しあわせの鳥籠〜The blue bird's cage〜
5


 軋んだ音を立てながら、それでも一見平穏な志保と新一の日々は続いていく。閉ざされた世界は、閉ざされているからこその平穏を保ったまま。
「志保。何処に行くんだ?」
 居間から出て行こうとする志保に、新一は声をかけた。
「物置に行くだけよ」
「俺も行く」
 新一はすぐにソファを立って、志保のあとをついてくる。刷り込みをされた雛鳥のように。ほんのひととき離れるだけでも、新一は不安でならないのだ。
 志保はそれを咎めることも鬱陶しがることもなく、そのままにさせている。いや、本当は、志保も新一のその行為に安心するのだ。本当は、不安なのは新一だけではないから。
 物置といっても、工具や日用品などを保管してある、ちいさな部屋だ。普段は滅多に入ることもないこの部屋に来たのは、買い置きの電球を取るためだった。階段の電球が切れたのだ。すぐにどうしても必要というわけではなかったが、万が一暗い階段を踏み外したりしたら危険だ。わざわざすぐに買いに出かけるほどのことではないが、買い置きがあるのなら、取り替えてしまったほうがいい。
「電球……どこかしら?」
 物置に入った志保は電球を探してまわりを見回した。工藤邸に住むようになってある程度経っているが、物置の物の位置まですべて把握できているわけではない。入り口に近い棚を見回すが、ぱっと見電球は見つからなかった。
 物置は、3畳程度の広さの部屋に棚が並べられ、そこに所狭しといろいろなものが置いてあった。手前のほうにはよく使う買い置きのトイレットペーパーや洗剤などが置いてあるが、奥のほうはまさに『物置』で、何に使うか分からない機械や用途さえ不明の置物がぎゅうぎゅうに詰められているような状態だった。
 さすがに買い置きの電球が、何があるのだか分からないような奥のほうにはないだろう。棚の上方にあり、死角になって見つけられないのかと思い、志保は手を伸ばして棚の上を探った。
「────あっ」
「志保っ!」
 腕が積み上げられていた荷物にぶつかり、棚から何かが落ちてくる。とっさに新一が志保をかばい、腕の中に抱き寄せる。足元に、何かが落ちる気配と音がする。
「志保、大丈夫か?」
「私は平気よ。新一がかばってくれたから」
「よかった。もし志保に何かあったら──」
 新一は志保をきつく抱きしめる。その肩は、かすかに震えてさえいた。それを感じて、志保はなだめるようにそっと新一の背に腕を回した。
 命にかかわるような危険物が落ちてきたわけでも、重いものが落ちてきたわけでもない。それでも、こんな些細なことでも新一の不安を煽ってしまうのだ。志保をなくしてしまうかもしれないという不安を。
「おおげさね、新一は。でも、ありがとう。新一に怪我はない?」
「平気だ。なんか、軽い本みたいなのだったし」
 一体何が落ちてきたのかと、視線を足元に落とした。床には、新一の言葉どおり、何冊かの本が落ちていた。工藤家では、書斎に何千冊もの本がきちんと管理されているのに、こんなところに本が置かれているとは珍しいことだった。
 けれど、本の表紙を見れば、何故書斎に置かれていないのかは大体検討がついた。それは子供向けの絵本だったからだ。専門書や洋書の並ぶあの書斎に、こんな絵本は似つかわしくないだろう。
「絵本なんて、なつかしいわね」
 志保は屈んで、床に散らばってしまった絵本を拾い上げた。ほんのすこし色褪せ埃をかぶってしまった絵本。
 おそらくは、幼かったころの新一のものなのだろう。彼は幼いころからホームズなどを愛読していたと聞くが、歳相応にこんな可愛らしいものを読んでいた時期もあるのだろう。人魚姫やラプンツェルのような定番の童話から、現代作家の描いたオリジナルの絵本まで、様々にある。
 志保はその中の一冊に手をとめた。
『しあわせの青い鳥』
 昔、志保も大好きだった童話だ。何度も何度も、姉にせがんで読んでもらった。幼い兄妹の冒険の旅。読んでもらいながら、自分も兄妹と一緒に冒険をしているような気分になっていた。怪物のいる暗い森や、魔女の館、美しく不思議な部屋。けれど、いちばん好きだったのは、やはり話の結末だ。
 シンデレラや白雪姫は『王子様と結婚する』という、日常とはかけ離れたしあわせを手にして、『いつまでもいつまでもしあわせに暮らしました』と、曖昧な言葉で終わっていた。
 常に日常に身を置いている少女なら、そんな非日常のしあわせを夢見るだろう。自分にはないものだからこそ、ドレスや舞踏会やお城に憧れという空想を膨らませて、うっとりと頬を染めるのだろう。
 けれど志保は、そのときからすでに『日常』にはいなかった。
 両親が組織の人間だとはっきり知っていたわけではないけれど、志保自身、組織により特殊教育を受けさせられていたし、なんとなく自分のいる場所が普通ではないことも感じていた。
 そんな状況の中で、『非日常のしあわせ』に憧れはしなかった。志保が望んでいたのはそんなものではなかった。志保が望んでいたのは──。
 青い鳥の結末は────。
「これ、俺の誕生日プレゼントなんだ。父さんと、母さんからの」
 ふと、志保の横から手が伸びて、新一がその絵本を手に取った。
 物思いにふけっていた志保は現実に引き戻されて、新一の顔を見た。彼もなつかしそうに目を細めながら、その絵本を見つめていた。
「7歳か、8歳のときだったかな? それまではさ、ホームズとか海外の推理小説とかくれたのに、その年だけこんなのくれて。俺は推理小説のほうがいいとか駄々こねて、換えてくれって騒いだんだ。だけど、父さんたちはこれが今年の誕生日プレゼントだって言って譲らなくてさ。俺、いつも結構わがまま聞いてもらってたのに、そのときだけはどうしても聞いてもらえなくって。どうしてだろうって────」
 何かが喉につかえたように、不意に言葉が途切れた。何かを言おうとするかのように何度かくちびるが開きかけるが、それでもそれ以上言葉が出てくることはなかった。
「────新一」
 新一は、手に持った絵本をただじっと眺めている。視線は本にのみ向けられ、志保を見ない。
 志保が呼びかけても、軽く腕を揺すっても、何の反応もない。ただ意識は、本にのみ向けられたまま。すぐ隣にいるはずのなのに、どこか遠くへ行ってしまったような気がした。
(────────)
 不安が、志保のなかを駆け巡る。布のすそが墨の中に落ちて、ゆっくりと染みが這いあがっていくかのように。
 こんなことは、今まで一度もなかった。あの日以来、一度もなかった。たとえそれが物であろうと人であろうと、新一が志保以外に目を向けるなんて。
 いちどだって、なかったのに。
「しんいち。しんいち。しんいち」
 志保は必死になって新一を呼ぶ。迷子の子供のように不安だった。
 新一がこちらを見てくれない、ただそれだけのことが。新一がどこかへ行ってしまうのではないかと。こんな不安が続いたら、心臓が潰されて死んでしまうのではないかと思うほどに。
「──────しんいち」
「……志保……」
 新一はやっと絵本から顔を上げて志保を見た。
「しんい……」
 彼の目は、今にも涙がこぼれそうだった。否、志保を見た途端、こらえきれなくなったように雫が頬を滑り落ちた。それが連鎖になったように、あとからあとらとまることなく涙がこぼれてゆく。
「志保。志保」
 新一は志保に抱きついた。痛いくらいに抱きしめられる。それに志保は安堵する。
 大丈夫。まだこんなにも求められている。こんなにも必要とされている。
 だから、大丈夫。
 志保はそっと肩で泣いている新一の髪を撫でた。
「新一。大丈夫よ。私はここにいるから。何処にも行かないから」
「志保……」
「私はずっと新一の傍にいるから──」
 祈るように呟いた。いや、それは祈りだ。志保の、ただひとつの祈り。
 その祈りは、届いたのだろうか。──あるいは、届かなかったのだろうか。



『新ちゃん』
『新一』
 遠い遠い記憶。優しい呼び声。失くしてしまったもの。
『お誕生日おめでとう』
 渡された、綺麗な絵で描かれた子供向けの絵本。プレゼントとしてそれが不満で、他のものがいいと駄々をこねた。
 だけど今ならすこしだけ分かるかもしれない。何故彼らが、これを誕生日プレゼントとして選んだのか。
 探偵という立場であったにしろ、殺人事件にばかり興味を示していた子供へ贈られた、しあわせを探す物語。
 しあわせは、どこにあった?
(とうさん)
(かあさん)
 それは多分、誰よりも誰よりも自分を愛してくれた両親からの、しあわせを見つけて欲しいという、しあわせを見失わないで欲しいという祈りにも似た願い。

『どんなに離れていても、おまえを愛しているよ』

 今はもういないひと達。
 だけどすべてが消えてしまったわけではなくて。すべてを失くしてしまったわけではなくて。
 たとえばこんな古ぼけた絵本の中に、遺された愛情を見つける。
 今はもう、いないけれど。
 すべてをなくしてしまったわけではなくて。すべてが消えてしまったわけではなくて。ここにたしかに残るものがあって。
(……………………俺は)
 新一はゆっくりと目をあけた。まだ涙に濡れた瞳で。まっすぐに見つめることが怖かった世界。もう自分には誰もいないんだということを直視するのが怖くて、ずっと目を閉ざしていた。
 ──本当は、今も怖くて。だけど。
 新一の瞳に、世界が映る。急に何が変わったというわけではない。何も変わらない。自分の家の、すこし埃っぽい薄暗い物置だ。
 それでも。
 今までより、ほんのすこしだけ、色鮮やかに見えるような気がした。


 To be continued.

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