いばらの涙 -3-



『アンジェリーク』


 呼ぶ声が聞こえる。
 暗い暗い闇の中から、呼ぶ声。
 ソレがなんなのか、はっきりとは分からない。でも本能で……あるいはサクリアで、ソレがなにであるか、悟っていた。
『アンジェリーク』
 声は闇へと誘っている。
 強い力に逆らえきれず、引き寄せられる。暗い、暗い闇の中へと。
(助けて!)
 叫ぶ声は誰にも届かない。
 声にならない声は、誰の耳にも聞こえはしない。
(助けてオスカー!)
 彼女は声にならない声を張り上げて、その名前を呼んだ。その、愛しい人の名を。  けれどやはり、聞こえない声は届かない。助けは来ない。
 アンジェリークの意識は引き寄せる声に引かれ、どんどんと闇に飲まれてゆく。漆黒の闇に塗り込められる。
『アンジェリーク』
 闇は少女の意識を侵蝕する。それを誰にも止められない。
(オスカー!!)
 すべてが闇に飲み込まれるその瞬間まで、少女は愛しい人の名を呼び続けた。愛しい人を想い続けた。
 それもすべては闇に消え、そしてすべてはただの無となる。



 ねえ、私が私でなくなっても、愛してくれる?



 謁見の間に、9人の守護聖が集まっていた。
 全員が新しくなった正装に身を包み、部屋の中央に置かれた赤い絨毯の両脇に並んでいる。
 これから、女王との謁見が行なわれるのだ。
 女王と守護聖の謁見は、基本的には2週間に1度定期的に行なわれる。緊急の事態が起こった場合や特別に報告があるときなどには、臨時で謁見が行なわれるが、それはそう多いことではない。
 今日は、定期の謁見が行なわれようとしていた。
 宇宙は移転したばかりではあるが、今のところ特におおきな問題もなく、緊急に謁見を開かなければならないようなことはなかった。
「オスカー。なにそわそわしてんのさ。そのうちジュリアスに怒られるよ」
 こっそりと隣から声をかけられる。前よりもさらに露出度が上がり色鮮やかにきらびやかになった衣装をまとったオリヴィエだ。
 いくらオリヴィエが聡いとはいえ、そんなに見た目にも分かるほどにそわそわしていただろうかと、オスカーは自分を振り返った。
 ……確かにすこし、落ち着きがなかったかもしれない。何度も何度も女王が現われるはずのカーテンを見ては、アンジェリークがいつ現われるかいつ現われるかとやきもきしていた。
「なあに。あんた、最近アンジェリークに逢ってないの?」
「ああ。お互い忙しいのと、タイミングが合わないのが重なってな。仕事でさえ、顔を合わせてもいないんだ」
 以前は、書類を届けたり、報告へ行ったりしたときに、顔を合わせることはよくあった。もちろん仕事中だからとけじめをつけているから、私的な会話など交わせないし、恋人として振舞うことなど決してないが、それでも傍にいられるだけで、その姿を見ているだけでもしあわせだった。
 だがここ数日は、運が悪いのかなんなのか、アンジェリークの姿を見ることさえ出来ずにいた。もちろん夜に逢いに行くことも出来ずにいる。
 今日の謁見で姿を見るのさえ久しぶりなのだ。
 それに…………。
『……オスカー。私、怖いの』
 あの夜の彼女の言葉が、心の中によみがえる。そのことがずっと胸に引っかかっていた。
 あんなにも脅え、震えていた。あんな彼女は、見たことがなかった。アンジェリークはその可憐な外見とは裏腹に、芯は強くしっかりしていた。だからいつもはあんなふうにただ泣くことなどなかった。
 それがあんなふうに泣いていたということは、それほどに不安なことがあったのだろう。
 アンジェリークは大丈夫だろうか。脅えていた彼女の不安は、もう取り除かれたのだろうか。
「皆様、女王陛下がおいでです」
 着任してまだ間もないというのに、女王補佐官として堂々とした姿のロザリアが、居並ぶ守護聖達に声をかけた。そこにいた者達の視線が、いっせいに緋色の重厚なカーテンへと向けられる。
 その声とほぼ同時に緋色のカーテンが左右に分かれ、その向こうにいた少女の姿が現われた。

 その瞬間、誰もが息を飲んだ。

 ほんの数週間前まで、おてんばな女王候補で、女王に就任してからもまだ幼さと危うさを持っていたというのに。着せられた女王の衣装も、おろしたての制服のように何処かなじんでいなかったというのに。

 今、目の前にいる彼女は。

 そこにいるだけで、まばゆい光を振りまくようだ。一歩一歩足を踏み出すその仕草さえ、優雅というよりも、荘厳さが漂う。床に引きずるほどに長い裾も、なめらかになだからに、衣擦れの音ひとつ立てずにさばかれる。
 ゆっくりと豪奢な玉座に深く腰を沈めた少女は、凛としていた。
 その姿に、あふれでるその威厳に、皆が思わず姿勢を正した。それだけの迫力が、彼女にはあった。
「皆、よく集まってくれました」
 玉座にいる少女は、まるで今までとは別人のようだった。
 幼さなどない。危うさなどない。
 いやまるで、人でさえないようだ。そこにいるのは『神』。世界を統べる力を持つ『女神』。
 つい先日、オスカーの腕の中で泣いていた面影など、かけらもない。
(アンジェリーク?)
 オスカーの胸を、訳もない不安がよぎる。急に、アンジェリークが手の届かない遠くへ行ってしまったような気がする。もう手の届かない、遠く遠くへ。
 彼女が女王になっても、ふたりの関係は変わらないと思っていた。確かに立場も状況も変わって、前のようには会えないだろうし、前とまったく同じではいられないだろうと思っていた。でも、自分の気持ちも、彼女の気持ちも、それは決して変わることはなくて、だからそうであれば大丈夫だと思っていた。信じていた。
 だがその自信が、急に揺らぐようだ。
 何故こんな急に、そんな風に思うのか分からない。いくらアンジェリークが女王然としたからといって、こんな急に不安になることなんて、ないはずなのに。
(アンジェリーク。俺達は大丈夫だよな?)
 胸の不安は、どんなに否定しても消えなかった。
 謁見はつつがなく行なわれた。新宇宙に対するいくつかの改正点と、旧宇宙がどうなっているかの調査の報告、そして定期連絡をして、謁見は終了した。
 女王が、入ってきたときと同じ荘厳さでカーテンの向こうへ消えると、そう強いられていたわけでもないのにやっと緊張の糸が切れたとでもいうように、皆が大きな息を吐いた。あまりに神々しい女王を前にして、背筋を伸ばし、息を詰めずに入られなかったのだ。
 こんな謁見は今までなかった。いくら女王との謁見とはいえ、守護聖とアンジェリークは女王候補時代から知っていることもあり、もっと和やかな雰囲気で行なわれていたのに。
「なんか僕、びっくりしちゃった。アンジェ、完璧な『女王陛下』って感じなんだもん」
 まだその興奮からさめやらないという感じで、マルセルがまくしたてる。
「うん。俺もそう思った。なんか今までと全然雰囲気違ってさ。別人みたい」
「けっ。女王になったからって、急に気取りやがって」
 ランディは、マルセルと同じように純粋に驚いている。ゼフェルの乱暴な物言いは、アンジェリークがどこか遠くなってしまったように感じる寂しさの裏返しなのだろう。
「アタシも驚いちゃった。すこし見ないあいだにズッゴク大人っぽくなってたわネー」
「女王としての威厳が身についてきたということだろう。よいことだ」
 ジュリアスがみんなの言葉を締めくくるように重々しくうなづいた。彼としては、『女王らしくなった』アンジェリークに大満足なのだろう。守護聖首座であり、厳格な彼は、女王職についてもずっと幼さの抜けずにいた彼女に、ひどく気をもんでいたから。
 女王としての威厳がついてきた、というジュリアスの言葉に、皆納得して、口々にまたアンジェリークのことを話しながら、ばらばらと謁見の間を後にしていった。
 しかしオスカーは、皆が出て行ってしまい、広い空間にひとり取り残されても、そこを動けずにいた。
(アンジェリーク)
 少女が去っていった緋色のカーテンを、にらむように見つめる。もういちど、彼女がその向こうから現われてはくれないかと願いながら。今日謁見で現われたあの『女王』ではなく、いつも一緒にいたあの笑顔をたずさえた彼女が現われてくれないかと。
「…………」
 けれど、風も吹かないこの場所で、厚いカーテンはさらりとも揺れはしない。
 オスカーの胸に、不安がつのってゆく。
 あの変わりようは、彼女が女王としての自覚を持ったからなのだろうか。本当に、それだけなのだろうか。彼女が女王になっても何も変わらないと思っていたが、本当にそれはそうなのだろうか。

『私が私でなくなっても、愛してくれる?』

(まるで、別人みたい)

 何かが胸に引っかかる。泣いていた彼女の言葉と、さっきランディのこぼした言葉。どうしてそれが、こんなにも胸に引っかかるのだろう。
 たとえ女王になっても、アンジェリークはアンジェリークだ。何も変わらない。
 ────変わらない、はずだ…………。
 そう誓った。自分も、アンジェリークも。あの誓いを、信じている。
 それでも押し寄せる不安に耐え切れずに、オスカーは無礼を承知で、玉座のある一段高い台座に足をかけた。通常守護聖がそこへ足を踏み入れることは許されない。けれどオスカーはそんなことにもかまわず大股で台座へあがると、女王が入っていった緋色のカーテンへ手を伸ばした。
「アンジェリークっ」
 カーテンを払いのけ、奥へと進む。そこは女王の執務室へと直接つながっている。
 この通路を通るのは、緊急時以外では女王と女王補佐官しか許されない。女王の執務室へ行くにも、他の正規の通路を通らなければならない決まりだ。いくら守護聖とはいえ、見咎められたなら、不敬罪として罰せられかねない。
 それでもオスカーはアンジェリークの姿を探してその道を進み続けた。遠回りをして悠長にアンジェリークのもとへ向かうような余裕などなかった。
 幸いにも、通路に他に人影はなかった。オスカーは誰にも見咎められずに奥へと進んでゆく。
 そのとき、長い廊下の向こうに、見慣れた人影を見つけた。金の髪と淡い桃色の衣装は遠目にも鮮やかだ。いや、もしここが一筋の光さえない闇だったとしても、彼女の姿は見えたかもしれない。それほどに、彼女は美しく神々しく輝いていた。
「アンジェリーク」
 オスカーは少女の名を呼ぶ。
 その声を耳にとめ、ゆっくりとアンジェリークは振り向いた。
「ア…………」
 もういちど呼びかけた声は、オスカーの喉の奥に張りついた。
 オスカーを見つめるその翡翠の瞳は、あんまりにも凍るように冷たかった。
 そんな瞳を向けられたことなど、ただいちどとしてなかった。今そこにいる彼女は、一体誰なのだろう。
 だが、その一瞬あと、彼女がいちど瞬きして次にその瞳を現わしたときには、そんな色は消えていた。いつものように、春の草原を想わせる翡翠色のあたたかな瞳に戻っていた。
「オスカー」
 そう言って微笑む彼女は、いつもどおりの彼女だ。
「どうなさったんですか?」
 笑顔でオスカーの元へ駆け寄ってくる少女に、おかしなところは何もない。愛らしい笑顔も、やわらかな瞳も。
 あまりもに変わらないから、オスカーのほうが戸惑ってしまう。
「いや……。今日の玉座に座った君が、あまりに美しかったからな」
「もう。何おっしゃるんですか。それに私は、『女王』ですもの。いつまでも女王候補の頃とおんなじままじゃまずいでしょう? 私だってちゃんと『女王』のお勤めが出来るよう頑張ってるんですよ」
「ああ……そうだな」
 そうアンジェリークに言われると、なんだか不安になっていた自分のほうが莫迦らしく思えてしまう。一体、自分は何を脅えていたというのだろう。
 アンジェリークだって、日々女王として立派に果たそうと頑張っているのだ。だからだんだんと女王らしくなって当たり前だ。自分だって守護聖になりたての頃はただの子供だったが、だんだんと守護聖らしくなろうと努力していったではないか。それと同じことだ。
 心配することなど、何もない。そう、何もないのだ。
「すまない。おかしなことを言って。君があんまり美しかったから、君がどこかへ行ってしまうのではないかと不安になったんだ」
「オスカーったら」
 オスカーは愛しい少女を腕の中に抱きしめる。そのぬくもりはなにひとつ変わらない。だからオスカーは安心する。愛しい少女は女王になったが、それでも彼女は腕の中にいるのだ。
「愛している。アンジェリーク」
「オスカー」
 愛しげにその金の髪に唇をうずめて、その輪郭を確かめるように何度も背をなでる。
 抱きしめるオスカーは気付かなかった。見ることが出来ずにいた。
 抱きしめられる少女の瞳が、冷めた瞳ですがる男を見つめていたことに。


 To be continued.

 続きを読む(もうしばらくお待ちください)