楽園の瑕疵 5


「ごめん、服部」
 泣きながら、新一は平次の前でその言葉を繰り返した。
 蘭に子供ができたこと、そしてそれが自分の子供であると告げて、新一は泣きながら、平次にそう繰り返した。
「ごめん服部」
 謝るしか、できなかった。それ以外に、なにができるというのだろう。
 本当なら、これからずっと一緒にいられるはずだった。その報告をするはずだった。それなのに。
「…………工藤」
 告げられた事実に驚いて、それまで言葉を失っていた平次が、ゆっくりと口を開いた。
「それ、ほんまにおまえの子なんか?」
 可能性は、新一だけにあるわけではないことは、平次にだって分かっていた。いやむしろ、新一の子でない可能性のほうが高い。
 それなのに、子供の血液型さえ分からない現在の状態で、何故自分の子だと言い切るのか。
「………………」
 くちびるを噛んで、新一は深くうつむく。
「工藤、おまえわかっとるんやないのか? それ、ほんまは…………」
「服部」
 新一は平次の言葉をさえぎる。ゆるく首をふる。その先を、言ってはならないというように。
「……そうするしか、ないんだ」
 たとえ真実はひとつしかなくて、それがどうだったとしても、どうしようもないことだって、あるのだ。
 新一が否定すれば、子供は死ぬ。殺される。そして、それがどういう経緯であろうと、中絶という事実はさらに蘭を傷つけるだろう。すべては、新一の返事ひとつなのだ。
「工藤、おまえそれでええんか?」
 低い、怒りをおさえたような平次の声が、新一を責める。
「そんなことで、俺と離れる言うんか? 別れる言うんか?」
 言葉が、新一の胸をえぐってゆく。
 新一だって、平次と離れたいわけじゃない。別れたいわけじゃない。こんなに、こんなに好きなのに。愛しているのに。
 でも、天秤の片側は、ひとつの『いのち』なのだ。それを、潰してしまうことは、できない。
「ごめん、ごめん服部…………」
 これ以上平次を見ているのがつらくて、新一は両手で顔を覆って、泣きながら謝り続けた。
 だからそのとき、平次がどれほど暗い瞳をしていた、気づけなかった。




 新一は、いっそすべてを諦めたような気になっていた。
 すべてを失ったような気分だった。いや実際、失ったのだ。服部平次という、自分のすべてを。
 ひとつのいのちと、自分の人生と。それを天秤にかけて、新一は前者を選んだ。
 けれどいっそ、目をつぶってしまえばよかったのだろうか。子供が殺されることに。蘭に、レイプだけでなく、そのレイプ犯の子供を妊娠し中絶したという事実ができることに。全部に目をつぶって耳をふさいで、自分のしあわせだけを追い求めればよかったのだろうか。
 そうすれば────よかったのだろうか?
 けれど、いまさらそんなことを思っても、もう遅い。見えない糸が、新一をからめとってゆく。いや……糸ではなく、いばら、だろうか。鋭い刺をともなうそれは、絡むたび、新一を傷つける。ひどい痛みと傷をともなって。見えない血が、流れ続ける。けれどもう、深く絡まったいばらから、逃げることすら叶わないのだろう。
 英理はさっそく、目暮達に、蘭が新一の子供を身ごもったと報告していた。告げられた相手達も、それが新一の子だと断定はできないと分かっている。それでも、もしそうならそれがいちばんいいと分かっているから、それについては何も言わない。誰もが真実から目を背けたまま、『よかったね、おめでとう』と答える。
 式は後にしてとりあえず籍だけでもいれるか、一緒に住むのなら何処がいいかなど、どんどん話は進められていた。新一の感情や意志など、おかまいなしに。
 どんどんどんどん、逃げられないよう、外堀が埋められてゆく。実際それは、英理による意図的なところもあるのだろう。突然新一の気が変わって、自分の子でないなどと言い出さないように。すべては、愛する娘のしあわせのために。
 今日英理と蘭のところに訪れたら、一体どれほど話は進んでいるのだろう。入籍の日取りと新居くらい、もうすでに決められてしまっているかもしれない。
 けれどそれも、もうどうでもよかった。新一は、すべてを失ったのだ。この先どうなろうと、何も変わらない。
 もう、英理のマンションに向かう足どりも、重くなりようもなかった。ただ空虚で、雲を踏んでいるような、という表現が本当にぴったりだった。

 けれどまた、新一にとって予想しなかったことが起こっていた。

 英理のマンションへ来て廊下を歩いているとき、新一の耳に、ドア越しのかすかな悲鳴が聞こえてきた。
「英理さん……?」
 聞こえた声は、英理のものだった。条件反射のように、新一は廊下を駆け出して、英理の部屋の扉を開けた。
 そのとき、まっさきに新一の視界に入ったのは、玄関のたたきにある、大きな男物の靴だった。新一はそれに見覚えがあった。見慣れたそれを、見間違えるはずもない。けれど、何故それが、今この場所にあるのか──。
「新一君っ……!! 蘭がっ……」
 英理が、新一の姿を認めて、すがるように駆け寄ってきた。
「子供がっ…………!!」
 新一は、急いで部屋に上がり込んだ。蘭がいるはずの寝室へ急ぐ。
「蘭……!?」
 すでに半開きになっている扉を、おおきく開けた。
「……………………っ」
 そこに見える光景の意味が分からなくて、新一はただ立ち尽くして、それを眺めていた。
 床にうずくまって、腹のあたりをおさえて、痛みにうめいている蘭。
 そして、それを冷たい目で見下ろしているのは────。


「はっとり……?」


 何故彼がここにいるのか。何故蘭は腹をかかえてうめいているのか。ああ、蘭の足を伝っているのは、血ではないだろうか。
 優秀なはずの新一の脳は、そこにある光景の意味を、なにひとつ理解できずにいた。いや、本当は分かっていて、けれど分かりたくなくて、思考がとまっていたのだ。
 英理がヒステリックに何か叫んでいる。部屋を行ったり来たり駆け回っている。
 冷たい目で蘭を見下ろしていた平次は、ゆっくりと顔をあげて、立ち尽くしている新一に視線を向けた。
 彼は、新一を見て、笑った。
 ちいさな子供が、なにかを成し遂げたときの、満足そうな、誰かに褒めて欲しそうな、そんな笑顔だった。
 遠くから救急車の音が聞こえて、救急隊員達が部屋に駆け込んで来ても、新一はただ服部を見つめたまま立ち尽くすだけだった。




 蘭は、流産した。
 急いで病院へ運ばれたが、子供は助からなかった。原因は、平次が彼女の腹を、意図的に強く殴ったのだという。新一のことで話があると英理のマンションに突然訪れた平次は、英理がとめるのも聞かず蘭の部屋まで押し入り、彼女を殴ったのだという。
「なんで? なんで服部……」
 新一は尋かずにいられなかった。
 それは、殺人だ。法的には違う言葉で表現されるとしても、ひとつの命を絶ったことに変わりはない。
 どうして、あんなことをしたのか。
 新一の問いかけに、平次は視線を彼に向けた。
「おまえを、渡しとうなかった」
 深い暗い色の瞳が、新一を映す。
「おまえが蘭ちゃんを選んだのは、腹の子のせいやろ? やったら、それがいなくなればいいと思うた」
 平然と、平次はそう言い放った。
 そんな理由で、平次は、子供を殺したのだ。まだ生まれる前でも、人の形をしていなくても、それは人間だ。ひとつの命だ。それを、殺したのだ。
『探偵』である、平次が。

(服部……)




 嬉しかった。




 嬉しかった。嬉しかったのだ、新一は。
 平次が、手を血に染めてでも、自分と共にいたいと願ってくれたことが。それほど想ってくれていることが。嬉しかった。自分に絡まるいばらがなくなったことが。
 たとえ誰に責められても、誰に罵られても、新一は嬉しかった。
「服部…………」
 新一は、きつく平次の体に腕をまわした。
「俺も、おまえと一緒にいたい」
「工藤…………」
 平次も、新一の身体をしっかりと抱き留める。骨がきしみそうなほど強く。
 たとえそれが罪の上に成り立っていても。
 新一は今、しあわせだった。




 平次が蘭を流産させた件については、事故として処理された。
 事件としておおごとにしたくなかったのだ。事件にしたら、レイプされたということまで、また引きずり出されることになるからだ。
 彼女は再び病院のベッドにいた。しばらくの安静と療養が必要だった。身体的にも、精神的にも。
 新一は、そんな彼女の病室を訪れた。
「蘭……」
 蘭は、ベッドの上に起きあがっていたが、何処か放心しているような状態だった。それはそうだろう。いろいろなことが、彼女の身にふりかかりすぎた。
 本来なら、彼女も被害者だ。なにひとつ悪くないのに事件に巻き込まれ、深く深く傷つけられた。
 本当は、大切な幼馴染のために、どんなことでもしようと思っていた。いや、それすらただのエゴかもしれないけれど。
 新一は、彼女に、告げようと思っていたことを、切り出した。
「蘭。俺、もうおまえの傍にいられない」
 ぴくりと、蘭の肩が揺れる。
「でもそれは、おまえがレイプされたからとか、そういうことじゃないんだ。ただ……俺は最初から、事件の前から、他に好きな奴がいたんだ」
 そこですこし区切って、ちいさく息を吸い込んでから、その名前を告げる。
「俺、服部が好きなんだ」
 彼女の反応をうかがうように見つめるけれど、いちど肩を震わせたあとは、もうなんの反応も返さない。まるで新一の言葉が聞こえていないかのようだ。
「おまえのことは、変わらず好きだし、大事な幼馴染だと思ってる。でもそれは、恋愛感情じゃないんだ。俺は、服部を、愛してるんだ」
 蘭は何も答えない。新一のほうを見ようともしない。窓の外をただじっと見つめているだけだった。
 いっそ責められたほうが楽だったかもしれない。
「ごめんな。でも、これだけは、もうごまかすことも、譲ることもできないから……」
 それだけ言いおいて、新一は病室を出た。
 廊下では平次が待っていた。
「……どやった?」
 新一はちいさく首を振る。
「なにも……」
「そか……」
 たとえ蘭が認めなかったとしても、受け入れなかったとしても、その真実だけは変わらない。伝えることは伝えたのだ。もう新一にできることは何もない。
 あとは、彼女が立ち直ってくれることを、遠くから祈るだけだ。もう、それしかできない。
「帰ろ。服部」
「ああ、そやな」
 ふたりは並んで、蘭の病室から離れていった。
「……今は駄目でも、いつか……蘭もまた元気になって、…………俺達のこと、認めてくれるかな」
 病院の、長い白い廊下を歩きながら、新一がぽつりとつぶやいた。
 都合のいい考えだとは思う。けれど、いつか……時がすべてを癒してくれたなら、と思わずにはいられない。
「そやな。……そうなると、ええな」
 平次も、短くそう答えた。
 長い時の先になら、いつかそんな日も来るかもしれない。そうなれば、いい。
 そう、願ったのに。
 新一と平次が、並んで病院を出たとき。
「新一!」
 大声で、呼ぶ声が聞こえた。蘭の声だ。けれどその声は遠い。
 ふたりは振り返って、彼女の姿を探して首をめぐらせた。
「おいっ、あれ…………!!」
 平次のほうが先に彼女を発見し、頭上を指さした。新一も指先を追って見上げる。
 屋上の縁に、蘭が立っていた。
「蘭っ…………!!」
 長い髪が、患者服が、風にはためく。彼女の体は、すでにフェンスのこちら側にあった。
 遠すぎて、その表情は見えない。
「おまえ何やってんだ!! 危ない……!!」


 裸足の足が、地を蹴った。

 薄い色の患者服が、風に舞う。

 病院の白い壁を背景に、蘭が落ちてゆく姿が、はっきり見えた。
 まるで、スローモーションのように。落ちてゆく身体。










 べしゃり。










 新一と平次の前に、落ちた。
 広がる赤い血。










「うわああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
 新一の悲鳴がほとばしる。
 平次はその光景をこれ以上彼に見せないようにと深く抱き込む。けれど一度網膜に焼き付いたその映像は、決して消えない。目の前に広がる真実は、決して変わらない。
 落下点からじわじわと広がってゆく紅い液体。それはまるで自ら意志を持って新一のほうへと迫り来るかのようだ。彼を、責めるために、追いつめるために。


 もしそれが復讐という名の行為なら。
 彼女はもっとも効果的な方法で、新一を傷つけることに成功したのだ。
 その命と引き替えに。



 To be continued.

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