前にはもっとお似合いの小鳥がいるんじゃないのか?』ってね」
 それは、明らかにこの少女のことに対する牽制だった。彼は、こうしてアンジェリークがセイランの処に来ていることに気付いているのだろう。
「ふふっ。意外とやきもち焼きなのよね、あの人」
 人前ではプレイボーイを装い、いつも女王候補達に甘い言葉を投げかけているあの炎の守護聖も、彼女の前では形無しのようだった。いや、あのプレイボーイぶりは、彼女との関係を周囲に知られないための演技、とも考えられる。
「君はオスカー様にやきもちを焼かせたくて、わざとここに来ているんだろう」
「あら、セイランに会いたいから、ここに来ているのよ、私」
 まるでセイランが自分のどの表情を一番気に入っているか知っているかのように、アンジェリークは微笑んでみせる。
(……罠だ)
 セイランはそう思う。少女自身意識している訳でなくても、これは男達にとって十分甘い罠だ。罠だと知りつつ、その先を知りつつ、それでも落ちずにはいられない、甘い罠。
 それに落ちようとしている自分が少し悔しくて、意地悪を思い付く。
「あんまり、男をなめないほうがいいよ。僕だって、君を押さえ込むことくらいはできるんだ」
 少女を挟むように、ソファの背に手をかける。そのまま、鼻先が触れそうなほど顔を近付ける。
 もしこれが同じ名前を持つ茶の髪の女王候補だったら、内気な彼女は脅えて、二度とセイランに近付かないだろう。
 けれどアンジェリークは脅えた様子も見せず、じっとセイランの目をのぞきこんでくる。翡翠の瞳にこんな間近かで見つめられて、セイランの方が戸惑ってしまいそうだ。
「……セイランの瞳って、綺麗な色よね。こんな色のイヤリングあればいいのに」
 まるで無邪気にそんなことを言われると、思わず力が抜けてしまう。
「負けるよ、君には」
 ソファから手を放しながら、セイランは小さく笑った。
 結局の処、自分もあの炎の守護聖と同じように、もう彼女の手の内なのだ。今更何を言ってみた処で、すでに捕われていることに変わりはない。
「首の処、気を付けたほうがいいよ。跡、見えてる」
「えっ、嘘」
 アンジェリークは自分の首元を押さえる。
 あのオスカーが、うっかり見える処に跡を付けてしまったとは考えられない。これは多分、彼女が帰り際ここに寄ることを見込んで、わざと付けたのだろう。
(これは牽制じゃなくて、挑戦……かな?)
 あのオスカーがこの少女にどれだけ溺れて、そして翻弄されているかは、手に取るように分かる。なぜなら自分も同じ穴のムジナなのだから。
 だからといって、相手が誰だろうと、セイランだって一歩も引く気はない。
「ねえセイラン。さっき弾いてたの、なんていう曲? 聞いたことのない曲だけど」
「タイトルはまだないんだ。僕が作った曲だから」
「じゃあ私のために……弾いてくれる?」
 可愛らしく小首を傾げられたお願いを、断われる訳もない。それがたとえ指を切り落とせというものでも、思わず従ってしまうかもしれない。
「仰せのままに、姫君」
 セイランはピアノに向かって、曲を奏で始めた。
 アンジェリークはソファにもたれて、うっとりとその音に聞き入る。
 まるでこの月光を紡いだかのような優しい音色が部屋中に満ちあふれる。それを聞く少女の中もこの音楽に満たされているだろう。
 今このとき、ふたりは同じ領域にいて、そこには他の誰も入ってくることはできない。
 そう思うと、セイランの胸も満たされる。自分に芸術の才能があってよかったなどと、柄でもないことを思ってしまう。
 セイランは、目を閉じて音楽に聞き入っているアンジェリークをそっと見つめた。
 なんだかんだと言っても、アンジェリークはオスカーを愛しているのだ。
 だからセイランが、そういう意味で彼女を手に入れることは不可能だろう。
 けれど、オスカーのようには彼女を手に入れることはできなくても、こうして誰より近い世界を感じられる。逆に、それはオスカーには無理なことだろう。
(そんなのも……いいかもしれないね)
「セイラン……今、何考えてたの?」
 不意に、アンジェリークが尋ねてきた。
「なんだか、すごく幸せそうな顔してた」
「もちろん、君のことさ、アンジェリーク」
 答えながらセイランは、この曲のタイトルは『アンジェリーク』にしようか、と考えていた。


 END