夕暮れの子供(5)


 次の週が終わらないうちに、新宇宙が惑星で満たされた。新宇宙の完成、そして新女王の誕生。
 宮殿の謁見の間に、新宇宙の女王となった茶の髪の少女が呼ばれた。
「おめでとう。貴方が新宇宙の女王に決まったわ」
 女王に決まること、それがおめでたいことなんかじゃないと知っているくせに、笑顔で儀礼的な言葉を告げる。そんな自分が嫌だった。
「気になる人とか……いないの?」
 私の言葉に、茶の髪の女王候補は少しだけ頬を染めて、けれど困ったようにうつむいた。好きな人はいるけれど、女王に決まってしまった今、どうすればいいのか迷っている顔だった。
 茶の髪の少女が、その人の処に行ってらっしゃいという私の言葉を、後押しを望んでいることは分かっていた。
「…………」
 その人の処に行ってらっしゃいと言おうとしたのに、何故か言葉が出なかった。
 この少女に幸せになってもらいたいなんて、ただの偽善だ。私は、そんな聖人じゃない。誰かの不幸を願う訳じゃないけど、誰かの幸せも願えない。私自身が幸せじゃないから、そんな余裕なんてない。
「女王陛下?」
 次の言葉を待ち望む少女の声に、私は頭を振った。
「ごめんなさい。私には、何も言えない。自分で考えて、自分で決めて」
 それがひどいことだとは、自分でも分かっていた。ただ一言、私が後押しすれば彼女は簡単に幸せになれるかもしれない。でも、それを自分の力だけで選ぶのは勇気がいるだろう。
 少女は困ったように下を向いた。
 しばらくうつ向いていた少女は、やがて顔を上げると、まっすぐに私を見つめて言い切った。
「……女王陛下。私、新宇宙の女王になります。私、アルフォンシアが好きだから、愛しているから、これからもあのこを育てていきます」
 宇宙を愛しているから育てていくと、それを選ぶとはっきり告げる少女は、もうただのかよわい少女ではなかった。新しい宇宙を導き育んでゆく女王だった。
 それを見たとき、私は光と希望と未来に満ち溢れた新宇宙の幻を見た気がした。そしてそれは、まもなく現実となるだろう。この少女によって。
「貴方はきっと、いい女王になるわ。私なんかとは違う……素晴らしい女王になるわ」
「陛下は素晴らしい女王だと思いますけど……?」
 少女の言葉に、私は弱々しく笑った。自嘲ぎみに。
 私はこの少女のように、宇宙を愛することなんてできない。たったひとりの少女の幸せさえ願えない。そんな人間なのだ。
「もう、行って。新宇宙への引っ越しの準備とか、あるんでしょう。……元気でね」
 彼女を見ているのは、もうつらかった。自分の醜さを見せつけられる。
「……はい、失礼します」
 本当はまだ何か言いたそうな顔で、茶の髪の少女はこの部屋から出ていった。
 これから即位式や引き継ぎで忙しくなるだろうけれど、謁見が終わり、ひとまず私は息をついた。
「これで、試験も終わりなのね」
 そう、これでもう終わり。あの人はここを去って行く。分かっていたことなのに、胸が鷲掴みにされたように痛かった。
「……陛下。謁見の申し出があるのですが」
 ずっと脇に控えていた補佐官がまわりをはばかるような小さな声でささやいた。
「誰?」
「……感性の教官です」
「!」
 その時、本当に息が止まった。驚く表情を隠すことすらできなかった。
「お会いになりますか?」
「……ええ。彼を呼んで」
 私は自分の声が震えるのを止められなかった。
「では、今呼んでまいります」
 そう言って、彼女が一番近くにいた近衛兵に合図を送ると、さっき茶の髪の女王候補が出ていったばかりの扉が開けられた。
 そこには、あの人がいた。
 その姿を見たとき、私は崩折れそうになるのを、必死でこらえていた。



 私の親友でもある補佐官は、何か気付いていたのかもしれない。彼女の取り計らいで、今この謁見の間には私とあの人しかいなかった。
 あの人が目の前にいるのを、私は幻を見るような気持ちで見ていた。
 あの日と同じ。一番最初に会ったときと。私は玉座にいて、あの人を見つめている。
 私は何か言おうと思った。試験に対するねぎらいの言葉でも、別れの言葉でも、何でもいいから言おうと思った。それなのに、言葉が喉に詰まって何も言えない。
 ただあの人を見つめる。それしかできなかった。
「……僕はもう行くよ」
 静かな謁見の間に、あの人の声が響いた。
 私は両手を握り締しめた。あの人が行ってしまえば、もう二度と会えない。
 あの人の腕がそっと差し出された。
「一緒に、来る?」
「!?」
 美しく素晴らしい芸術達を生みだす細い指が、私に向かって伸ばされる。
 何処へ、とは言わなかった。私も尋かなかった。何処にも行く処なんてないと、二人とも知っていたから。何処にも行く処なんてないし、何処へ行っても追っ手がかかる。捕まればどうなるかなんて……。
 それでもあの人は私に腕を差し出した。一緒に来るかと。
 いつか捕まるとしても、それまで一緒に連れて逃げてくれると言っているのだ。
 あの人の瞳が私を捕らえる。もう、すべてを映してすべてを映さない、ただ蒼いだけのアオなんかじゃなかった。
 その瞳には、私だけが映されている。海よりも深くて、空よりも果てしないアオ。
 腕を伸ばそうとした一瞬、色々なものが、私の心を駆け巡った。
 私の知る、すべての人達。私の知る、すべての景色。私の知る、すべての出来事。
「…………」
 腕を伸ばしたいのに、凍り付いたように、身体が動かなかった。
 これが最後の機会。このまま別れたら、時間が二人を隔てる。私の一日が、あの人の何年になるのかさえ分からない。もう二度と会えない。
 腕を伸ばしたいのに、あの人の手を取りたいのに、どうして身体が動かないの!?
 どうして!?
「……どうして泣いているんだい?」
 言われて、私は自分の目から涙が溢れだしていることに気付いた。
 私は何も答えられずに、ただ首を振った。王冠が重い、その実際の重さ以上に。
 ふ、と、あの人は笑った。
「泣かなくてもいい」
 優しい声だった。いままで聞いたことがないくらい。
「僕は君にとってそういう存在になれなかった。ただそれだけのことだよ」
 それだけ言うと深く一礼して、あの人は私に背を向けた。扉へ向かって、ゆっくりと歩いてゆく。だんだんと遠くなってゆく。
 さっき私に差し出されたその指が扉に掛けられたとき、

「……セイラン!!」

 自分でも無意識のうちにその名を叫んでいた。
 あの人がゆっくりと振り返る。あの蒼い瞳が私を見つめる。

「初めて、僕の名前を呼んでくれたね、……アンジェリーク」

 あの人は笑った。優しく、暖かく、幸せそうに。
 あの人の笑顔を見たのは、初めてだった。それは、誰よりも綺麗で優しい笑顔だった。
「……私っ、私ね……」
 伝えたい言葉が何なのか、それさえ分からずに、けれど言葉はもうすぐ形になってあふれようとしていた。私はそれを伝えようとした。
 けれど。
 あの人は緩やかに首を振った。そのまま、私の言葉を待たずに背を向ける。どんな言葉もすべてを拒否するように。
 今この時、どんな言葉も意味を持たない。あの人が望むのは言葉ではなく、差し出した手を取る私の手。それ以外なら、どんなものも意味を持たない。それが愛の言葉だろうと、別れの言葉だろうと。
 あの人は再び扉に手をかけた。扉が薄く開かれる。
「……やっぱり人はひとりでも生きていけるだろうけどね、きっと僕はこれから、それをつらいと思うだろう。……ひとりじゃない幸せを、知ってしまったから」
 あの人の声は、震えていた。泣いていたのかもしれない。

 静かな音を立てて、扉が閉じられた。

 これが永遠の別れ。もう二度とあの人には会えない。
 あの人の蒼い瞳。紫に近い蒼い髪。細く長い指。髪をかきあげる仕草。流れるような喋り方。あの人に関するすべてが心の中に浮かんで、私を埋め尽くそうとしていた。
 だけど、もうあの人には会えない。私があの人を選べなかったから。
 私は声を上げて泣いた。
 どうして、どうして私はあの人を選べなかったんだろう。あの手を取れなかったんだろう。いつか捕まるとしても、その罰を恐れている訳ではないのに。
 どうして! どうして!!
(僕は君にとってそういう存在になれなかった。ただそれだけのことだよ)
 あの人の声が耳にこだまする。
 あの人が私にとってどんな存在だったかなんて分からない。ただ、あの人の手を取れなかったことが寂しくて、哀しくて、子供のように泣きじゃくった。
 あの人と一緒に見た夕焼けを、色鮮やかに思い出した。多分あの人は私の太陽で、私は私の太陽が消えてゆくのを見ていた。



「……本当に、これでよかったの?」
 気遣うように、藍の髪の親友がそっと尋ねてきた。
 とぼけても無駄なことは知っていた。大声で泣いていた声は閉められていた扉の向こうにも響いていただろうし、今も泣きすぎて腫れたまぶたが重くて、目を開けているのが億却なほどだ。
 第一、彼女に尋ねられるより前に、すべての守護聖に同じことを言われた。大声で泣いていた私の声を聞き付けて、皆、入れ替わり立ち代わり、私を慰めに来てくれたのだ。そのとき、皆同じ質問をした。これでよかったのかと。あの光の守護聖でさえそう聞いてきた。私は泣き過ぎて、よっぽどひどい顔をしているんだろう。
 私の答えはみんな同じ。
「よくなかったとしても、他にどうしようもないでしょう」
 それに対する反応は様々だった。言葉を返せず黙ってしまう人。何も言わずに睨むように見つめる人。哀しげないたわりの微笑みを向ける人。
 藍の髪の親友は、どんな感情が込められているのか、判別の難しい顔で見つめてきた。私を責めているようにも、憐れんでいるようにも見える。
「貴方、変わったわね」
 小さくつぶやかれる。
「昔の……女王候補だった頃の貴方なら、きっと彼を選んでいたわ」
「うん……そうね。そうかもしれない。女王候補の頃なら……あの人に出会ったのが女王候補の頃だったら……」
 もしそうなら、どうなっていただろう。幸せな幻を心の中に描いてみる。
 だけど。
「だけど、私はもう女王候補じゃないもの。この宇宙の女王になってしまったんだもの。何も知らない、小さな子供ではいられない」
 笑おうとして、失敗した。泣きすぎて涙も枯れたかと思っていた目から、また涙があふれた。腫れたまぶたに涙がしみて痛かった。
「……莫迦ね」
 母親のように抱きしめられて、私はまた声を上げて泣いた。
 何が哀しいのか分からなくなるまで、ただひたすら泣き続けた。



 そしてまた、同じ日々が繰り返される。
 日々の中で、皆あの人のことを忘れてゆく。そして私も。
 それでも時折、ひとりであの草原に行ってみる。逃げたいからでも、自由を求めてでもなく、あの人の幻を探しに。
 それなのに、私はあの人の幻さえ見つけられず、ひとり夕暮れを待つ。
 私は何を求めていたんだろう。それは今でも分からない。
 あの人を愛していたのか、そうでなかったのかさえ。
 ただひとつ分かることは、あの人を選べなかったあのとき、あの人の風景の中にいた小さな子供はいなくなってしまったということ。
 あの小さな子供は、あの人の魔法で一枚のスケッチブックの中にその残像を残すだけ。
 風が揺れる。広がる青空。一面の緑。
 朱く染まる草原で膝を抱えていた子供はいつのまにかいなくなって、夕暮れだけが取り残される。
 やがて来る夜を待つのは、微笑みを忘れた大人。私がひとり。


 夕暮れ。すべてが朱く赤く染められて、もうあの人の瞳の色さえ思い出せない。


 END