千年の夢の果て


 きらきらと、光を乱反射して輝く湖。
 湖を囲う森はあざやかな緑で、いっそ眩しいほどだ。
 それらを背景にして、ひとりの少女がジュリアスを見つめている。その翡翠の瞳はまっすぐで、純粋で、そして少しだけ揺れていた。
「ジュリアス様。私…………」



(…………また、あの夢か)
 ジュリアスは、落ち着いた色調の、見慣れた天井を見つめた。
 気だるそうに、ベッドの上へ身を起こす。
 この夢を見たのは、初めてではなかった。もう何度も何度も見ている。
 繰り返し、彼女を思い出しては夢に見る。
 あの日のことを。
(アンジェリーク……)
 あれは、まだ彼女が女王候補の頃だった。
 のちに女王ロザリアの有能な補佐官となり、炎の守護聖オスカーの妻となり、彼のサクリアが尽きたとき共に下界へと降りた、金の髪と翡翠の瞳の少女。
 あれから、どれほどの時が経ったのだろう。
 もう何人もの守護聖がサクリアを失い下界へと降りた。女王も、歴代でも稀なほど永くそして平穏な世界を導いたと賛えられる女王ロザリアから、2回女王交代が行なわれた。
 アンジェリークを直接知っている人間も、もうジュリアスとゼフェルだけになってしまった。そのゼフェルも今サクリアの衰えを見せ始めていて、もうすぐ下界へ降りる。
 こうして彼女を知る者もいなくなり、やがては歴史と伝説の中にのみ名を残す存在になってしまうのだろうか。いや、実際そうなりつつある。彼女自身も、下界の時の流れの中で、もう生きてはいないだろう。
 それなのに、今もこんなにも色鮮やかに彼女を思い出す。聖地の時間ですら、彼女が去ったのはだいぶ前のことだというのに。



「ジュリアス様、私……」
 それに続くだろう言葉がなんなのか、ジュリアスにだって分かっていた。
 そしてそれを自分が望んでいることも。彼女と同じ想いを自分が抱いていることも。
 けれど、それを手放しで喜んで受け入れることはできなかった。
 宇宙は新しい女王を必要としていた。星々を移転させ、その後を支える力を持つ者を。
 今行なわれているのはその重要な女王試験であり、彼女はその女王候補。
 女王に相応しいサクリアを持つ者はロザリアかもしれないし、このアンジェリークかもしれない。今はまだ分からない状態だった。
 もしここでアンジェリークが女王候補を降りて、ロザリアでは宇宙を支えきることができなかったなら……。
「アンジェリーク、大陸の育成は順調に進んでいるか?」
 彼女の言葉を遮るように、ジュリアスは言っていた。
「そなたとロザリアの力はほぼ互角、どちらが女王となってもおかしくはない。これからも大陸の育成に励むがよい。私もできるかぎり力になろう」
 それが遠回しな拒絶であることは、もちろんアンジェリークにも伝わった。
「……はい、ジュリアス様。……失礼しますっ」
 肩を震わせそれだけ言うと、アンジェリークは涙を見せないよう、踵を返して駆けだしていった。
(これで……よかったのだ)
 そう自分に言い聞かせ、ジュリアスもアンジェリークを追いかけることはしなかった。
 やがて試験は終了し、ロザリアが女王に、アンジェリークはその補佐官となった。
 そして移転した宇宙も落ち着きを見せた頃、ジュリアスはオスカーからアンジェリークと結婚する旨を告げられた。
 そのときの衝撃を、今でも覚えている。
 アンジェリークを振ったのは自分の方だし、今でも彼女が自分を想っていてくれると自惚れていた訳ではない。けれど、アンジェリークが女王にならなかった今、もしかしたら再び彼女との幸せが望めるかもしれないと期待していた。
 けれどもちろんアンジェリークを責める訳にもオスカーを責める訳にもいかない。
 ジュリアスは複雑な気持ちでふたりを祝福した。
 やがて二人は結婚し、そして共にこの聖地を去っていた。
(これで……よかったのか……?)
 ジュリアスは自分で納得しているつもりでいた。けれど今でも夢を見るのだ。アンジェリークの夢を。あの、森の湖でのことを。
(アンジェリーク、私は……)
 届かない想いがジュリアスの中を駆け巡る。
 いつまでも、いつまでも……。



「……よお」
 軽いノックのあと、ジュリアスの執務室に現われたのは、銀の髪の長身の青年、鋼の守護聖ゼフェルだった。
 ここに来た当初は粗暴と言われかねない程だった少年は、今では丸くなったというよりは歳相応の思慮と落ち着きを持ち、年若い新しい守護聖から信頼され頼られる青年となった。今の姿をルヴァなどが見たら、泣いて喜ぶだろう。
「ゼフェルか。どうした? 何か用か?」
「用って訳じゃないけどよ。一応ここ出てく前に挨拶しとこうと思ってな」
 言葉遣いはあまり変わっていないが、口調はあのとげとげしさがなくなってずっと優しくなった。
「気が早いな。お前が出ていくのはもうしばらく先のことだろう」
「そうだけどよ……」
 ゼフェルは少し照れたように銀の髪を掻いた。
「俺がここに来たときいた奴らは皆いなくなっちまったってのにな……」
 ゼフェルの言わんとしてる処は、すぐに分かった。
 多くの者がサクリアを失い交代の時を迎えているというのに、ジュリアスのサクリアは、いまだ衰える気配すら見せない。
「……ジュリアス。アンジェリークを覚えてるか? 金の髪に翡翠の瞳の……」
「もちろん覚えているが……どうしたのだ、いきなり」
 今も心に残る少女の名前に、ジュリアスは驚きを隠せない。
「絶対言うなって言われてたし、俺も言うつもりなんてなかったけどよ。……やっぱ、あんたには言っといた方がいいんじゃねーかと思ってさ」
 それでもまだ言うべきか、戸惑うようにゼフェルの赤い瞳が泳いだ。
「……オスカーの奴がここを出ていくときに、クラヴィスに言われたんだ。あんたのために、アンジェリークを連れていくなって」
「何だって……!?」
 思いがけない言葉に、ジュリアスはゼフェルの二の腕につかみかかっていた。
「一体どういうことなのだ、ゼフェル」
 ゼフェルはまだ戸惑うように、けれどゆっくりと話しだした。



 サクリアが衰え、まもなく下界へと降りることとなっていた炎の守護聖オスカーは、その準備に追われていた。新任の守護聖への引き継ぎはもちろん、執務室の整理や私邸からの引っ越しもしなければならなかった。
 そんなオスカーがひとり私邸で荷物の整理をしているとき、闇の守護聖が訪ねてきた。
「これはクラヴィス様、うちにいらっしゃるとは、突然どうされました? アンジェリークなら、今は出かけているのですが」
「知っている。だからこそ、今来たのだ」
 クラヴィスの物言いに、オスカーは眉をひそめる。闇の守護聖の意図が全く分からない。
「アンジェリークを連れて降りるのか?」
「当たり前です。あいつは俺の妻ですから」
 そんなことをわざわざ聞かなくても、陛下が皆に炎の守護聖交代を伝えたときに、アンジェリークが補佐官を退位することも告げているのだから、分かっているはずだった。
「アンジェリークを連れていくなと言ったら、お前はどうする?」
「いくらクラヴィス様といえど、そんなことを言われる筋合いはないはずですが」
 不快を顔に表しながら、オスカーは挑むように答えた。この闇の守護聖が、アンジェリークにかなり心を砕いていることはよく知っていた。
「私のためではない……ジュリアスのためだ」
 瞬間、何かに耐えるように、オスカーの顔がこわばった。
 それを見てクラヴィスは言葉を続ける。
「ジュリアス……あれは、守護聖として生き、守護聖として死ぬべく定められた者だ。あいつのサクリアが衰えるのは、その命果てるとき。それが、どういう意味を持つか、分かるか?」
 オスカーは答えない。ただ、強く握り締められた拳がかすかに震えていた。
「守護聖として、あいつは一生をこの聖地で過ごすだろう。もちろん、他にも人はいる。だが、ずっと共にいることはできない。普通の人間は時間の流れの違うこの地に長く留まれないし、サクリアを持つ者もいつかはサクリアを失い去ってゆく。あいつは、ここでひとりきりで生きていかねばならないのだ。だがアンジェリークなら、ジュリアスと共に生きられる。女王に匹敵するサクリアを持ち、けれど女王位にはない者。彼女なら、ずっとこの聖地で生きていくことができる。ジュリアスと共に」
「……何故、アンジェリークなんです」
 オスカーの顔は青ざめ、声は震えていた。
「知らなかった、とは、言わせんぞ。オスカー」
 静かな、けれど重みと鋭さのある声が響いた。
 クラヴィスの視線を避けるよううつむいていたオスカーがきっと顔を上げた。
「……ああ、知っていたさ。ジュリアス様がアンジェリークを愛していたことも。その立場ゆえに、想いを諦めたことも。…………アンジェリークも、ジュリアス様を愛していたことも!」
 オスカーは叫んでいた。握り締めた拳を、強く机に叩き付ける!
「知っていた! 知っていて、それでも俺はそれを利用した! ジュリアス様に想いを拒絶されて傷ついているアンジェリークの心に付け入った。それで彼女を手に入れた!」
 傷ついたアンジェリークの心を手に入れることは容易かった。
 自分がどんなに卑怯な人間か、オスカー自身が一番分かっていた。
 それでも。
「どんなことをしても、どうしても、アンジェリークを手に入れたかった。ジュリアス様を裏切ってでも、騙してでも。アンジェリークを愛していたから、愛しているから!」
 そのとき、ドアのきしむ音がした。
 オスカーとクラヴィスは、はっと視線をドアへ向けた。
 薄く開いたドアの向こうには、アンジェリークと鋼の守護聖ゼフェルがいた。
 ゼフェルはアンジェリークに機械類の取り外しを頼まれて、一緒にこの館に来たのだが、丁度最悪のタイミングだったようだ。
 翡翠の瞳を見開いたアンジェリークがオスカーを見つめていた。胸元で握りしめている手が震えている。
「オスカー……」
 オスカーはふっと笑った。自嘲しているようにも、泣きそうにもみえる。
「聞いただろう、アンジェリーク。俺は、そういう男だ。君がジュリアス様に振られて傷ついていることを知ってた。それに付け入ったんだ」
 アンジェリークはそれを否定するように、大きく頭を振った。
「違う、違うわオスカー。あのとき貴方の優しさに、私がどれだけ慰められたか。貴方がいなければ、きっとあのとき私駄目になっていた」
 アンジェリークはゆっくりと、部屋の中に入ってきた。そして、オスカーとの間を割るようにクラヴィスの前に立った。まっすぐに、その紫水晶の瞳を見つめる。
 翡翠の瞳に、迷いはなかった。
「クラヴィス様。私、ジュリアス様とは生きられません……。確かに昔、私はジュリアス様に惹かれたこともありました。でも今は、オスカーを愛しているんです。オスカーと共に生きていきたいんです。オスカーを失って、ひとりで生きていくことなんてできない」
「アンジェリーク……」
 オスカーは小さく名を呼んだ。それに応えるように、アンジェリークはオスカーを見つめた。
「たとえそのせいで、ジュリアス様が一生ひとりきりで生きなければならないとしても……」
 アンジェリークは小さく唇を噛んだ。その小さな肩が震える。
 今は淡い想い出になっているとしても、かつての想い人を孤独の中にひとり突き落とすのだ。つらくない訳がない。
 けれど、もうどちらを選ぶかは決まっている。オスカーしか、選べない。
「それでも、私はオスカーと一緒にいたいんです。オスカーを、愛しているんです」
 翡翠の瞳が潤んで震えていた。それでも涙をこぼすまいと、必死に押さえている。
「……そうか」
 それだけ言うと、クラヴィスは二人に背を向けた。
 それがきっかけとなったように、アンジェリークは崩折れるようにオスカーの胸元に飛び込んだ。オスカーはその体をしっかりと抱きとめる。
 扉の処で呆然と立っているゼフェルに、クラヴィスは視線だけで部屋から出るよう促すと、自分も部屋から出て、二人だけを残して扉を閉めた。
「このことは、他言無用だぞ、ゼフェル。特に、ジュリアスにはな」
「……言わねーよ」
 言われずとも言い触らすつもりもなかったが、ゼフェルはぶっきらぼうに答えた。見てはいけないものを見てしまった気まずさがある。
「でも、意外だったな。あんたがジュリアスの心配するなんて」
 闇の守護聖は、口許だけを歪めて笑う。
「わたしは、長い年月をこの聖地で生きてきた。その間、あいつもずっと一緒だった。多少の情もわくものだ」
 クラヴィスも幼い頃からこの聖地で過ごしてきた。多くの者が彼を置いて去って行っただろう。けれど、ジュリアスはずっと一緒にいた。たとえ考えが通じ合うことがなくても、反目しあう仲だったとしても、ある意味クラヴィスにとってジュリアスは支えだったのかもしれない。ゼフェルはぼんやりとそんなことを思った。
 クラヴィスがサクリアを失い聖地を去っていったのは、オスカーとアンジェリークが去ってほどなくしてのことだった。



「そんなことがあったのか……」
 知らず、ジュリアスはつぶやいていた。
 聖地の門をくぐるときのオスカーを思い出す。
 見送るジュリアスにオスカーは何も言わず深く頭を下げた。まるで脅える子供のように、隣に立つアンジェリークの手を、指先が白くなるほどの力で握っていた。
 アンジェリークは、どうだったろう。
 ……そうだ、アンジェリークは笑っていた。オスカーの手を強く握り返しながら、ジュリアスをまっすぐに見つめ、今まで見たこともないくらい綺麗に幸せそうに微笑んだ。
『ジュリアス様……。私が言うべきことではないのかもしれませんが、貴方の幸せをずっと祈っています。私……いえ、私達、絶対にジュリアス様のこと忘れません』
 それが、アンジェリークからジュリアスへの最後の言葉だった。
「別に俺が言うことじゃねーんだけどよ、あいつらのこと……アンジェリークとオスカーのこと、恨まないでくれ。あいつらだって、色々あったんだろうし、色々悩んだりもしたと思うんだ」
 ゼフェルが、まるで自分のことのように言った。ジュリアスは、昔ルヴァがゼフェルを心優しい少年だと言っていたのを不意に思い出す。多分ゼフェルは秘密の一端を握ってしまった者として、ずっとこのことを気にかけていたんだろう。そして、ジュリアスのこれからを心配してくれている。
「分かっている……オスカーもアンジェリークも、私に対して謝るようなことは何ひとつない」
 あのとき、あの森の湖で、アンジェリークの気持ちに応えることもできた。まだどちらが女王になるか分からなくても、それまで待つことだってできた。
 そうしなかったのは、ジュリアスの弱さだ。
 想いが通じ合ったとしても、もしアンジェリークが女王に選ばれたなら、ふたりは引き離される。そのとき、この宇宙を犠牲にしてアンジェリークを連れて逃げる度胸も、隠れて関係を続ける度胸も自分にないことは分かっていた。
 かといって、想いが通じ合っていながら、それを胸に秘めて生きていく苦しさには耐えきれないと思った。
 いや、そのとき自分が見せるだろう醜態を恐れたのだ。「誇り」などと言ってしまえば聞こえはいいが、つまり、ジュリアスは体裁を取ったのだ。
 だから、あのとき自分からアンジェリークを突き放した。ジュリアスはアンジェリークから逃げたのだ。
 その結果が、これなのだ。
「私が孤独だというのなら、それは、私の弱さの代償だ。すべてを犠牲にしてでも、そう言えるだけの強さが私にはなかったのだ」
「あんたは弱くなんてねーよ。あんたは自分を犠牲にしても宇宙のことを想う強さがあった。……そうじゃねーのか?」
 ジュリアスは曖昧に笑った。何が本当の強さかなんて分からない。ただ、それはアンジェリークを手に入れられる強さではなかった。
「ありがとう、ゼフェル。そのことを私に話してくれて。そうでなければ、きっと私はいつまでも自分の弱さを認められずにいた。そしていつか、オスカーのことを恨んでいたかもしれない」
「ジュリアス……。皆、お前と一緒に生きることはできないけど、お前の幸せを願ってるよ。オスカーもアンジェリークも、クラヴィスも、……俺も」
「……ありがとう、ゼフェル」
 ジュリアスはもう一度、心から言った。



 ゼフェルが出ていったあと、椅子に深く身を沈めて、ジュリアスは大きく息をついた。
 ジュリアスのサクリアが尽きるまで、一体あとどれほどの月日が必要なのだろう。地上では、一体どれほどの年月となるのだろう。
 百年、二百年では足りない。千年でも足りるだろうか。
 窓からは、明るい日差しが差し込んでいる。外からは、明るい笑い声が聞こえる。多分年若い守護聖達だろう。
 ジュリアスのまわりには、常に誰かがいる。けれど皆いつかは彼を置いて、この地を去ってゆく。ずっと一緒に生きてゆくことはできない。
 ただひとり、ジュリアスと共に生きられたかもしれない少女。あのとき彼女を抱きしめていたなら、あるいは……。
 けれど、もうアンジェリークはいない。
 ジュリアスはこの聖地で、ひとりきりで生きてゆくしかない。
(アンジェリーク……。もしもあのとき、自分の気持ちに正直になっていたなら……彼女を抱きしめていたなら)
 そう思い、けれどジュリアスはそれ以上考えることをやめた。
 アンジェリークはもういない。彼女は彼女の人生を、愛する者と共に幸せに過ごした。それでいいのだ。
(……それでも、せめて、夢の中でだけでも……)
『ジュリアス様、私……』
 ジュリアスは夢を見る。ただひとり愛した少女の夢を。いつまでも、いつまでも。その命果てる日まで、千年でも。
 そして千年ののち、一体何が残るのだろうか。
 ……いや、きっと、何も残りはしない。夢は夢。儚く消えるだけ。
 それでもジュリアスは夢を見る。夢を見ずにはいられない。
 哀れで儚い、幸せな夢。



 きらきらと、光を乱反射して輝く湖。
 湖を囲う森はあざやかな緑で、いっそ眩しいほどだ。
 それらを背景にして、ひとりの少女がジュリアスを見つめている。その翡翠の瞳はまっすぐで、純粋で、そして少しだけ揺れている。
「ジュリアス様。私…………」
 ジュリアスは少女の頬に手を伸ばす。柔らかなぬくもり。それだけで、幸せになれる。
「アンジェリーク。私も、そなたのことが…………」


 それは、千年の夢。
 哀れなる者の、朽ち果てた夢の骸。


「アンジェリーク」
「ジュリアス様……」
 ああ、夢の中で、最愛の少女が笑っている…………。


 END