霧に消える(9)


 服の裾が、床に溜まった小さな水たまりに浸って、小さな音を立てた。
 重罪人のために用意された地下牢は、いつだって暗く冷たく湿っている。吐く息は白く染まって、手がかじかみそうだった。ここが、あの常春の聖地にあるとは信じられないほどだ。
 平和と言われる聖地で、この場所が使われることは滅多にない。だから手入れも行き届いておらず、むき出しの石壁に触れるとざらりとした湿ったほこりの感触がした。
 ルヴァは、手に持った小さなランプの明かりを頼りに、奥を目指して進んでいた。
 地下牢に窓はなく陽の光が差し込むことはないし、また、設置されている人口灯も数が少ないうえ光も弱く、さらにそのうちのいくつかは壊れて明かりが付かない状態で、月のある夜の方が明るいくらいだった。
 そんな暗さの中でも、いくつも並んだ牢の中で、目指す場所はすぐに知れた。今この牢に入っているのはたった一人で、彼がいる牢の中にだけ小さな明かりが灯されていたから、その明かりを目指せばよかった。
 重罪人、セイラン。
 かつて彼に与えられていた「天才芸術家」という称号も、「感性の教官」という役職も、今は誰に呼ばれることもなく、ただ「この宇宙を滅ぼそうとした重罪人」として、彼は呼ばれていた。
 牢の中にひとつだけあるちいさな明かりが、中にいる彼の姿をぼんやりと映しだしていた。鉄格子の向こうで、両手首を拘束されたまま、セイランは壁にもたれて床に座っていた。
「……セイラン」
 知った声の呼びかけに、セイランはのろのろと顔を格子の方へ向けた。鉄格子の向こう側にいる地の守護聖の姿を捕えた。
 罪人として捕われ、牢に閉じ込められているというのに、いっそ彼の顔は穏やかで、ルヴァはそれを美しいとさえ思った。あの皮肉げな感じもなく、冷たい感じもなく、そう、まるで殉教者のようだと思った。
「久しぶりですね、セイラン」
 ルヴァはそう声をかけた。
 実際のところ、彼がアンジェリークを逃がし、その罪を問われこの地下牢に入れられてから、そう日が経っているわけではなかった。けれど、そんなことも、遠い昔のような気がしていた。
「……彼女は、どうなりましたか?」
 セイランは挨拶を返すこともせずに、そうルヴァに尋ねてきた。
 あまりに予想通りの反応に、ルヴァはいっそ場を忘れて笑いだしたくなってしまう。
 それを、尋かれるだろうと思っていた。彼にとって重要なことはそれだけだから、それを尋かないはずがないと分かっていた。そして、ルヴァもまた、それを伝えるためにここへ来たのだ。
「わかりません」
 地の守護聖は、短くそれだけを言った。
 それは、まだ彼女の行方を掴めていない、彼女は逃亡中だ、という意味にもとれるが、その中に含まれるわずかなニュアンスの違いをセイランは勾取っていた。
「なにか、あったんですか、彼女に」
 セイランは壁から背を離して、少しだけルヴァへにじり寄った。
 ルヴァは、少し眉根を寄せると、目を閉じたまま、セイランに告げた。
「アンジェリークのサクリアが、途絶えました」
「!? それは」
 言いかけるセイランに、ルヴァはそっと首を振って言葉を止めた。
「今まで彼女を追う手掛かりは、彼女の持つサクリアだけでした。けれど、それが消えてしまった今、この広い宇宙からたったひとりの人間を見つけだすことはおそらく不可能です。彼女がどうなったか、私達が知る術は、もうありません」
 彼女が再びこの聖地から下界へ逃げてから、こちらの時間では数日しか経っていないが、下界ではもっと長い時間が流れているだろう。その時間にさらされて、サクリアが尽きたのか、あるいは……アンジェリークが死んでしまったのか。
 どちらにしろ、もうアンジェリークを探すことはできない。また捜し出したとしても、サクリアのない彼女はもう女王ではない。この世界を支えることはできない。
 それでも探し続けて、生死の確認をしたり罪に問うこともできなくはないが、今は、完全に女王のサクリアを失くしたこの宇宙を支えることの方が先決だった。おそらくは、アンジェリークの捜索は打ち切られるだろう。
 もう、アンジェリークの生死も、行方も、誰も知ることはできない。
「……私達にできることは、もう、祈ることだけです。彼女がしあわせであるようにと……祈るだけです」
 ルヴァの言葉に、セイランは口元をゆがめて笑ってみせた。いつも見せていたような皮肉を込めた笑いではなく、本当の笑い方を知らない子供が、笑顔を作ろうと努力して、それでもうまくいかなかった笑い顔。
「祈れば、それは叶うんですか? 祈れば、彼女はしあわせになれるんですか?」
 その問いの答えを、ルヴァは持っていなかった。
 二人のあいだにわずかな沈黙が訪れて、それから地の守護聖がそっと口を開いた。
「私は、もう戻ります。さようなら、セイラン」
 セイランがそれに答えるよりも早く、あるいは答える気もなかったかもしれないけれど、ルヴァは彼のいる牢に背を向けて、もと来た道を帰りはじめた。
 長いことこの寒い牢にいたせいで手がかじかんで、手が震えて、それと共にランプの明かりも頼りなげに揺れていた。あるいはそれは、寒さのせいだけだったろうか?
 急ぎ足でそこから去ろうとするルヴァの靴音と、吐き出される凍った息の音だけが、湿った石壁に響いた。
 セイランは、自分の処遇についても、この宇宙の今後についても、アンジェリークについてのこと以外、何も尋かなかった。おそらくそれらは、彼にとってどうでもいいことなのだろう。
 ゼフェルとオリヴィエは、あのあとの追跡ですぐに捕まった。だが、そのときにはもうアンジェリークは一緒ではなかった。
 彼女はオスカーの手にゆだねられ、そのふたりは逃げたあとだった。
 ゼフェルとオリヴィエは、そのまま逃げるつもりはなかったようだ。彼らの目的はあくまでアンジェリークを逃がすことで、目的を達成した後は潔く罰を受けるつもりだったらしい。
 彼らもしかるべき場所で裁きを待っている。
 罪人というのならヴィクトールも同じで、彼も女王を殺そうとした罪で捕われている。彼の今までの功績や情状酌量などからこの地下牢には入れられていないが、彼もまた、重罰は免れないだろう。
 アンジェリークの力を受け継ぐはずの、新たな女王のサクリアは、いまだ感知されていなかった。だから、本当の女王を失ったままこの宇宙は、女王候補の一人が女王となり、もう一人が補佐官となり、もともとの補佐官であったロザリアと共に支えてゆくことになった。
 この三人で支えていけるのかはまだ分からない。実際、今も宇宙の崩壊は確実に始まっている。それを食い止めることができるのか……。
 女王候補達……いや、今はもう新女王と新補佐官になった二人は、セイランとヴィクトールの罪の軽減を嘆願している。宇宙がこのあと彼女らによって支えきることができれば、それは聞き入れられるだろう。支えきれなければ……罪を問う前に、この宇宙ごと消えるだけだ。
 けれど、どちらになろうとも、セイランにはどうでもいいのだろう。宇宙が救われ、自分の罪が許されたとしても、それを少女二人に感謝することもなければ、宇宙ごと死んだとしても、それを怖がることも哀しむこともない。他の誰がどんな罪に問われようと、どんなことになろうとも、彼には関係ない。
 そのことが、ルヴァには腹立たしいのか……あるいはうらやましいのか。自分でも分からなかった。
 セイランを恨んでいるのか憎んでいるのか、それとも…………。
 もうルヴァには、何ひとつ分からなかった。



 セイランは、地の守護聖の去ってゆく足音がちいさくなってゆくのを聞きながら、またもとのように壁にもたれた。
 祈る。
 昔、セイランはずっと祈っていた。
 それは大層なことではなく、ささいな、ちいさなことだった。
(誰か、手を差し伸べて)
 それが、それだけがセイランの願いだった。
 それなのに、薄汚い孤児になんて、誰も見向きもしなかった。それが、やがてセイランの持つ美貌や才能を知ると、それを利用しようと手を伸ばしてきた。
 セイラン自身に手を差し伸べてくれる人はいなかった。
 ずっと、セイランのそんな些細な願いすら、叶うことはなかった。
 セイランの願いを叶えてくれたのはただひとり……この宇宙の、女王。
(アンジェリーク)
 その名を心で呼ぶだけで、その姿を微笑みを心に思い浮かべるだけで、心にひとつ、灯がともる。
 彼女のしあわせを願いたい。彼女のしあわせを祈りたい。
 けれど一体誰に祈ればいいのか。セイランは無神論者だ。……昔は信じていたかもしれないが、やがて信じることもやめてしまった。
 世界には、この宇宙を統べる女王と守護聖を信仰する一派もある。確かに彼らは神に等しい存在で、実際に存在もしている。
 けれど、彼女のしあわせを、彼女に祈るなんて、それもまたお笑い草だ。
(僕は……)
 それでも祈らずにいられない。
 かつて、叶わないと知りながら、それでも祈り続けたように。
 祈る。

 ただ、彼女がしあわせであるように。

 祈る。
 誰に祈るのか、それすらもわからないのに。
 何故祈るのか、それすらもわからないのに。

 ただ、彼女がしあわせであるように。

「アンジェリーク……しあわせになって。しあわせでいて。……それが、僕のしあわせだから」
 セイランはちいさく呟いた。
 声は石作りの壁に反響するが、立ち込める水蒸気が響きを吸い取って、すぐに静けさを取り戻す。
 もたれた石作りのむき出しの壁は、冷たくて少し湿っている。
 外のあたたかい聖地と、冷たい地下牢の温度差から来る靄が、まわりじゅうに立ち込める。
 セイランはそっと瞳を閉じた。寒さのせいか、ひどく眠かった。
 昔はこうして目を閉じることさえ怖かった。このまま死んでしまうのではないかと、この暗闇に捕われて抜け出せなくなるのではないかと。そう思って、寒さのせいだけでなく震えていた。
 けれど今は、ひどく穏やかな気持ちでその暗闇を受け入れることができた。
 靄はやがて濃くなり、霧に変わろうとしていた。
 霧が牢の中を埋め尽くしてセイランの姿を押し隠そうとしていた。
「アンジェリーク……しあわせになって」
 霧の中でセイランは呟いた。
 ちいさな祈りも、許されない罪も、届かない想いも。……セイラン自身さえ。

 すべては、ただ、霧に消える。


 END