この、腕の中の君に
-Last Kiss for dear Doze Angel-
4


 それからしばらくのちに、アンジェリークとオスカーは結婚した。正式な婚姻ではなく、形だけの約束のようなものだったが、それで十分だった。
 反対意見がないわけでもなかったが、それらすべてを押しきる形で遂行された。事情を知る、守護聖首座と補佐官が、ふたりのことを想い、いろいろ手を回したり配慮してくれたおかげでもあった。
 オスカーは、女王の私邸に部屋をもらい、そこで暮らすことになった。アンジェリークがオスカーの屋敷へ行くということも考えられたのだが、女王であるアンジェリークが宮殿を離れるより、オスカーが来た方がいいだろうということになったのだ。
 オスカーはできるかぎりアンジェリークの傍にいた。
 執務や所用でどうしてもというとき以外は、常にアンジェリークの傍にいた。
 そんな炎の守護聖の執着ぶりに、何も知らない人々は、ほほえましさを込めて、ふたりの仲のよさを噂した。
 事情を知る者は、何も言えず、ただそっとふたりを見守るだけだった。



 サラは、森の湖へと続く道を歩いていた。
 森の湖、といっても、それはいつもの飛空都市にあるものではなくて、聖地にあるものだった。聖地に用事のあったパスハに付き添って彼女も聖地に来たのだ。
 ほぼ同じ造りの湖への道だったが、似てはいてもやはり少し違っていて、いつもの慣れた道と微妙に違うその感覚が、サラにとっては新鮮で楽しいものだった。
「あら」
 サラは、すこし前を歩く見知った背中を見つけた。目立つ赤毛に、後ろ姿でも、一目で誰か知れる。そのひとに、声をかけた。
「こんにちわ、オスカー様。おひさしぶりですね」
「サラか。ひさしぶりだな。……結婚式以来か?」
「ええ」
 彼も、湖の方へ向かうようだった。隣に並んで話ながら歩く。
「君が聖地の方に来ているのはめずらしいな」
「パスハがこちらに用事があって。私も一緒に来たんです」
「パスハは? 一緒じゃないのか?」
「もうすぐ来ますわ。湖で、待ち合わせなんです」
 パスハにはいくつかの重要な仕事があったから、そのあいだ彼女は可愛がっているいとこに会いに行っていたのだ。ひさしぶりに会ったいとことは話がはずみ、楽しい時間が過ごせた。
「そうか。俺も湖で待ち合わせなんだ。アンジェリークと」
 森の中を通る道が拓けてきて、湖が見えてきた。
 そこに広がる景色を見て、サラは思わず足をとめた。
 湖の縁で、アンジェリークが冷たい水に足を浸していた。それはまるで、彼女が女王候補だったころのように無邪気な笑顔で。きらきらと、輝いている。何もかもが。
 あまりにまぶしくて綺麗な光景に、思わず目を細める。
「女王陛下、思ったよりお元気そうですね」
「ああ。最近は調子がいいんだ。だから、すこしふたりで出かけようかと思って」
「仲がよろしいんですのね」
 ふたりの仲のよさは、飛空都市にも聞こえてきていた。
 炎の守護聖は、かたときも女王陛下から離れない、と。あのプレイボーイだったオスカー様が、と、驚きと好意を持って伝えられていた。
 今日会ったいとこのメルも、自分が見かけるふたりがどんなに仲がいいか、しあわせそうかを、うらやましそうに話してくれた。
「……オスカー様、私、思うんですよ」
 アンジェリークを見つめながら、サラが不意に言った。
「たとえ、それが悲劇だとしても、哀しい終わりを導いても。出逢えてよかったと思えるなら、それはしあわせなんじゃないかと。決して、運命に負けたわけじゃないと、思うんです」
 オスカーは、傍らに立つ、火竜族の美しい占い師を見つめた。
「君は、たとえばパスハと哀しい別れを迎えることになったとしても、そう思うか?」
「ええ。もちろん」
 心から笑ってみせる。その答に、何ひとつ、嘘などなかった。
 たとえば、パスハがオスカーと同じ運命を持っていたとしても、それでもサラはパスハに愛されたいと願うだろう。そして最後まで傍にいて欲しいと願うだろう。
 アンジェリークが、そう願ったように。
 そして、それが叶えられるなら、きっとしあわせなのだ。
 サラの笑顔に、オスカーもすこし微笑み返した。
「私はここでパスハを待つことにしますわ。おふたりの邪魔したら悪いですから」
 湖までは行かず、ここで待つことにする。どうせ彼もここを通るだろう。それを捕まえればいい。湖まで行って、邪魔をしたくなかった。
「そうか。すまない。ありがとう、サラ」
 そしてオスカーはアンジェリークのもとへと歩いてゆく。
 アンジェリークがオスカーに気づいて笑顔を向ける。
 それを、サラは遠くからそっと見守っていた。



 湖への道を走ってきたパスハは、道の途中にいる恋人を見つけ、駆け寄った。
「サラ。遅くなってすまない。こっちの研究院の主任との話が、少し長引いてしまってな」
 パスハは、飛空都市の研究院の主任として、聖地の研究院に助力を求められていた。
 聖地の王立研究院の主任であるエルンストは、どうにか女王陛下を助けようと、いろいろと手を尽くしていた。今回パスハに協力を求めたのも、その件だ。
 もちろん、女王を助けようと必死になっているのは彼だけではない。守護聖達も補佐官も、事情を知るすべての者が、なんとかできないかと努力していた。
「よい知らせかもしれない」
 弾む息のまま、パスハは嬉しそうに言った。こんな子供のように彼がはしゃぐのはめずらしかった。
「宇宙がかなり安定した。もうすぐ完全に安定するだろう。もしかしたら……陛下は助かるかもしれない」
 その命という力をすべて吸い取られてしまう前に、宇宙が完全に安定すれば。
 あとは通常の量のサクリアを宇宙にそそぐだけでいい。宇宙も、アンジェリークの力を無理に吸い取るようなことはなくなるだろう。
 アンジェリークは助かるかもしれない。
 あともうすこし、女王陛下のお力が持ってくれればと、あのいつも冷静なエルンストでさえ、すこし興奮したように嬉しそうに話していた。
「すまないがサラ、今から私はこのことを、補佐官とジュリアス様に報告に……」
「やめておいたほうがいいわ、パスハ」
 そっと、パスハの腕に手を置いて、サラは走りだそうとする恋人を引きとめた。
 いぶかしげに見つめるパスハに、彼女はゆるく首を振ってみせる。
「叶わない希望は、あとで、より深い絶望になりえるものだから」
「サラ……」
 その言葉に込められた意味に、パスハは動きが止まる。
 優秀な占い師でもある彼女は、どんな未来を見たというのだろう。
「仕事はもう終わったんでしょう? 帰りましょう、パスハ」
「サラ、それは」
「帰りましょう。もう私たちにできることは、何もないから」
 そっとパスハの手を引いて、サラは道を戻って行った。
 遠くから、かすかにしあわせそうな恋人達の笑い声が聞こえたけれど、サラは振り返らなかった。



 ふたりの他には誰もいない自室で。ソファに座って、オスカーはアンジェリークを膝に乗せてあやすように抱きしめていた。
 アンジェリークはオスカーの胸にもたれたまま、うつらうつらと揺れている。
「なんだか、すごく眠い…………」
 今にもまぶたがくっつきそうだった。
 眠さのせいで口調もたどたどしくなって、ちいさな子供のようだ。
「今日は久しぶりに、外に行ったりしたからな。疲れたんだろう。寝ていいぞ。眠いんだろう?」
「でも…………うん…………」
 あやすように、そっと髪を撫でて、まぶたに優しいキスを贈る。
「明日も、具合がよかったら、どこか出かけようか」
「うん。……楽しみ……久しぶりに遠乗り、行きたいな…………」
「ああ。連れて行ってやるさ。だから、明日のためにも、今日はもうおやすみ」
「…………ん…………」
 かろうじて開いていたまぶたが引き寄せられるように閉ざされ、その翡翠が隠れる。
 それとほぼ同時に、静かな寝息が聞こえてくる。
 オスカーは幼子にするように、そっと体をゆすってやる。ゆりかごが、そっと揺れるように。
 ぬくもりと軽い揺れが心地いいのか、アンジェリークはちいさく微笑んだまま、気持ちよさそうに眠っている。



 やがて。



 腕の中の、静かな寝息が。
 ゆるやかに、そっと、途切れて。



 オスカーは、もういちど、そのまぶたにくちづけた。
 もう開かれることのない、その翡翠の瞳に。






『オスカー。おまえは、いつか』

『愛する者を、その手で』

『……死へと導くだろう……』






 いつか聞いた言葉が、よみがえる。
 それでも。






「それでも…………俺は、君に逢えて、よかったと、思うよ」




 そっと、呟いた。
 もう彼女には届かないと、分かっていながら。






「…………おやすみ…………」
















 ………………………………おやすみ。




 END