傷跡(SIDE O)2


「オスカー、……オスカー!」
 呼ばれて、オスカーははっとした。ぼんやりしていて、妻の呼ぶ声に気付かなかったらしい。
 ぼんやりと思い出していた。昔のことを。アンジェリークを初めて手に入れたときのことを。
「ああ、アンジェリーク。なんだ?」
 振り向けば、今は少女から美しい女性へと変わったアンジェリークが微笑んでいる。
 あの女王試験で、アンジェリークは結局女王にはなれなかった。そうして今はオスカーの妻となり、女王ロザリアの補佐官をつとめている。
 言ってしまえば最初ふたりは身体だけの関係だったが、いつしかアンジェリークはオスカーに心を開き、愛し合うようになった。
 オスカーは今のアンジェリークが自分を愛していないとは思わない。
 今アンジェリークはオスカーの隣にいる。かつてオスカーの望んだ通りに。
「私、今からゼフェルの処に機械の取り外し頼みに行ってくるわ」
「わかった。じゃあ俺はもう少しひとりで片付けを進めてる」
 オスカーのサクリアは衰えを見せ始めていた。後任の炎の守護聖もすでにこの地に招かれていて、あとは種々の引き継ぎを残すのみだ。それで、オスカーの守護聖としての役目も終わる。
 そうすれば、この聖地を去っていかねばならない。ふたりは今その準備に追われていた。
「お願いね。じゃあ行ってくるわ」
 アンジェリークは金の髪を翻して部屋を出てゆく。
 その金の髪を見ながら、オスカーはもうひとりの同じ金の髪を持つ人物、ジュリアスのことを思い出していた。
 アンジェリークを連れて聖地を出ること、それは永久にジュリアスからアンジェリークを奪うことでもある。
 もしあのままオスカーが手を出さずにいたなら、女王にならなかったアンジェリークはやがてジュリアスと結ばれていただろう。それを、オスカーは横から奪った。
 どんなずるい手を使ってもアンジェリークを手に入れたいと思った。その気持ちは今も変わっていない。だから後悔なんてしていないし、アンジェリークを手放す気も毛頭ない。
 けれど、胸がうずくのだ。
 思い出すたび、見えない傷が胸をかきむしる。
 ずるくて醜い自分を許して欲しい訳じゃない。許されるとも思っていないし、許されようとも思わない。だけど。
 胸が、痛い。



 アンジェリークとほぼ入れ違いになるように館を訪ねてきたクラヴィスを、オスカーは出迎えた。
「これはクラヴィス様、うちにいらっしゃるとは、突然どうされました? アンジェリークなら、今は出かけているのですが」
「知っている。だからこそ、今来たのだ」
 闇の守護聖の言葉は不可解だった。オスカーとクラヴィスは同じ守護聖といえどほとんど交流のない間柄だ。結構交流のあるアンジェリークを訪ねてきたというのなら分かるが、クラヴィスが自分に一体なんの用があるというのか。
「アンジェリークを連れて降りるのか?」
「当たり前です。あいつは俺の妻ですから」
「アンジェリークを連れていくなと言ったら、お前はどうする?」
 オスカーの片眉が跳ね上がった。不快に顔をしかめる。
「いくらクラヴィス様といえど、そんなことを言われる筋合いはないはずですが」
「私のためではない……ジュリアスのためだ」
(!?)
 クラヴィスの口から出てきた名前に、驚いて一瞬息が止まる。
 オスカーは鼓動が早くなっていくのを感じていた。できるなら、耳をふさいで逃げ出してしまいたい。けれど、身体は凍ったように動かない。
「ジュリアス……あれは、守護聖として生き、守護聖として死ぬべく定められた者だ。あいつのサクリアが衰えるのは、その命果てるとき。それが、どういう意味を持つか、分かるか?」
 クラヴィスの紫水晶の瞳がオスカーを射抜く。人の見えない心まで映しだす水晶のようなその瞳に耐えられずに、オスカーはうつむいた。
「守護聖として、あいつは一生をこの聖地で過ごすだろう。もちろん、他にも人はいる。だが、ずっと共にいることはできない。普通の人間は時間の流れの違うこの地に長く留まれないし、サクリアを持つ者もいつかはサクリアを失い去ってゆく。あいつは、ここでひとりきりで生きていかねばならないのだ。だがアンジェリークなら、ジュリアスと共に生きられる。女王に匹敵するサクリアを持ち、けれど女王位にはない者。彼女なら、ずっとこの聖地で生きていくことができる。ジュリアスと共に」
「……何故、アンジェリークなんです」
 自分の声が無残に震えていることに、自分でも気付いていた。
「知らなかった、とは、言わせんぞ。オスカー」
 静かな言葉が、オスカーを切り裂いた。
 オスカーは顔を上げた。目の前のクラヴィスを睨み付ける。
「……ああ、知っていたさ。ジュリアス様がアンジェリークを愛していたことも。その立場ゆえに、想いを諦めたことも。…………アンジェリークも、ジュリアス様を愛していたことも!」
 胸が痛い。ずっと見ない振りをしていた傷口が悲鳴をあげる。さらされた傷口の痛みに、新しい傷が開いてゆく。
 痛みをぶつけるように、机に拳を叩き付けた。
「知っていた! 知っていて、それでも俺はそれを利用した! ジュリアス様に想いを拒絶されて傷ついているアンジェリークの心に付け入った。それで彼女を手に入れた!」
 すべてを仕組んだのは自分だ。もしあのまま手を出さなければ、やがて女王にならなかったアンジェリークはジュリアスと結ばれていただろう。
 だけどそうしたくなくて、アンジェリークを手に入れたくて、ずるい手を使った。傷ついた心の隙間に付け入った。
「どんなことをしても、どうしても、アンジェリークを手に入れたかった。ジュリアス様を裏切ってでも、騙してでも。アンジェリークを愛していたから、愛しているから!」
 自分がどんなに醜くて卑怯な人間か知ってる。卑怯な手でジュリアスからアンジェリークを奪っておきながら、今また、ジュリアスを傷つけようとしている。
 ひとりで生きる辛さをオスカーは知ってる。この聖地に住むようになって、時間の流れの違うこの地で生きることがどんなに辛いものか知った。オスカーがアンジェリークを連れていってしまえば、ジュリアスは、一生その辛さを味わうのだ。
 それでも、アンジェリークを手放す気はない。なんてずるくて醜くて卑怯な人間なんだろう。
 そのとき、ドアのきしむ音がした。
 その音に、オスカーは現実に引き戻されるようにドアの方を見た。
 薄く開いたドアの向こうには、アンジェリークと鋼の守護聖ゼフェルがいた。
(アンジェリーク! 聞かれていたのか、今の会話を)
 翡翠の瞳を見開いたアンジェリークがオスカーを見つめていた。胸元で握りしめている手が震えている。
「オスカー……」
 呟いた声が、震えてかすれている。
 できることなら、アンジェリークには一生知られたくなかった。ずるくて卑怯で醜い自分。
 アンジェリークにどんなに罵られようと、軽蔑されようと、決して手放す気はない。けれど、それは身を切り裂くようにつらい。ああ、その口から次に出てくるのは、どんな罵りの言葉だろう。
 オスカーは半分諦めたように小さく笑った。
「聞いただろう、アンジェリーク。俺は、そういう男だ。君がジュリアス様に振られて傷ついていることを知ってた。それに付け入ったんだ」
 けれどオスカーの予想とは裏腹に、アンジェリークは大きく頭を振って言った。
「違う、違うわオスカー。あのとき貴方の優しさに、私がどれだけ慰められたか。貴方がいなければ、きっとあのとき私駄目になっていた」
 まるでクラヴィスからオスカーをかばうかのように、アンジェリークは二人の間に立った。クラヴィスを正面から見据える。
「クラヴィス様。私、ジュリアス様とは生きられません……。確かに昔、私はジュリアス様に惹かれたこともありました。でも今は、オスカーを愛しているんです。オスカーと共に生きていきたいんです。オスカーを失って、ひとりで生きていくことなんてできない」
「アンジェリーク……」
 アンジェリークの言葉が信じられずに、オスカーは小さくその名を呼んでいた。それに応じるようにアンジェリークが振り向く。
「たとえそのせいで、ジュリアス様が一生ひとりきりで生きなければならないとしても……それでも、私はオスカーと一緒にいたいんです。オスカーを、愛しているんです」
「……そうか」
 それだけ言うと、クラヴィスは二人に背を向けた。ゼフェルを伴って部屋を出ていく。
 アンジェリークは崩折れるようにオスカーの胸元に飛び込んだ。夢でも見ているような気持ちで、オスカーはアンジェリークを掻き抱いていた。
 アンジェリークを抱きしめたまま、オスカーはしばらく動けずにいた。今、アンジェリークに何を言えばいいのか。
「アンジェリーク。俺は……」
 言葉をさえぎるように、腕の中のアンジェリークが頭を振った。
「オスカー。ごめんなさい。私、貴方に甘えてばかりで、貴方の傷に気付けずにいた」
 アンジェリークが顔を上げる。手を伸ばし、オスカーの両頬を包みこむ。
「貴方が好きよ、オスカー。貴方が昔ジュリアス様を裏切って私を手に入れたというのなら、今度は私がジュリアス様を裏切る。あの人が一生ひとりきりで生きなければいけないと知っていながら、貴方を選ぶ」
 アンジェリークの強い意志を宿した瞳がオスカーを映す。
 胸が痛い。けれど柔らかな痛み。傷口にそっとぬくもりが触れて、少しづつ癒されてゆく。
 オスカーはアンジェリークの肩に顔を埋めた。アンジェリークの肩は小さくて、埋めるに足りるようなものではなかったけれど、何よりも温かく、優しい。
「傍にいてくれ、アンジェリーク。ずっと、傍にいてくれ」
 目頭が熱い。胸が痛い。アンジェリークを抱きしめる両手が震えている。
「ずっと、傍にいるわ。ずっと、愛しているわ、オスカー」
 アンジェリークはオスカーの背をそっと抱きしめた。そして赤い髪をそっと撫でる。まるで、小さな子供をあやすように。
 そっとそっと、痛みをやわらげるように、傷を癒すように。
 ずっと、抱きしめていた。



 二人が聖地を去る日。皆が門の処へ見送りに来てくれた。女王であるロザリアも、今日は特別に宮殿を出て、アンジェリークと抱き合って別れを惜しんでいた。
 守護聖達が次々とオスカーに別れを告げるなか、クラヴィスがオスカーの前に来た。
「クラヴィス様、俺は……俺達は」
 何か言おうとするオスカーを、クラヴィスはあの皮肉げな笑いでとめる。
「幸せになればいい、誰よりも。それが、お前達にできる数少ないことだ」
「……はい、ありがとうございます」
 もっと、この闇の守護聖と話をすればよかった。オスカーはそう思う。分かりあえることがなくても、分かり合おうと向かい合ってみればよかった。今はもう遅いけれど。
 皆の最後にジュリアスが二人の前に進み出た。
「オスカー、アンジェリーク」
 呼ばれて、思わず身を堅くする。
(ジュリアス様……)
 去ってゆく二人を前に、ジュリアスは色々なことを言った。別れの言葉や、オスカーへのねぎらいの言葉、これからの二人を励ます言葉……。けれど、そのどれもオスカーは聞いていなかった。
 ジュリアスに言いたいことも言わなければいけないことも山のようにあるはずなのに、何ひとつ言うことができなかった。言葉がのどの奥で凍り付いて、それがどんどん溜まっていって、肺を圧迫するような錯覚。
 オスカーの胸が痛む。自分はジュリアスを敬愛していながら、彼からすべてを奪っていこうとしている。
 ぎゅっと、自分でも無意識のうちに隣に立つアンジェリークの手を握り締めていた。
(ジュリアス様、俺は……)
 きっと今、言葉はなんの意味も持たない。何がどうであれ、オスカーはアンジェリークを連れて行く。そのことに変わりはないのだから。
 だから言葉の代わりに、オスカーは深く頭を下げた。敬意と、謝罪と、別れを惜しむ気持ちと、そのすべてを込めて、オスカーは頭を下げた。これだけで、自分の気持ちすべてが伝わることはないとは思う。でも、それがオスカーにできるすべてだった。
 そっとアンジェリークがオスカーの手を握り返してきた。
 アンジェリークは微笑んでいた。柔らかに。
「ジュリアス様……。私が言うべきことではないのかもしれませんが、貴方の幸せをずっと祈っています。私……いえ、私達、絶対にジュリアス様のこと忘れません」
 その微笑みを、ジュリアスは眩しげに見つめていた。
「私も、そなた達の幸せをずっと祈ろう。お前達の未来に、光あらんことを」
 その言葉を、ジュリアスはどんな気持ちで言ったのだろう。そう思い、けれどオスカーはそれ以上考えることをやめた。それはきっと、アンジェリークを連れていってしまうオスカーには、本当に理解することなんてできないし、また、踏み込んでもいけない領域だと思ったからだ。
 オスカーはやはり何も言えないまま、もう一度深く頭を下げた。
 そしてふたりは並んで、聖地の門を出た。

 キィィィ…………

 軽くきしんだ音をたてて、門はふたりの背後で閉じられた。
 この瞬間に、ふたりと聖地は遠く隔てられた。もうこの門は、ふたりのために開かれることはない。
(……俺は……)
 オスカーの薄氷色の瞳から、涙があふれだした。
「……オスカー」
 隣にいたアンジェリークが、そっと名を呼ぶ。
「アンジェリーク。俺は……俺は今ほっとしているんだ。ジュリアス様をあの地にひとり置きざりにして、君を決して手の届かない処まで連れ出せて、ほっとしているんだ…………! 俺はっ」
 オスカーの首に手を回したアンジェリークが少しオスカーを屈ませて、そのまぶたにそっとくちづけた。昔、心に傷を負って泣くアンジェリークを、オスカーがそうやって慰めたように。
「アンジェリーク……」
「いいのよ、もう」
 オスカーを見つめる翡翠の瞳が優しい。
 アンジェリークはそっとオスカーの手を取った。
「行きましょう、オスカー。ここはもう私達のいる処じゃない」
「……ああ」
 つないだ手からぬくもりが伝わる。このぬくもりに、いつか傷は癒えて傷跡になるだろう。
 だけど傷跡はきっと消えない。決して消えることなくいつまでもこの胸に残る。
 そして、傷跡を見るたび思い出す。彼のことを。裏切り、傷つけ、かの地に置きざりにした、ジュリアスのことを。
 思い出すたび、傷跡は痛むだろう。オスカーを責めるだろう。
 けれど、その痛みを癒すのも、きっとこのぬくもりなのだ。
「……アンジェリーク。幸せになろう、誰よりも。そんなことしか、俺達にはできないから」
 オスカーはまだ少しだけ赤い瞳で、アンジェリークに微笑みかけた。力強く。だからアンジェリークも微笑み返す。
「ええ」
 そうして、ふたり手をつないだまま歩きだす。決して振り返らず、楽園から遠ざかってゆく。
 遠く遠く、どこまでも。消えない傷跡を抱えたまま。
 どこまでも。手をつないだまま。


 END