夜の破片


 カタリ、とコンソールパネルを打っていた手が一瞬とまる。長年の機械いじりのせいで所々荒れた、けれど細くて長い器用な指。
 ゼフェルは意味もなく自分の指先を見つめた。
 こんなとき取り留めもなく頭に浮かぶのは、彼女の笑顔と泣き顔だ。輝く金の髪に翡翠の瞳を持った天使、アンジェリーク。……今は女王として玉座につく彼女は、もう笑顔も泣き顔も見せない。見せるのは、貼り付いた作り物の笑顔か、虚空のような感情のない顔だけだ。
 まだアンジェリークが女王候補で、飛空都市で試験をしていたころは、笑顔ばかり見ていた気がする。誰もがあの笑顔を愛した。ゼフェルも例外ではない。聖地に召喚されて凍り付きかけていた心を溶かしてくれた。本当に一番の笑顔を向けられるのが自分ではなくても、それでもあの笑顔があるだけでよかった。
 哀しげな顔を見るようになったのは、試験が終わりに近づきかけた頃からだった。アンジェリークが女王になるしかなく、恋人であったオスカーと別れねばならないと、知り始めていた頃。
 けれど思いのほか気丈な彼女は、人前で泣いたりしなかった。泣いて赤く腫れたような目をしていても、それでも皆の前では笑ってみせていた。
 ゼフェルがアンジェリークの泣き顔を見たのはただ一度だけだ。
 アンジェリークが女王となったあとも隠れて関係を続けていたオスカーのサクリアが尽き、本当にふたりが引き離されることが決まった、あのとき。
 どんなにつらくとも笑顔を絶やすことのなかったあのアンジェリークが、周りに誰がいるもの構わずに、あふれるその心のままに泣き叫んだ。
『どうして……どうして私に女王のサクリアがあるの!? どうしてオスカーと一緒にいられないの!?』
 魂を引き裂くような声だった。その声を聞いた誰もが、あまりのつらさに視線を逸らした。聞くに耐えず、耳をふさいだ者もいた。
『私は、女王になんてなりたくなかった! どうして私でなければ駄目だったの!? どうして!?』
 あのときゼフェルも、できることなら耳をふさいでその場を逃げ出してしまいたかった。そうしなかったのは、あまりのつらさに足が動かなかったからだ。
 昔、ゼフェル自身も同じように叫んだ。聖地に召喚されるとき。どうして俺なんだ、と。彼女の気持ちが痛いほどわかった。痛かった。いっそこの痛みで死んでしまえるなら楽になれるのに、どうしてこの胸は張り裂けない? 本当に、そう思った。
 あのときのアンジェリーク叫びは、胸の痛みは、まだはっきり覚えている。
 今ゼフェルがやっているのは、王立研究院からハッキングしてきたオスカーに関するデータの解析だ。何重ものプロテクトがかけられ、ちょっとやそっとじゃ中を見ることができない。
 アンジェリークとオスカーは聖地から逃げ、結局捕まり引き離された。アンジェリークは聖地に戻され、オスカーは何処かへ連れていかれた。その行方は分からない。
 でもこのプロテクトを破ってオスカーの居場所を知ることができれば、アンジェリークをここから逃がすこともできる。そのための作業をしているのだ。
 けれど……。迷う、迷うのだ。
 本当にこれでいいのか、正しいのか。
 間違っていないか、やめた方がいいのではないか。
 迷うのだ。
 アンジェリークとオスカー、たったふたりが犠牲になることで、その他全ては救われるのだ。しかも、アンジェリークとオスカー自体、命を奪われるとか、そういうことではない。犠牲になるのはふたりの恋。ふたりの気持ち。恋人同士だったふたりが引き離されるだけ。そう、それだけなのだ。
 逆にいえば、アンジェリークを助けるということは、彼女が恋人と一緒になるためだけに、その他すべての命を奪うということなのだ。
 この宇宙が壊れる。すべての人が死ぬ。すべてのものが失われる。
 今自分がやっているのはそういうことなのだ。
「……ゼフェル」
 不意に声をかけられて、ゼフェルははっと、現実に引き戻される。
 振り向けば、夢の守護聖が扉の処に立っていた。
「オリヴィエ」
「返事がないから勝手に入らせてもらったわよ。で、どう? 進み具合は」
「……まあまあだ。プロテクトが厳重で、下手に解除しようとすると、ウイルス状になってアクセスマシンのデータごと丸ごとぶっとばす仕組みになっている。だから迂闊に手が出せねー。でもまあ少しづつだが進んでる」
 それは、半分は本当で、半分は嘘だった。
 プロテクトの仕組みや迂闊に手が出せないということは本当だ。でも、進み具合ははっきり言って悪い。それは、プロテクトの難易度のせいだけでないことは、自分でもわかっている。
 見透かすように見つめてくるオリヴィエから視線を逸らした。風の守護聖とはまた少し違った意味で真っ直なゼフェルは、こういう嘘が苦手だ。
「……あのね、ゼフェル」
 溜息のような声が、綺麗な口紅に彩られた唇から漏れた。
「確かにあんたに協力を頼みはしたけど、強制じゃない。嫌ならいつでもやめていいい。……むしろ、迷っていて作業が遅れるようなら、やめて。時間がないんだ。こっちじゃ一日でも、下界じゃどれくらい時間が流れているか分からない。だから、あんたが迷っていて作業が遅れるようなら手を引いて。データの解析は他の人に頼むから」
 やはり、何もかも見透かされていた。ゼフェルはくちびるを噛む。
 迷いは行動に現われる。迷う心が作業する手を遅らせる。時間切れで、仕方なく諦めるしかない、という状況を心の何処かで望んでいた。
「お前はなんとも思わないのかよ」
 消え入りそうな小さな声だった。いつも誰にでも食ってかかるような鋼の守護聖からは考えられないような、弱々しい声だった。
「なんとも……思わないのかよ。確かにアンジェリークは助けてーけど、その代わりに他のやつらが全部死んじまうかもしれねーんだぞ。今の女王候補達も確かに女王のサクリアを伸ばしてきてるけど、この世界を支えることは……無理じゃねーのか?」
 女王候補達や女王補佐官ロザリアの持つサクリアも、十分なほど大きいと思う。歴代の女王と比べてもそう劣ることはないだろう。だが、この移転したばかりの宇宙を支えることは、たとえ3人力を合わせたとしても無理なのではないだろうか。力の大きさではなく、何か、現女王アンジェリークのサクリアとは根本的に違うような気がする。
 毎回女王交代の時期になると、新しく女王の資質を持ったものが生まれる。前女王の力が衰えているのに新たな女王候補が現われないということはなかった。宇宙の理りとしてそういうことになっているのだ。
 アンジェリークは宇宙自身が壊れかけた自分を支えるために生みだした、特別な存在なのではないだろうか。そう考えれば、アンジェリークの力だけが歴代の女王より異様に強いこともうなずける。
 もしそうなら、どんなことをしても、アンジェリーク以外ではこの宇宙を支えられない。自然にアンジェリークの力が衰え、この宇宙のための次の女王候補が宇宙により生みだされるまでは。
 ゼフェルは赤い瞳で、睨み付けるのではなく、夢の守護聖を見つめた。
「……なんであんたは、アンジェリークを助けようと思うんだ?」
 たとえばセイランは分かる。彼にはアンジェリークしかいない。アンジェリークの存在がすべて。その他、という存在がないから、アンジェリークを助けることで生じる犠牲なんて考えもしない。だから迷うこともない。
 また、直接この計画に係わっていないが、アンジェリークを助けたいと常々言っている風の守護聖や緑の守護聖の考えも分かる。彼らはその純粋さと単純さで、目の前のことしか見えていないのだ。直接視界に入らないその他のことまで考えが回らないのだ。
 でもゼフェルには、この夢の守護聖の考えが分からない。確かにオリヴィエはアンジェリークを気に入って可愛がっていたが、セイランのようにアンジェリークの存在だけがすべてというわけでもないし、ランディやマルセルのように周りの状況を把握しきれていないわけでもない。
 むしろ、ルヴァとは違う意味で人一倍思慮深いこの男が、何故世界を犠牲にしてまでアンジェリークを助けようとしているのか……。
「復讐、……かな」
 夢の守護聖はぽつりと呟いた。
「え?」
 意外な言葉にゼフェルは思わず聞き返した。
「復讐って……何に対する?」
「この世界に対する、復讐、だよ」
 オリヴィエは、彼がいつもよく見せるような人をからかうような微笑みのまま、軽い口調で続けた。
「この世界は不公平で不平等にできてる。皆が幸せで、皆が納得いくことなんてない。絶対、誰かは不幸で、誰かは泣くんだ。しかも、誰が泣くかも平等じゃなくて、一生泣かない奴もいれば、一生泣き続ける奴もいる。……アタシは、その貧乏くじの方だった」
 さらりと言われる言葉に潜む重さに、ゼフェルは苦しくなる。それでもオリヴィエから視線を逸らそうとはしなかった。逸らせなかった。
「あの氷の惑星で、ずっとひとりきりで生きてきた、ずっと、ひとりでね……。それから、突然お前が守護聖だとか言われて、聖地に連れてこられた。確かに守護聖として聖地で暮らすってのは、寒さに震えることもないし、食べ物に困ることもない。でも、それが必ずしも幸せとイコールじゃないってことは、あんたもよく分かってるでしょ」
「…………」
 ゼフェルは少し目を伏せた。
 知っていた。自分も、ここに来たくないと叫んだひとりだったから。いい服を着て、食べ物に困ることもなく、寒さに震えることもない。むしろ贅沢といえる暮らしをして、皆に敬われて……でもそれが、誰も彼も幸せにするわけじゃない。
「アタシはずっと貧乏くじだった。自分が心から幸せだと思ったこともないのに、自分を犠牲にして、見知らぬ他人の幸せのために守護聖として尽くせというのよ。ひどい話だよね。だから、そんなこの世界に復讐したいのかもしれない。アタシがたったひとり幸せにしたら、世界は滅びるの。ある意味、最高の復讐でしょう」
 オリヴィエの声はあくまで明るくて、ともすれば冗談のようにしか聞こえない。けれどその中に確かに見え隠れする絶望と虚無が、それが本気だということを伝える。だから余計に怖い。
「あのセイランってやつも大概イカレてると思ってたけど、あんたも相当イカレてるな」
「今頃気づいたの? まともな奴なら、世界が滅びると分かっててアンジェリークを助けようなんて思わないでしょう。世界を滅ぼして叶うのは、自分のでもない恋ひとつだけなんだよ。アンジェを助けることの意味を理解していない他のお子様とか、使命第一のジュリアスならともかく、ルヴァやクラヴィスはまともな理性があるから、アンジェリークをどれほど哀れに思ったって、世界を犠牲にはできないから、なんにもしないでいるでしょう?」
「……俺も、イカレた仲間だと思ったのか?」
「そうなるかならないかを決めるのは、あんた自身だよ。世界が滅びると分かっていてアンジェリークを助けるか、あのふたりの恋を犠牲にして世界を助けるか。もちろん協力してくれるならこれほど心強いことはないけど、さっきも言った通り強制はしない。ただ、時間がないから、どうするか、今決めて」
「……俺は……」
 ゼフェルは苦しげに自分の胸元を掴んだ。指先が白くなるくらい力を入れる。かすかに腕が震える。
 色々な想いが頭と心を駆け巡る。世界が滅びる、その意味をちゃんと分かっている。断るべきなのだ。やめるべきなのだ。分かっている、分かっているけれど……!!
「俺は、ずっと考えてた……もし俺がオスカーの立場だったら、どうしただろうって……。もしあいつが俺を選んでいて、引き離されることになったとき、俺だったらどうしただろうって……」
 急にとんだ話を遮るようなことはせず、オリヴィエはそのまま聞いていた。その、苦しそうに吐き出されるゼフェルの言葉を。
「……どうしてたと思う?」
「分かんねえ……でも」
 ゼフェルはオリヴィエに向けていた視線を外した。赤い瞳は何処か遠くをさまよう。
「前に俺とランディで、アンジェとオスカーが逃亡中に住んでた家ってのを、調査しに辺境惑星に行ったことがあっただろ」
「ああ、あったね」
「みすぼらしい家だった。ちょっと強い風が吹いたら倒れそうな家で、周りにはなんにもありゃしねえ。家や街がないってだけじゃない。マジでなんにもないんだ。畑も森も何にもない荒野で……耕したってまともに育たないだろうし、働くにしたってロクな仕事なんてないだろうから、その日食うもんだってどうなるか分かったもんじゃないような生活だったと思う。そんなとこに住んでたんだ、あいつら」
 オリヴィエは黙ってそれを聞いていた。オリヴィエ自身は直接見ていないがそんな報告は聞いていたし、逃亡中だった彼らの事情を考えればそれは当然だろう。
「馬鹿だって思ってた。おとなしく諦めてりゃ元守護聖として、下界で何不自由ない生活が送れたはずだ。アンジェだって元女王として、苦労することもない生活が送れたはずだ。それなのに……」
 そこで、少し言葉が途切れた。それから、振り絞るような声で呟く。
「……それなのに、幸せそうだった」
 認めたくないことを、それでも認めざるを得ないような口調だった。
「もちろんそこにいたあいつらを直接見たわけじゃない。それなのに、あいつらがいた家を見ただけで、貧しかっただろうけど、苦しかっただろうけど、でも幸せだったろうって、伝わってくるような、そんな家だったんだよ…………!!」
 狭くて小さくて粗末で、けれど幸せだったんだろうと、そこにあるすべてが伝えていた。ひとつしかないベッドにかけられた、端のほつれた洗いざらしのシーツ。質はよくないけれど、きれいに磨かれたふたつずつの食器。テーブルに飾られた野の花。
 あのとき見たあの家の様子が、ゼフェルの脳裏にはっきり蘇った。
「あのとき分かった。アンジェリークにはオスカーが必要なんだって。心の何処かでずっと思ってた。もし俺ならアンジェを幸せにできただろうかって。でも、そんな仮定すら成り立たないくらい、アンジェにはオスカーが必要なんだ。さっきあんたも言ってただろ。ここで何不自由ない生活してたって、それが幸せとは限らないって。その通りだと思った。アンジェリークはオスカーがいなけりゃ駄目なんだ。他の何があったって誰がいたって意味がないんだ。アンジェリークを幸せにできるのはオスカーしかいないんだ……!!」
 胸元を強く掴み過ぎて、ぎりっと、皮膚の破れる嫌な音がした。けれど、その痛みも気にならないくらい、胸が痛かった。心が痛かった。
 オリヴィエはゼフェルを見つめた。哀れみとも、温かみともつかない眼差しで。
「アンジェリークが……好きなんだね」
 ゼフェルはそれに答えない。ただ遠くを見つめたままでいる。
 好きな人が幸せなら自分も幸せなんて、そんなチンケな台詞を吐く気はない。でも……好きな人が幸せでなければ成り立たないものもある。
 世界が滅びる、その意味を分かってる。だから、迷う。迷いはする。でも。
「俺はお前らよりもう少しまともだと思ってたけど……どうやら俺も、相当イカレてるらしい……」
 自嘲するように、ゼフェルは小さく笑った。壊れた首振り人形が、カタカタと音を鳴らすような、何処か壊れた笑い声だった。
 泣いているのかとオリヴィエは思ったが、次の瞬間顔をあげたゼフェルの目に涙はなかった。代わりに赤い瞳には、暗くて強い光が灯っていた。
 何かを振っ切ったというよりも、何かを失くした者が持つ、暗い光。
 オリヴィエは一瞬後悔しかける。この少年を巻き込んでしまったことを。彼は本来、こんな瞳をするべき者ではなかった。そして、こんな瞳をする者が辿り着いてしまう場所を、知ってる。
 けれど同時に、後悔なんてなんの意味もなさないことも知っている。だから、すぐに頭から追い払った。
「……そのデータの解析はあんたに任せるよ。アタシは、アンジェをここから連れ出す場合の手筈を整えておく」
「……ああ」
 短く答えて、ゼフェルはまたコンソールパネルに向かった。
 オリヴィエは無言で、入ってきたときと同じように、音もなく部屋を出た。
 もう後戻りはできない。そんな分かり切っていたはずのことが、ゼフェルの脳裏に浮かんでは消えた。
 世界が壊れることを望んでいるわけじゃない。だけど…………。
 ほんの少し、胸が痛んだ気がした。
 けれどもうコンソールパネルを操る手が止ることはなかった。


 END