傷跡(SIDE A)3


 あれから5年が過ぎようとしていた。アンジェリークが女王候補として飛空都市に招かれ、そして試験の結果女王補佐官となり、炎の守護聖オスカーと結婚してから。
(……本当に、いろんなことがあったわね)
 アンジェリークは思い出の染み込んだ地を歩きながら、昔を思い返す。公園。森の湖。宮殿。聖地にいると、いつだって、同じ作りの飛空都市のことも思い出す。
 女王候補としてここに招かれたときも信じられない気持ちで一杯だったが、まさかこの地で生涯の伴侶を見つけ、補佐官として生きていくことになるとは思わなかった。
(でも、もう、この場所ともお別れなのね)
 夫であるオスカーのサクリアは失われようとしていた。サクリアを失った守護聖は下界へ降りる。それは、この世界のバランスを保つためにも絶対のことだ。補佐官であるアンジェリークには基本的にサクリアの衰えというものはなく、いつまでも聖地にいられる。けれど、当然のごとくアンジェリークはオスカーと共に下界へ降りることを選んだ。
 それは、この場所に残る友人達とも別れなければならない。距離ではなく時間に隔てられて、それは永遠の別れとなるだろう。
 寂しいし、哀しいけれど、怖くはない。オスカーと一緒だから。たとえ何処に行っても、あのひとはその寂しさも哀しさも癒してくれる。分かっているから、怖くはない。
 アンジェリークは感傷を振り払うように一度目を閉じると、ゼフェルの館の方に歩きだした。
 下界に降りるに伴って、引っ越しもしなければならなかった。今その準備に追われていて、アンジェリークは自分達の館にある機械類の取り外しをゼフェルに頼みに行く処なのだ。オスカーは館でひとりで片付けを進めているはずだった。
(まだやらなくちゃいけないことはたくさんあるんだから、感傷にばかり浸ってられないわね)
 そしてアンジェリークはまた軽やかな足取りで歩いていった。



 アンジェリークがゼフェルと共に自分の館に帰ってくると、客間にはオスカーの他にも誰かいるようだった。
「誰かきてんのか?」
「私が出てくるときにはいなかったんだけど……」
 ドアの隙間から漏れてくる声で、それが誰かはすぐに分かった。闇の守護聖だ。
「守護聖として、あいつは一生をこの聖地で過ごすだろう。もちろん、他にも人はいる。だが、ずっと共にいることはできない。普通の人間は時間の流れの違うこの地に長く留まれないし、サクリアを持つ者もいつかはサクリアを失い去ってゆく。あいつは、ここでひとりきりで生きていかねばならないのだ」
(……誰の話をしているの?)
 盗み聞きするつもりはないが、入りづらい雰囲気に押されて、ドアの処で立ち止ったまま漏れてくる声に耳を傾けていた。
「だがアンジェリークなら、ジュリアスと共に生きられる。女王に匹敵するサクリアを持ち、けれど女王位にはない者。彼女なら、ずっとこの聖地で生きていくことができる。ジュリアスと共に」
 自分の名前と、そして思いがけない名前が同時に出てきたことに、アンジェリークは驚く。
(ジュリアス様? 私だけがジュリアス様とずっと一緒に生きていくことができるって……)
 心の中でクラヴィスの言葉を反芻した。その意味を考え、愕然とする。
「……何故、アンジェリークなんです」
 弱々しいその声は、オスカーのものだった。いつもの自信に満ちあふれた声とはまったく違う、消え入りそうな声だった。
「知らなかった、とは、言わせんぞ。オスカー」
 静かなのに鋭い、闇の守護聖の言葉。その紫水晶の瞳と同じく、何もかも見透かしていると思わせる、その響き。見透かされているのは……オスカーの心?
「……ああ、知っていたさ。ジュリアス様がアンジェリークを愛していたことも。その立場ゆえに、想いを諦めたことも。…………アンジェリークも、ジュリアス様を愛していたことも!」
(!!)
 アンジェリークは息を飲んだ。
 あの頃ジュリアスとアンジェリークがほのかに想い合っていたことくらいは、オスカーも含む何人かの守護聖達も気づいていただろうとは思っていたが、オスカーが、そこまでジュリアスとの事情を詳しく知っているとは思わなかった。
「知っていた! 知っていて、それでも俺はそれを利用した! ジュリアス様に想いを拒絶されて傷ついているアンジェリークの心に付け入った。それで彼女を手に入れた!」
 机を殴り付けたのだと分かる激しい音が、扉を通しても伝わってきた。
「どんなことをしても、どうしても、アンジェリークを手に入れたかった。ジュリアス様を裏切ってでも、騙してでも。アンジェリークを愛していたから、愛しているから!」
(……オスカー)
 悲鳴だ。あれは、オスカーの悲鳴だ。切り裂かれた心が、泣き叫んでいる。
 どうして、どうして気付かなかったんだろう。ずっとこんなに近くにいたのに。
 ……違う、気づかなかったんじゃない。ずっと、目を逸らしてた。
 ほんの少し顔を上げて周りを見渡せば分かったはずだ。それなのに、顔を上げることさえせずに、ただオスカーに甘えていた。
 ただ柔らかな羽に守られているのは気持ちいいから。楽だから。
 傷が癒えたあとも、甘えることに慣れて、相手をいたわることを忘れていた。
(私は……)
 無意識のうちに手に力が入って、目の前のドアを軽く押していた。
 軽くドアがきしんで、その音にオスカーとクラヴィスがこちらを向く。
「オスカー……」
 死刑を宣告された者のような顔をしたオスカーがそこにいる。
 こんなオスカーをずっと知らなかった。
「聞いただろう、アンジェリーク。俺は、そういう男だ。君がジュリアス様に振られて傷ついていることを知ってた。それに付け入ったんだ」
 オスカーは弱々しく笑った。泣きそうな顔が、傷の深さを教える。
「違う、違うわオスカー。あのとき貴方の優しさに、私がどれだけ慰められたか。貴方がいなければ、きっとあのとき私駄目になっていた」
 アンジェリークは必死になって頭を振った。金の髪が頬を打つ。
 オスカーが事情を知っていながら近づいたのだとしても、あの優しさと自分に向けられる気持ちがなければ、アンジェリークはいつしか心の虚空に飲み込まれていただろう。それを救ってくれたのは、傷を癒してくれたのはオスカーだ。
 アンジェリークは進み出るとクラヴィスの前に立った。
「クラヴィス様。私、ジュリアス様とは生きられません……。確かに昔、私はジュリアス様に惹かれたこともありました。でも今は、オスカーを愛しているんです。オスカーと共に生きていきたいんです。オスカーを失って、ひとりで生きていくことなんてできない」
「アンジェリーク……」
 オスカーが小さく名を呼んだ。それに応えてアンジェリークは振り向く。
「たとえそのせいで、ジュリアス様が一生ひとりきりで生きなければならないとしても……」
 それがどういうことか、アンジェリークにだって分かっていた。ジュリアスが、これからどれほどつらく永い人生を歩まなければいけなくなるか。
「それでも、私はオスカーと一緒にいたいんです。オスカーを、愛しているんです」
「……そうか」
 それだけ言うと、クラヴィスは二人に背を向けた。ゼフェルを伴って部屋を出ていく。
 アンジェリークはオスカーの胸元に駆け込んだ。
「アンジェリーク。俺は……」
 何か言いかけるオスカーを、首を振って押しとどめる。
 今オスカーの口から出てくるのは、オスカー自身を責める言葉だろう。
「オスカー。ごめんなさい。私、貴方に甘えてばかりで、貴方の傷に気付けずにいた」
 オスカーがどれほどジュリアスを敬愛しているか知ってる。だからこそ、一番自分が自分の裏切りを許せなかっただろう。
 アンジェリークがただオスカーに甘えている間、オスカーはずっと苦しんでいた。それでも、そんな素振りは微塵も見せずに、アンジェリークを優しく包んで。
 癒されない傷はどんどん広がっていっただろう。痛みはどんどん増していっただろう。
 そして今また、もうひとつ大きな傷を負おうとしている。アンジェリークを聖地から連れていってしまうことで。
 アンジェリークはそっとオスカーの泣き出しそうな顔を両手で包んだ。
「貴方が好きよ、オスカー。貴方が昔ジュリアス様を裏切って私を手に入れたというのなら、今度は私がジュリアス様を裏切る。あの人が一生ひとりきりで生きなければいけないと知っていながら、貴方を選ぶ」
 オスカーだけが傷を背負うことはない。もうこれ以上、傷つくことはない。
 痛みは分かち合えないけれど、傷を癒すことならできる。
(今度は私がオスカーの傷を癒していく。あのとき、貴方が私の傷を癒してくれたように)
 オスカーの顔が泣き出す直前のように歪む。オスカーはアンジェリークの肩に顔を埋めた。
「傍にいてくれ、アンジェリーク。ずっと、傍にいてくれ」
 脅えて母親にしがみつく子供のように、抱きしめる両手が震えていた。泣いていたのかもしれない。
 大きなオスカーの身体が、今は少しだけ小さく見えた。
 これでいい、と思う。アンジェリークはこれからもオスカーに甘えるだろう。だけど、こうしてオスカーも甘えてくれればいい。そして、それを受けとめられるだけの人間になりたい。
「ずっと、傍にいるわ。ずっと、愛しているわ、オスカー」
 アンジェリークはオスカーをそっと抱きしめて、優しく髪を撫でた。
 少しでも、傷が癒えるように願いながら。



 ふたりが聖地を去る日、皆が門の処まで見送りに来てくれた。
「アンジェ、元気でね」
 いつもは気丈なロザリアも今日ばかりは涙を見せていた。今日が親友との最後の別れになってしまうのだ。
「うん、ロザリアも……。もう補佐できなくなっちゃうけど、大丈夫だよね、ロザリアなら」
「当たり前でしょう、私を誰だと思っているの? この宇宙の女王なのよ。私の心配なんかしなくていいから、自分の心配しなさい」
 泣いているくせに、口調だけは無理してでもいつものままのロザリアに、アンジェリークは泣きながら抱きついた。
「ありがとう、ロザリア……。ロザリアのこと、ほんとに大好きだよ」
「もう、何言ってるのよ、このこは……」
 強がる口調も最後には泣き声に変わっていた。そのままずっとふたり別れを惜しんでいた。
 次々と別れを告げる皆の最後にジュリアスがふたりの前に進み出た。
「オスカー、アンジェリーク」
 アンジェリークは涙をぬぐって、まっすぐにジュリアスを見つめた。
 まっすぐにジュリアスは向き合わなくてはならない。それが、オスカーとここを去るアンジェリークの義務でもある。
 ぎゅっと、オスカーがアンジェリークの手を強く握った。痛いほどの力。
(オスカー)
 オスカーは何も言わずに、ジュリアスにただ深く頭を下げた。その心を、アンジェリークは推し量ることしかできない。
 アンジェリークはオスカーの手を握り返した。そしてジュリアスをまっすぐに見つめる。その姿を、目に焼き付けるように。
「ジュリアス様……。私が言うべきことではないのかもしれませんが、貴方の幸せをずっと祈っています。私……いえ、私達、絶対にジュリアス様のこと忘れません」
「私も、そなた達の幸せをずっと祈ろう。お前達の未来に、光あらんことを」
 祈りはいつか届くのだろうか。叶うのだろうか。祈ることしかできない自分達にはどうしようもないことだけど。
 オスカーはもう一度、深く頭を下げた。結局何も言わないままだった。
 そしてふたりは皆に背を向けると、並んで門をくぐった。

 キィィィ…………

 軽くきしんだ音を立てて、門はふたりの背後で閉じられた。
 オスカーは泣いていた。さっきまで涙の一粒すらこぼさなかったのに、今、その瞳からは無数の涙があふれてきていた。
「……オスカー」
「アンジェリーク。俺は……俺は今ほっとしているんだ。ジュリアス様をあの地にひとり置きざりにして、君を決して手の届かない処まで連れ出せて、ほっとしているんだ…………! 俺はっ」
 のどを切り裂くような声。
 今オスカーの胸を、どれほどの痛みが襲っているのだろう。どれほど自分を責めているのだろう。
 痛みは分かち合えない。そんな当たり前のことがこんなにももどかしい。
 アンジェリークはそっとオスカーを引き寄せてそのまぶたにくちづけた。ほんの少しでも、その傷が、癒えるように。
「アンジェリーク……」
「いいのよ、もう」
 アンジェリークはそっとオスカーの手を取った。
 愛したり、裏切ったり。何かを手に入れるため、誰かを傷付けて、自分も傷付いて。
 人はそれを繰り返す。何度でも。これからも繰り返すのだろう。
 だけどそのたびに、傷を癒して、癒されて。
 ふたりなら、きっとそれができるから。
「行きましょう、オスカー。ここはもう私達のいる処じゃない」
「……ああ」
 ゆっくりと、歩きだす。ふたり、手をつないだまま。
「……アンジェリーク。幸せになろう、誰よりも。そんなことしか、俺達にはできないから」
 まだ赤さの残る瞳で、オスカーは微笑んだ。
「ええ」
 アンジェリークも微笑み返して、そしてまた、強く手を握った。
 大丈夫、ふたりなら、きっと。
 ……きっと。



 抱きしめていて。
 その傷が、いつか癒えても。
 抱きしめているから。
 その傷が、いつか癒えても。


 END