遥か遠く君を離れて


 木漏れ日が若葉を揺らす。もうすぐ来る雨の月を前に、光は一層輝きを増し、緑は一層鮮やかさを増していた。
 スモルニィ学院の中庭を、何人かの生徒が笑いながら歩いてゆく。やっと学校生活にも慣れてきた新入生だろう。
 その生徒達が、ベンチに座り空を眺めている老婦人に気付いて挨拶をする。
「こんにちわ、院長先生。いいお天気ですね」
「ええ、本当にいいお天気ね」
 挨拶を返すその老婦人はその歳にしては姿勢がよく、澄んだ紫の瞳をしていた。名はロザリア・デ・カタルヘナ。かつては女王候補にも選ばれたことのある女性だった。
 ロザリアは試験後、補佐官になることもなく下界に戻り、スモルニィの女王特待コースの教官となり、その後学院長になった。ロザリアの代だけで、スモルニィ学院は大きな発展をとげた。元々伝統ある学園だったが、伝統を守りつつ、新しい改革を進め、素晴らしい学園としてその名はさらに広まった。ロザリア自身も素晴らしい教育者として称えられている。
 ロザリアは、笑い合いながら遠ざかってゆく生徒達を見つめながら、昔の自分を思い出していた。あの聖なる地に女王候補として招かれたのは、ちょうど彼女達くらいのときだった。
 この季節になると、いつも思い出す。いつも常春だった、あの緑に溢れた光輝く都市。この世界とは時間で隔てられた聖なる地。そして、そこで出会ったひとりの少女。
 もうあれから、50年近い月日が経った。それでもいまだ忘れられず、今も思い出す。そして、思い出してはその面影に語りかけずにはいられない。
(どうして……どうしてなの、アンジェリーク)
 この木漏れ日を集めたかのような金の髪と、鮮やかに覆い茂る若葉のような緑の瞳。明るい笑顔とひたむきさで誰からも愛されていた少女。ロザリアが唯一親友と思う、最愛の少女。
 彼女は女王となり、あの聖なる地に留まった。もうその姿を見ることすら叶わない。薄ぼけていきそうな記憶と、儚い夢の中でしか会えない。
 それでも、50年経った今でも、記憶の中の少女に語りかけずにはいられない。
(どうして私を補佐官にしてくれなかったの? 一緒に生きさせてはくれなかったの? アンジェリーク)
 記憶の中の少女は、いつだって何も答えてくれないけれど。

〜・〜・〜

 女王試験の結果は、ロザリアにかなりの差を付けて、アンジェリークが中央の島に辿り着き女王となった。ロザリアにとってそれは悔しいことでもあったが、それ以上に嬉しいことでもあった。
 二人はライバルでもあったが、親友でもあった。ロザリアはよく笑いよく泣く、まっすぐでひたむきな少女が好きだった。
 だから女王となったアンジェリークのために、自分は女王補佐官となり精一杯手助けするつもりだった。アンジェリークもそれを望んでくれると思っていた。
 それなのに。
「私は、補佐官はいりません。ロザリアには……スモルニィへ帰ってもらおうと思っています」
 前補佐官ディアに、ロザリアを補佐官にと言われたとき、アンジェリークはそう答えた。
 ロザリアは息をするのを忘れるほどの衝撃を受けた。握り締めた手のひらに爪が食い込んで皮膚が破れたことにも気付かなかった。
(どうして? どうして、アンジェリーク)
 言葉には出さず、視線にすべての想いを込めてアンジェリークを見つめた。
 ロザリアを補佐官にしなかったら、離れたら、もう二度と会えないことくらい、アンジェリークにだって分かっていたはずだ。それなのに、補佐官にしないと、そう言うのか。
(アンジェリーク。貴方にとって私は、その程度の存在だったの?)
 けれどアンジェリークはロザリアの視線を避けるように、ロザリアと目を合わせようとはしなかった。
 結局それからろくに話す機会もなく、アンジェリークは女王となり、ロザリアはひとり下界へ降りた。
 聖地の門をくぐるロザリアを守護聖達は見送ってくれた。けれどアンジェリークはそこには来なかった。見送りすらなかった。
 最後の別れをちゃんと告げることもできずに、ロザリアは聖地を、最愛の少女の元を去って行った。

〜・〜・〜

 日差しのゆるやかな午後。院長室で、ロザリアがひとり書類に目を通していると、控えめなノックの音がした。
「どうぞ」
 扉から顔を出したのは事務をやっている若い女の子だった。
「院長先生。お客様がお見えです」
「あら、予定にはなかったけれど……どなた?」
「お名前をおっしゃらないんです。会えば分かるとおっしゃって」
 ロザリアは首を傾げる。そんな風に訪ねてくる人物に心当りはない。
「どんな方なの?」
「それが、あのう……」
 困ったように女の子はどもる。
「あの、若い男の方なんですけど、髪が長くて、お化粧もしてまして。……そのう、なんというか、とてもきらびやかな方で……」
 とてもきらびやかな男。一瞬ある人の姿が頭をよぎる。ロザリアはそんな人物をひとり知っていた。
(もしかして……でも……)
 その人に会ったのは50年近く前のことだ。昔彼女がいた、あの聖なる地の住人。あそこは時間の流れが違うから、ありえないことではない。
「すぐに応接室の方へお通しして。私もすぐに行くから」
 読んでいた書類もそのままに、はやる気持ちを押さえながら応接室へと向かった。叶うことなら駆けだしていきたいけれど、それは年老いた体が許してくれなかった。それでも精一杯早足で歩く。
 ノックもせずに応接室の扉を開けた。そこにいたのは。
「ハアイ、ロザリア。元気だったあ?」
 記憶そのままの姿の、夢の守護聖オリヴィエだった。



「オリヴィエ様……お久しぶりです」
「久しぶり。って言っても、あんたと私じゃ、長さが違うんだよね」
 オリヴィエは目の前の老婦人を見つめた。50年の月日が彼女を変えていた。あの頃あれほど艶やかだった藍色の髪は、艶を失い、いくらか白髪も混じり、顔にも手にも、幾本ものしわが刻まれていた。
 それに対してオリヴィエは、あの頃と変わっていない。多少歳をとったようにも見えるが、せいぜい2〜3年だろう。
「向こうでは……聖地では、どのくらい経ったんですか?」
「3年、だよ。アタシも25になっちゃった」
 聖地ではまだ3年しか経っていないのに、こちらではもう50年近い月日が流れた。分かっていたつもりだったけれど、距離ではなく、遠い地なのだと思い知らされる。
「それで、オリヴィエ様は今日どうしてこちらに? 守護聖の方が聖地を離れるなど」
 言いかけるロザリアを軽く手で制す。
「アタシね、もう夢の守護聖じゃないんだ」
「それじゃあ……」
「そ。サクリアが尽きてね、交代したんだ。で、下に降りるついでに、ロザリアに会いに来たの」
「そうですか……」
 色々な言葉が頭の中を駆け巡った。どれから言えばいいのか分からないほど、話したいことも聞きたいこともあった。
 でも、一番聞きたいことが聞けない。女王……アンジェリークがどうしているか。自分なんかいなくても立派に女王をやっていることは、この宇宙を見れば分かる。でも……自分のことなんて、もう忘れてしまっているだろうか。
 聞きたいけれど、聞くのが怖い。もしアンジェリークが自分のことなど忘れていると、はっきり言われたら……。
「……聞きたいことがあるって顔してる」
「えっ」
 顔を上げると、オリヴィエが何もかも見透かした顔で笑っていた。こんな処も変わっていない。一番脳天気そうに見えて、その実一番他人のことを気遣ってくれる。
「アンジェリークのこと、でしょ?」
 言われて、ロザリアは膝の上に置かれた手を握り締めた。
「あっちの時間でも3年経つけどね、まだ時々あんたのこと心配して泣いてる。そんなときはオスカーですら慰めんのが大変なんだから」
「泣いてる……アンジェリークが……私のことを想って……?」
 言葉をなぞるように、ロザリアは小さく繰り返した。
「嘘よ……うそ……そんなの……」
 聞いた言葉が信じられず、ロザリアは大きく頭を振った。勝手にあふれてくる涙を止められない。
「だって……それなら、何故アンジェリークは私を補佐官にしてくれなかったの……一緒に生きさせてくれなかったの?」
 あのときロザリアを突き放したのは彼女の方なのに。こんな風に遥かな時間が隔てる世界に別れさせたのは、彼女自身だというのに。
 その彼女が、アンジェリークが自分のために泣くなど……。
「やっぱり、そんなふうに思ってたんだね。まあ、ロザリアがそう思うのも無理はないけどさ」
 ロザリアがそう言うことを予想していたように、オリヴィエは大きく溜息をついた。
「アンジェリークだってあんたを補佐官にしたかったさ。実際補佐官にするつもりでいたしね、前女王とディアのことを聞くまでは」
「前女王陛下と、ディア様……?」
 意外な人物の名前に、ロザリアは泣き顔をオリヴィエに向けた。
「あの二人が退位後どうなったか知ってる?」
「こちらに降りて暮らしているのではないのですか?」
 オリヴィエの質問の意図が分からず、戸惑いながらロザリアは答えた。
 下界に降りた先は知らないけれど、二人はこちらで一緒に幸せに暮らしているのだとばかり思っていたが、違うのだろうか。
「暮らしてるよ、監視付きでね」
「え?」
 驚くロザリアに、オリヴィエは薄く笑う。
「あんたがいくら女王候補として育てられたといっても、あんたが知らないこともたくさんあるんだよ」
「……どういうことですの……?」
「宇宙を支えるってのはね、やっぱりおキレイな仕事だけじゃないんだ。サクリアだけじゃ、この世界を支えていけない。だから、政治的なこととか軍事的なこととかもあるんだ」
 確かにそうだ。サクリアのことばかりに目が行っていたが、それだけではやっていけない。
「もちろん、私達守護聖や女王の第一の仕事はサクリアの管理で、直接そーゆーことに関わる訳じゃないけど、でもやっぱり立場上トップシークレットとかに関わってくるんだ。だから、下に降りたあと、ある程度の生活と身分の保証はされるけど、自由はかなり制限されるんだ。もちろん元守護聖のアタシもね。……ホント言うと、今日あんたに会いに来るのも、色々手続きとかあって大変だったんだ」
「……知りませんでした」
 こうして旧知の人間に会いに来ることすら手続きが必要とは、一体どんな生活なのだろう。オリヴィエは明るくさらりと言っているが、実際は言葉以上のものなのだろう。もしかしたらオリヴィエがここへ来たとき名乗らなかったのも、そのせいなのかもしれない。
「アンジェリークはそれを知って、あんたを補佐官にしないって決めたんだ。こっちの世界では何十年でも、本人にとって在位期間ていうのは普通数年だ。あんたをその数年のために、残り何十年を捨てさせる訳にはいかないって」

〜・〜・〜

「ロザリアを補佐官にしないって?」
 オリヴィエは、オスカーの腕の中で泣きじゃくっている金の髪の少女に言った。
「ロザリアが下界に降りたら、時間の流れが違うんだよ。多分、二度と会えないんだよ。分かってる?」
 まるで怒っているような口調でオリヴィエはまくしたてた。オスカーが睨み付けてくるのにもかまっていられなかった。
 大切な人と、もう二度と会えないつらさ。それをオリヴィエは嫌というほど知っていた。守護聖としてこの地に招かれたとき、離れなくてはならなかった大切な人達。今も思い出すだけで胸が痛い。
 それなのにこの少女は、自分からその状況を作ろうとしているのだ。声が荒げるのを止められなかった。
 オリヴィエの言葉に、アンジェリークはゆっくりとオスカーの胸から顔を上げた。ぼろぼろに泣き崩れた顔をオリヴィエに向ける。
「……分かってます。ロザリアともう会えないなんていや……。できるなら、ロザリアに補佐官になってもらいたい。ロザリアがいればどんなに心強いか、どんなに助けられるか……。でも……」
 新女王に決まった少女は、目を真っ赤に腫らして、それでも止まらない涙のまま言った。
「聞いてしまったの。陛下とディア様のこと。お二人はこれから自由に外出するのもままならない生活を送るって」
 聰明なオリヴィエは、その言葉だけでアンジェリークの気持ちを理解して、アンジェリークに責めるような言葉を向けた自分を後悔した。
「私が、私のわがままでロザリアを補佐官にしたら、退位したあとロザリアもそんな生活を送らなきゃいけなくなってしまうもの。ロザリアは本当に素敵で、才能があって、いろんなことができる人なのに、私のせいで、私が在位する数年のためだけに、残りの人生を捨てさせることなんてできないから……」
 オリヴィエは唇を噛んだ。アンジェリークがどれほどロザリアを大切に想っているか知っている。そして大切だからこそ決別の道を選ばなくてはいけない。その決断をしたアンジェリークはどれほどつらかっただろう。
 オスカーは腕の中にいるアンジェリークの髪を何度も何度も優しく撫でる。今この愛しい少女がどれほどの哀しみと苦しみに満ちているか。分かっていても、何もできない自分がもどかしい。恋人の必死の慰めもアンジェリークの涙を止めることはできず、ただこうして傍にいて抱きしめることだけが、オスカーにできることだった。
「ロザリアにはちゃんとそのこと伝えたの?」
 優しく尋ねるオリヴィエに、アンジェリークは力なく首を振る。それにつられて金の髪が揺れた。
「どうして? ロザリアだって何も言われずに突き放されたら……」
「ロザリアは優しいから、理由を言ったら無理にでも私の補佐官になってくれる。私のために残りの人生全部捨ててくれる。それが分かってて、言える訳ない……」
 また溢れだしてくる涙に、アンジェリークはオスカーの胸に顔を埋めた。
 アンジェリークは聖地を去るロザリアを見送りにすら行かなかった。泣き過ぎて腫れた顔を見せられないことと、顔を見たら絶対引き止めてしまうだろう自分を知っていたから。
 アンジェリークの気持ちを知っている守護聖達は、どうすることも、何も言うことすらできなかった。

〜・〜・〜

「だから、今でもあんたを思い出しては泣くんだよ。ロザリアは元気か、幸せか、自分の選択が間違っていなかったかってね」
「そんな……アンジェリークがそんなこと思ってたなんて!」
 ロザリアは、ソファから立ち上がって叫んでいた。握り締めた手のひらが震える。
「莫迦よ、莫迦よあのこは……!!」
 記憶の中の少女が鮮明によみがえる。金の髪を揺らして、緑の瞳を輝かせて微笑んでいた少女。誰よりも大切だった。誰よりも愛していた。
「残りの人生なんて、そんなもの……そんなものいらなかった……。私はあのこと一緒に生きたかった。そのためなら……!」
「生きられるならね」
 冷静なオリヴィエの声がロザリアをそっと諌める。
「前女王とディアみたいに、退位後もずっと一緒だと約束できるなら、あのこもあんたを手放したりしなかったよ。でも、アンジェリークにはオスカーがいる」
 アンジェリークと炎の守護聖オスカーが恋人同士ということは、立場上公然の秘密となっているけれど、それは女王候補の頃からのことで、ロザリアも知っていた。
「退位したあと、ま、あの二人は結婚するだろうけど、そのときあんたはどうなる? アンジェリークはオスカーと生きていく。あんたとは生きていけない。一緒に生きていけないのに、あんたを引き止めることはできないよ」
 ロザリアは唇を噛んだ。知っていた。例え聖地に残ったとしても、ずっとアンジェリークと一緒にはいられないと。
「……でもっ、こんなふうに時間に隔てられていきていくよりは、私は同じ時間を生きたかった。傍にいられなくても、一緒ではなくても……っ!」
 今の二人は、遠すぎる。時間という大きな壁が二人を隔てて、距離でなく、遥か遥か遠くへ離されてしまった。
 ロザリアの目から再び涙が溢れだした。立っていることもできず、ソファにうずくまって泣き出した。
 オリヴィエはそんなロザリアをそっと抱きしめた。
「ねえロザリア、あんた今幸せ?」
 泣き続ける老婦人にそっと語りかける。
「どんなに泣いても、もう時間は戻せない。あんたとアンジェリークは時間に隔てられてしまった。あとできることは、アンジェリークが願ったとおり、ここであんたが幸せになることだけだよ」
 今はもう艶を失った白髪まじりの髪を優しく撫でる。
「誰より幸せになって、アンジェリークに、あんたの選択は間違ってなかった、私はこんな幸せだから、もう泣くことはないって教えてあげることだよ」
 それが、ずるい言葉であることはオリヴィエは十分承知していた。ロザリアの一番の幸せは、最愛の少女と離れたときに失われてしまっている。彼女が誰より幸せになることは、もうできない。
 それでも、そう言わずにはいられなかった。その幸せを願わずにはいられなかった。
「アンジェリーク……アンジェ……」
 その名を呼びながらロザリアは泣き続けた。今は遠く離れてしまった最愛の少女。どんなに想っても、もう会うことすら叶わない。
 彼女を想いながら、ロザリアは泣き続けた。



 光あふれる新緑の季節になると、いつも思い出す。あの光と緑に満ちあふれた聖なる都市。そして、舞い降りた最愛の天使、アンジェリーク。
 ずっとずっと、遠く離れてしまった。距離ではなく、もっと遥か遠くに。
 けれどここから、いつも貴方を想ってる。
 届くことがなくても、叶うことがなくても、いつも貴方を想ってる。
 いつもいつも、いつまでも。
 …………貴方を愛してる…………。


 END