玉座


 ジュリアスの記憶の中で、その場所が空白だったことは一度もなかった。
 たとえひととき主がいなかったとしても、ジュリアスがここでこうしてしばらく待っていれば、彼女は現われてそこに座った。
 玉座。
 女王とまみえるにふさわしく、美しい装飾のほどこされた謁見の間の、数段高くなったその場所にある、ただひとつの椅子。
 この世界を統べる女王陛下だけが座ることの許される場所。
 守護聖主座であるジュリアス自身でさえ、その神聖な場に立ち入ったことはない。そこは、完全なる聖域なのだ。
 いつだってジュリアスはこの場所を見つめてきた。この場所と、この場所に座ることを許されるただひとりのひと、女王陛下を。もうずっと、守護聖になった、その時から。
 ……それなのに。
 そのとき不意に扉の開かれる音がして、ジュリアスは弾かれたように振り向いた。そこには闇の守護聖がいた。
「……またここにいたのか」
 クラヴィスは半ば呆れたような声を出した。最近、この光の守護聖は、こうして用もないのに女王の謁見の間にいることが多かった。姿が見えないときは大抵ここにいた。
 今は女王不在で、謁見の間が使われることなどないのに。いくら待っても女王が現われることなどないのに。ただじっと、ジュリアスは玉座を見つめているのだ。
 女王の不在の理由は、表向きは病気療養中ということになっているが、実際は違っていた。彼女は逃げたのだ、この聖地から。愛する男と共にあるために、サクリアを失ってしまったオスカーとそれでも共にいるために。すべてを捨てて。
「クラヴィス。女王とオスカーの追跡調査の報告に来たのだろう。どうだったのだ?」
「……捜索部隊が着くより一足早く逃げられたそうだ。捜索部隊が急いで行方を追っているが……おそらく見つけることは無理だろう。女王と元守護聖といえど、見た目は普通の人間と同じだからな」
「分かった。今度から捜索部隊に守護聖の誰かを同行させよう。守護聖は女王が近くにいればそのサクリアを感知できるからな。追跡もしやすいだろう」
 この逃亡劇は、思いのほか追いかけるほうが不利だった。
 サクリアは基本的に普通の人間には見えないし、何も感じられない。女王のサクリアは羽根という形で具現化することもあるが、それは意識してのことだ。アンジェリークが力を押さえていれば羽根が現われることはない。見た目には、普通の人間となんら変わらなくなる。
 また、女王失踪の事実を世界に知られるわけにはいかないから、もちろん調査も追跡も極秘で行なわれている。そのため行動にも制限がつくし、動かせる人数も限られてくる。
 どうせすぐに捕まるだろうという予想をくつがえして、聖地側はいまだふたりを捕えることは出来ていなかった。
「早く、一刻も早く女王を見つけ連れ戻さねばならない。そうでなければこの宇宙が崩れてしまう。女王はいつだってこの玉座にいなければならないのだ。それなのに……!」
 クラヴィスに聞かせるためでもなく、ジュリアスはひとりごとのように言いながら、握り締めた拳をかすかにわななかせていた。
 思い返すだけで、はらわたが煮えくり返りそうになる。
 ジュリアスはオスカーを忠実な部下だと思っていた。だから、アンジェリークが女王となったあとも密かに付き合いを続けていることにも、気づいていながら目をつぶってやっていた。それなのに、彼は最後の最後でジュリアスを裏切った。女王を連れて、この聖地から逃げるなど、決して許せない最大の裏切りだ。
「ジュリアス……。女王とて人間だ、我々と同じように感情もあれば人生もある。確かに女王を連れ戻すことは必要だが……アンジェリークとオスカーをあまり責めるな」
「……私の気持ちは、お前になど、分からない」
 ジュリアスは闇の守護聖の言葉を切り捨てた。
 ジュリアスは、ずっと女王を見つめて生きてきたのだ。ずっと、ずっとだ。
 初めてこの玉座とそれに座るひとを見たのは、5歳のときだった。守護聖としてこの地に連れてこられ、女王の前に引き合わされた。
 当時の女王陛下は、二十歳そこそこだったのだろうけれど、まだ幼いジュリアスの目には、母親と同じくらいの歳に映った。慈愛に満ちた、優しげな、綺麗な人だと思った。
 家族と引き離され心細さに震えていたジュリアスに、彼女は母親に似たあたたかな微笑みをくれた。
『ジュリアス、これからは守護聖として、私達に力を貸してくださいね』
 その優しげな口調は、笑顔と同様、母親のものによく似ている気がした。
(……おかあさま……)
 ジュリアスはそのひとに、もう会えない母親の姿を重ねていた。
 あれから、何回もの女王交代が繰り返され、何人もの女性がその玉座に座った。けれど、彼女らは皆その玉座からジュリアスを見つめ、優しく微笑んでくれた。そのたびに、彼女らのなかに、母親の姿を見つけだしていた。
 ジュリアスにとって『女王』は母親なのだ。いつもそこにいて、ジュリアスを見守っていてくれなければいけないのだ。
 決して世界を……ジュリアスを見捨てて、男と逃げるなどということがあってはいけないのだ!
 ここには、玉座には、女王がいなければいけないのだ!!
「分かる、……と言っても、お前はどうせ信じないのだろうな」
 ためいきのように、クラヴィスは呟いた。
 クラヴィスには本当に分かっていた。ジュリアスが『女王』に母親の姿を重ねていることも、その気持ちも。
 何故なら、自分も同じだったからだ。ジュリアスと同じように幼いころに聖地に連れてこられ、クラヴィスも、女王のなかに母親の姿を見ていた。
 彼らは同じだった。ジュリアスが職務に励むことで女王の気を引こうとする子供なら、クラヴィスは職務を怠慢にすることで女王の気を引こうとする子供だった。
 ただ違うのは、クラヴィスは先代女王が女王候補だったとき、ほのかにではあるが惹かれていたため、彼女が女王となったあと、彼女のなかに『母親』ではなく『彼女自身』の姿を見ていたからだ。
 そのときから、クラヴィスは『女王』のなかに母親の姿を追わなくなった。『女王』もまたひとりの人間であり、自分の母親ではないのだと理解できた。
 けれどジュリアスは、まだその呪縛から逃れていないのだ。ジュリアスにとって女王は母親なのだ。だから、彼はあんなにも女王陛下を慕い敬い、求めるのだ。
 けれど今、女王はいない。
 この聖地も世界もすべてを捨てて、ただひとりの愛する者のために、何処かへ行ってしまった。
 今のジュリアスは、母親に捨てられた子供なのだ。
 そしてそれを許せないかたくなな子供のように、いなくなってしまった女王を追い続けている。
 いや、彼は実際、かたくなな子供なのだ。本当の意味で大人になりきれていないのだ。
 聖地という隔離された世界で、取り残されてしまった哀れな小さな子供。
 女王という母親の庇護を必要とし、それがなければ生きていけない子供。
 たとえ女王不在が宇宙になんの影響も及ぼさなかったとしても、それでもジュリアスはそれを許さず、女王を追いかけこの玉座に連れ戻そうとするのだろう。
 どうしてこの世界はこんなにも脆弱なのだろう。女王と守護聖という生贄を必要としなければ成り立たないのだろう。
「……私はもう行く。……研究院のやつらがお前を探していたから、お前ももう戻ったほうがいいのではないか……?」
 クラヴィスはそれだけ言うと、ジュリアスの返事を待たずに謁見の間をあとにした。
 たとえ今何を言っても、かたくなに閉ざされたジュリアスの心には、何も届かないだろうと思ったからだ。かつての自分と同じように。
 そうしてまた、彼は女王を求め続けるのだろう。ただひたすらに、その玉座に座る、ただひとりのひとを。



 再び謁見の間にひとりになって、ジュリアスは正面を見つめた。目の前にある、主のいない美しい椅子。
 玉座。
 そこには今、誰もいない。
 その場所には、女王がいなければいけないのだ。
 そこにいて、世界を、ジュリアスを、いつもあたたかく見守り、微笑んでくれなければいけないのだ。

「…………おかあさま…………」

 知らず、ジュリアスは小さくつぶやいていた。呼んでいた。
 その声はかすかに誰もいない間に響くだけで、誰にも届きはしなかったけれど。


 END