続き
ココ様 |
まだ下界にいた頃、俺は初めて女性の涙を見た。
それは宇宙の絶望が一気に押し寄せてきたようで、一人残された俺は呆然と立ち尽くしていた。孤独と虚無感。そして何よりも辛かったのが、その輝く瞳から流れ出る涙。俺との思い出全てを否定する、涙。
レディの泣き顔を見るのは、もう御免だ。
だから今度人を愛する時があれば、その時は包み隠さず全てを語ろう。そう決めていた。流れる髪の美しさも、瞳の輝きも。一瞬感じた想いも逃さずに相手に伝えようと。
だが、自室のドアから顔を覗かせる少女は、それを怪訝そうに受け止める。
「……どうした、お嬢ちゃん。俺と過ごすのがそんなに不満なのか?」
「いえ、違うんです」
目も合わせずに彼女は短くそう答える。
「お嬢ちゃんの瞳はそうは言ってないな。言いたい事ははっきり言わないと相手に伝わらない。たとえその答えがはっきりと顔に出ていても、だ」
そう、それがあの時得た教訓。お互いをさぐり合っても同じ過ちを繰り返すだけだ。
「あまりむずかしい話をしてる訳じゃないぜ?せっかくの日の曜日だからお嬢ちゃんと過ごしたくてデートの誘いに来た。イエスかノーか、それだけじゃないか」
「……………」
それでも彼女は俯いたまま、俺の目を見ようとはしない。
「その沈黙はノーと取ってもいいんだな?」
諦めて俺は彼女の部屋を後にする。背中に痛い程の視線を感じながら。
彼女の視線が俺を攻めているのは分かる。が、それは推測に過ぎない。彼女の口から語られる言葉だけを真実と受け止めるとあの日決めた。
「………オスカー様!」
寮の長い廊下を高い声が響き渡る。
「…気にする事はない、今度お嬢ちゃんをエスコートできる日を楽しみに待ってるぜ」
「違うんです!あの……」
ぱたぱたと駆け寄る彼女の瞳には、はっきりと迷いの色が伺える。
「何だ?」
「私を本気で誘って下さってるんですか?」
また、あの時と同じ瞳の色をしている。
明らかに俺の言葉を信用していない、その目。
俺はいつだって本気だ。だがその思いは彼女に全くと言っていい程伝わらない。
弄んでいる訳でもなく、俺の言葉は全て真実なのに。
あの時の苦い思い出が頭を彷徨う。
これは、たったひとりの女さえも上手に愛せなった俺への定めなのか?
〜・〜
彼への気持ちを知らない振りしてる訳じゃない。
昨日彼の執務室へ行った時、ロザリアと楽しそうに話している彼等を見た時にすごくいらいらする思いが込み上げてきた。ロザリアにだって優しい言葉をかけている彼を、私は心の底で少しだけ憎たらしく思っている。
だから今日の態度は彼への反発。
これはわがままかもしれないけれど、どうしてもその甘い言葉を私だけに囁いて欲しい。
私は彼のいなくなってしまった部屋をぐるりと見回し、ため息をつく。
(駆け引きなんで出来るほど余裕がないのに……)
うんざりするほど眩しい太陽と鳥たちのさえずり。頬には一筋の涙の跡。けだるい身体を起こし、制服に着替え、明日もまた一日を始めなくてはならない。でもどうしても今だけはベッドから起き上がる事が出来ない。
その時、軽くドアをノックする音が聞こえる。
「………はい、どなたですか…?」
「私よ、ロザリア」
私は重い身体を起こしてドアを開く。
「……どうしたの?その酷い顔」
「……悪いけど、生まれつきなのよ……」
そう言うと、ロザリアは私の額に手を当てる。
「そうじゃなくて、具合が悪いの?って事。熱はないみたいだけど……」
「ぐあい……?」
そう言われてみると、頭が石のように重い。身体には足かせがついているみたいに自由に動かないし、こうやって立っている今も足元がふらふらしている。
「せっかく今日はあなたとおしゃべりしようと思ったのに。ま、いいわ。あなたはベッドで寝てなさい」
ロザリアは私をベッドまで連れていくとゆっくりと布団をかけてくれる。
「ゴメンね、ロザリア……」
「こんな時に気を使わなくてもよくてよ。私が聖地で一番腕の良いお医者さんを連れて来てあげるから、しばらく横になっていなさい」
ロザリアはそう言って部屋から出ていってしまった。
仕方なくベッドに身体を預け、天井を見上げる。
天井は歪んでぐるぐると変型していく。私はこらえきれない嘔吐を感じ、目を閉じた。
緩やかな眠りにつくと、夢の中で彼に出会ってしまう。
それは現実には考えられない光景。私だけにアイスブルーの瞳を向けてくれる彼。そしてその瞳に映る幸せそうな私の笑顔。
鮮やかな草原と彼の燃えるような赤毛、大きな彼の影と私のそれがひとつになっていく。抱き締める彼の暖かい胸。
お願い、もう少しだけ夢をみさせて………
俺は誰を待っているんだ?
今朝の彼女の行動から、俺の気持ちははかなく砕け散ってしまったじゃないか。それなのに朝からじっと椅子に腰を掛けて彼女の笑顔が見られる事を待ちわびている。
俺の本気はどうやら彼女には伝わらないらしい。
それならいっそ、彼女の未来を影ながら応援するのも悪くないかもしれないな…
「……ごきげんよう、オスカー様!」
耳もとで大声を出されたので、俺はつい目を見開いてしまった。
「…お嬢ちゃん、紳士の部屋を訪問する時にはまずノックだ」
「あら、失礼しました。でも、私はちゃんとノックをしましたわ。オスカー様の方こそ考え事に夢中で聞こえなかったんじゃなくて?」
まったく、とんでもない跳ねっ返りだ。口では『失礼』と言っても顔は全然悪怯れた様子が見えない。
「…で、どうした。お嬢ちゃんの笑顔を見られるのは嬉しいが、どうやら俺に会いに来るのが目的じゃなさそうだな」
「ええ、今日の私は伝書鳩なんです」
その時俺の脳裏に悪い予感がよぎる。彼女が俺に伝言があるとしたら、その相手はあの子しかいない。しかしそんな不安を目の前のじゃじゃ馬に知られると後が恐いからな…
「では眩い輝きを持つ伝書鳩殿。伝言とやらを聞かせていただこう」
俺は出来るだけ平静を装ってそう言う。
「アンジェリークがオスカー様に会いたがってます。あの子の部屋へ行ってもらえませんか?」
「アンジェリークが、俺に………?」
オスカーは予想外の言葉にどきりとした。お嬢ちゃんが俺に会いたいだと?……しかも自室に呼び出してまで話す事なんて俺とアンジェリークの間にあるのだろうか?
「あの、オスカー様?考え事は私が帰ってからにしてもらえません?」
「あ、ああ。悪かったな」
「じゃ、伝言はちゃんとお伝えしましたからね。私はこれで退散いたします。失礼しました」
やれやれ……困ったお姫様だ。
「あ、もうひとつ言い忘れてました」
「……今度は何だ?」
「バラの花束を忘れず持っていってくださいね、絶対ですよ?」
「それも君の雇い主からの伝言か?」
ロザリアはドア越しににやっと笑う。
「いえ、これはしがない伝書鳩からの注文ですわ、オスカー様」
後味の悪い言葉を残してロザリアはとっとと退散してしまった。彼女は何かを知っているのだろう。しかも、どうやら俺がアンジェリークに対して特別な感情を抱いている事はお見通しのようだ。
俺は何が何だか分らないまま、ロザリアの言う通りに薔薇の花束を抱えてアンジェリークの部屋の前まで来てしまった。もう、二度と来るつもりじゃなかったドアの前。意を決してそのドアを叩く。
返事はない。
「……お嬢ちゃん、いるのか……?」
しかし、返事はない。
俺を呼び出しておいて留守という事はないだろう。ノブに手をかけると案の定鍵はかかっていない。俺は心の中で謝りながらそっと部屋の中へ顔を覗かせる。
静かな部屋の中で、ベッドの小さな膨らみが俺の目に止まる。
普段見せない苦しそうな表情をし、額からは少し汗が滲んで少し髪の毛が張り付いている。
(なるほど、そういう訳か……)
俺は近くにあったタオルでその汗をぬぐい取った。時折うなされているのか細い声で何かをつぶやいている。椅子を側に寄せ、その苦しそうな顔を見詰めていると彼女がとてつもなく小さく見える。
小さなものを守ってやりたくなるのは、男として当然の心理だろう。しかもそれが愛する人ならばなおさらだ。
「愛している、アンジェリーク……」
つい、そんな事を口走ってしまった。
〜・〜
なんて都合の良い夢。
心地よい夢の中で私はそんな事を考えていた。ずっと聞きたかった言葉を夢の中で聞くなんて、なんて皮肉。私はゆっくりと彼の瞳を見る。その瞳はいつもより淡く、そして少し陰りが見える。まるで私からの返答を待っているかのように。
現実に叶えられない想いを夢の中で実現できるなら、それでもかまわない。
「………私も愛しています、オスカー様………」
ようやく言えた、私はずっと言いたかったその一言に安心して涙を流していた。
どんどん溢れ出して彼の顔がかすんで見える。
お願い、もっと顔をちゃんと見せて……
「本当なのか?アンジェリーク」
彼の指先が私の頬を拭う。その時、はっきりとアイスブルーの瞳が写る。いつの間にか草原はなく、周りには見慣れたチェストや机が見える。
私は恐る恐る頬にあてられた手に触れる。その大きな手は暖かく、少し骨ばっている。
「ここは………?」
「君の部屋だ。随分うなされていたが、大丈夫か?」
どこまでが現実なのか分からなくなっていた。けれど目の前に彼がいることは、まぎれもない事実。
「オスカー様、どうしてここに?」
「…ロザリアが俺の執務室へ来て教えてくれたんだ」
少しずつ記憶が蘇ってくる。そうだわ、私、今日の朝身体がだるくて、ロザリアがお医者様を呼んでくれるからって……
(ロザリアったら………)
私は申し訳なさそうに彼の顔を見た。
「…どうした?」
「あの、ロザリアが変な事言ったみたいで…ごめんなさい」
そう言うと彼は穏やかな顔をして私の髪をすっと撫でる。
「謝るような事は何もしてないはずだぜ?君は俺の想いに応えてくれた。それだけでここへ来た甲斐があった」
「応えた…あれは、夢じゃなかったの?」
アイスブルーの瞳は優しく潤む。
「夢?」
「私、夢をみていたんです。オスカー様の……」
「これは光栄だな、君の夢の中へ招待してくれるとは。でも、これは夢じゃないぜ?夢の中の俺が何を言ったか知らないが、夢心地のまま応えてもらったんじゃ悲しいからな。もう一度言わせてもらおう。俺は君を愛してる……君の返事は?」
嘘じゃなかった。あの時彼が目を見詰めて話してくれた事は全て現実だったんだわ…
「私も、愛しています。オスカー様」
私がそう言うと、彼は何かに解き放たれたように穏やかに微笑んだ。
その緩やかな笑顔につられて私も微笑む、彼はゆっくりと布団をかけてくれる。
「さあ、恋の病にかかっている姫君はもう休むといい。この先はまた、君が元気になってからだ…いいな?」
優しく頬にキスをしてくれる彼の笑顔を瞼の裏に写しながら、私は目を閉じる。
左手は暖かい手で握られている。その体温は私の身体までもあたためてくれる。
「続きは夢の中じゃないんだぜ?アンジェリーク」
深い眠りにつく前、私はそんな言葉を聞いたような気がした。
〜end〜