snow drop



 雪が降ればいい。
 それで、君が微笑むのなら。



 飛空都市に、雪が降っていた。
 小さな粉雪が、こぼれるように空から落ちて、常春であるはずの街を薄い白で覆っていた。
 雪を見たことのない子供達や、何人かの何も知らない大人達は、それを綺麗だと喜んでいたが、それはごく一部のことだった。ほとんどの人間は、その光景に眉を潜め、不安を憶え、不吉の前兆を感じていた。
 女王の力により常春のはずの飛空都市に雪が降るなど、本来ならありえないことだった。それが起こったということは、女王の力が弱まっている、あるいは、女王の力ではどうにもできない変調が世界に起きているということだった。
 それ以外の理由でも、雪を嫌う者はいた。たとえば夢の守護聖などはその筆頭で、氷の惑星で生まれ育った彼にとって、雪といえば生死を左右する驚異だった。同じように、寒い惑星で育った経験のある者達は、そのころのことを思い出すのか、雪を嫌っていた。
 そんな理由から、雪の飛空都市を出歩く者は少なかった。いつもは人が大勢にぎわっている公園にも、人影はほとんど見あたらなかった。
 オスカーとアンジェリークは、その公園にいた。デートで来たというよりも、雪に喜ぶアンジェリークが、オスカーを引っ張ってここまで来たという感じだった。
「オスカー様、雪ですよ、雪!」
 アンジェリークは雪に子供のようにはしゃいでいる。
 けれど、当のオスカーは、あまり浮かない顔をしていた。はらはらと舞落ちる雪に、ときおり空を見上げては、眉をひそめる。
 アンジェリークとしては、この綺麗な雪景色をふたりで楽しみたかっただけなのだが、それは、オスカーにとってはあまり楽しくないことだったらしい。
 彼女は遠慮がちに、彼に声をかけた。
「オスカー様は、雪は嫌いですか?」
「……ああ。嫌いだ」
 アンジェリークをがっかりさせるようなことを言いたくはなかったのだが、それは、嘘をついても仕方のないことだった。
 オスカーも、雪が嫌いだった。
 ただ、その理由は、他の皆とは少し違った。雪が世界崩壊の前兆だからとか、過去のつらい思い出を思い出させるとか、そういうことではなかった。
 ただ、あの冷たさが、嫌いなのだ。
 あの冷たさが、自分を埋め尽くして、心まで冷えさせそうな気になってくる。自分が世界でひとりきりのような錯覚を起こさせる。だから、雪など嫌いだった。
 同じ理由で、冬も嫌いだった。あの寒さが、大嫌いだった。
「でも、オスカー様」
 呼ばれて、うつむいていた顔をあげると、アンジェリークの翡翠の瞳があった。言葉には出さなかったことを、それでも、全部汲み取ってくれたかのように。
「でも私、雪も、冬も、好きです。だって、ほら」
 アンジェリークは、オスカーの手をとると、それを自分の頬へ導いた。
 オスカーの両手が、アンジェリークの頬に触れる。
「あたたかいでしょう?」
 冷えて凍えた指先に、彼女の桜色の頬が、その優しいぬくもりを伝える。凍てついた指先を、そして心まで、溶かそうとするかのように。
「春も、夏も大好きですけど。そればかりだと、ときおり、あまりに暖かな気候に、ひとのぬくもりを忘れてしまいそうになってしまうから。でも、冬は寒いから、だからこそ、どんなにひとがあたたかいか、感じられるんです。それがどんなに大切か、気づけるんです。そして、雪の冷たさに、思い出すんです、ひとのぬくもりを」
 舞落ちる雪が、アンジェリークの頬を包むオスカーの手の上にも、落ちる。その冷たさと、ぬくもりのあたたかさ。
「だから、私は、冬も、雪も、大好きなんです」

 雪は、手の上で、溶けて消える。

「……ああ。あたたかいな」
 オスカーはそのぬくもりに、酔うようにつぶやいた。
 そのまま、身をかがめて、アンジェリークの唇にそっとくちづける。
 触れるだけのくちびるが離れるとき、吐息がかかるほどの距離で、アンジェリークがささやいた。
「雪が降ったら、私の、このぬくもりを思い出してくださいね。そうすれば、オスカー様も少しは雪が好きになってくれるでしょう?」
「そうだな。そうしよう。そのかわりお嬢ちゃんは、雪に、俺のぬくもりを思い出すんだぜ」
「はいっ!」
 そういって微笑んだ彼女はとても綺麗で。彼女の髪に薄く積もった雪は溶けかけ、光を乱反射して、まるでヴェールのように彼女を彩って。
 ほんのすこし、雪が好きになった。
 この微笑みひとつのために、雪が降ってよかったと思えた。たとえそれが、世界の崩壊を示すものでも。



 そんなささいなことが、とてもとても大切だった。
 世界なんかよりも、彼女のその微笑みひとつや、やわらかなぬくもりのほうが、ずっとずっとずっと、大切だった。
 大切、だったのに。



 今はもう、再び訪れた常春に、雪など降らない。
 あたたかな気候が、君のぬくもりを忘れさせる。あの日、君が言っていたとおりに。
 雪が降れば、もう一度思い出せるだろうか。失ってしまった、君のぬくもりを。あの約束どおりに。

 晴れた空を見上げ、強く願う。
 雪が、降ればいい。

 それが世界の終わりを示すとしても。
 その冷たい欠片に、君のぬくもりを思い出せるなら。


 雪が降ればいい。



 END