箱舟 -5-


 久しぶりに見た東京の空は、鈍い青灰色をしてた。それは、曇りかけた天気と、汚れた都会の空気がそんな色に見せているのだろう。綺麗とはいえない、濁った色。それでも、それはひどくなつかしく感じられた。
 新一は、ホテルの最上階に程近い一室から、濁った空と、その下に広がる模型のようなビル郡を見下ろした。この高さからでは、人はまるで蟻のように見える。狭いビルとビルの間をうごめいている。
 だが、ここからでは判別もつかない集団のひとりひとりに、それぞれの人生があり、抱えるものがあるのだろう。そして自分も、そのなかのひとりなのだろう。そう考えると、どこか不思議な気がした。
 手にした英字新聞の一面には、アメリカのある会社にFBIの捜査の手が伸びたという記事が載っていた。日本では新聞の片隅に載るだけで、多くの人は知らないまま過ぎていくような事件だろう。いや、アメリカ本土でさえただの汚職事件と思われ、そしてすぐに忘れ去られてゆくだろう。──表向きは。
 それが本当は、巨大裏組織の一端を崩した、大きな事件であるとは、誰も気付かない。
 外を眺める新一の背後で、美しい細工の施された硝子テーブルに置かれていた携帯電話が、かすかな振動音を伝えてきた。新一は、電話に出るために窓から離れる。この電話番号を知っているのは、ごくわずかな限られた相手のみだ。
 着信に表示された名前を見て、新一はわずかに口角を上げ、通話ボタンを押した。
「よう。久しぶりだな」
「なに呑気なこと言うてんのや! 帰ってきとるんなら連絡くらいせい!」
 久しぶりの関西弁が耳に飛び込んでくる。
 その大音響に肩をすくめ、受話器を耳から遠ざけ、耳鳴りのしそうな耳を押さえるが、それでもその顔には笑顔が浮かんでしまう。
 まるで、変わっていない。そのイントネーションも、その声の優しさも。
 そのことに、どこか安心する。
「別に俺から連絡しなくても、おまえがこうして連絡してくるんだからいいだろ?」
「アホ抜かせ! おまえが連絡よこさんから、仕方なくこっちは情報張り巡らせて、わざわざ電話しとるんや! おまえから連絡しとれば、何の手間もかからんものを!」
「悪い悪い」
「……自分、本気で悪いなんて思うてへんやろ……」
 きっと平次には電話越しでも、笑いをこらえているような新一の表情も伝わってしまっているのだろう。憮然とした平次の様子も、新一にも手に取るように分かる。
 平次とこうして変わらぬ言い合いをしていると、やっと日本に帰ってきたのだと実感する。やっと──もうすぐ、終るのだと。
「そうや。まだ言っとらんかったな」
 平次の声がわずかに改まり、受話器の向こうで、小さく咳払いするのが聞こえた。

「おかえり、工藤」

 優しいけれど力強い声で、そっと告げられる。
 たったそれだけの言葉に、新一の胸はあたたかくなる。あたたかい春の陽射しに、厚い雪の下から、雪割草のちいさな芽が出るように。
「ああ。ただいま」
 多分、この言葉を告げるために、これまでの月日はあったのだろう。
 あれから──江戸川コナンからもとの姿に戻り、志保が姿を消してから、すでに7年が経とうとしていた。
 新一は、志保が姿を消してからもしばらくは阿笠博士のところに身を寄せていたが、完全に痕跡を隠せるわけでもなく、やがては組織に見つかりそうになった。博士を巻き込むわけにはいかないし、こんなところでやられるわけにもいかなかったから、新一は身を隠すため、いったん国外に出た。
 それから、組織に見つからないよう、また、組織を潰すために、世界各地を転々とした。さまざまな人に出逢い、いろいろな協力を得て、すこしずつすこしずつ、組織を潰していった。
 ある一流企業の倒産、ある団体の解散、ある政治家の逮捕。それらひとつひとつを見れば、特に大きな事件でもなく、ちいさくニュースで取り上げられる程度だった。
 だが、それらがすべて裏で繋がっていたと──それらがすべて、巨大裏組織の一端であると、知る者はごくわずかだ。
 ちいさな無数の亀裂は、やがて、その本体にも影響を及ぼしはじめた。一度歯車がずれてしまえば、あとは大きすぎる自身の力によって、歪みはどんどんと大きくなり、自身の重さに耐え切れなくなってくる。
 今現在、組織はその力をほとんど削がれている。いちど崩れ始めた砂の城は、放っておいてもやがて風化するだろう。
 まだ残党も残っているし、完全にその力が消えたわけではないから油断することはできないが、もう新一は、組織の影におびえる必要はない。
 やっと──やっと、自由になれたのだ。新一も、──今はここにいない、彼女も。
「……なあ工藤。──逢えたんか?」
 幾分遠慮がちに尋ねられる。
 誰、とは言わなかったが、それは新一にも分かっていた。
「いや」
「そうか……」
 平次が幾分落胆したような声を出す。だが、新一は彼のように落胆したり悲観したりすることはなかった。
 志保が姿を消してから、今まで、まったく連絡が取れていなかった。姿を消したあと、一度平次が偶然に会った以外、まったく居所が知れなかった。だが、新一も、彼女の居場所を無理に探そうとはしなかった。平次に伝えられた、彼女からの伝言を聞いたから。

『今はあなたの傍にいられないけど、でもいつか──いつかそれが許される日が来たら、必ず、あなたに逢いにいくから』

 あてのない約束。それでも、彼女がそう言うのなら、無理に探すのではなく、一日も早く『その日』が来るようにしようと思ったのだ。
 そして志保が新一のもとへ帰ってきたなら、平次が新一におかえりと言ってくれたように、新一も彼女に、言ってあげたい。
 おかえり、と。
 そうして、そこからまた、ふたりではじめるのだ。やっと、はじめられるのだ。
「大丈夫だよ、服部。どこかであいつも、組織がつぶれたことは分かってるさ。それなら、きっと、帰ってくるから」
 その声はおだやかで、どこにも不安も怖れもなくて。まるで雨上がりに虹が出ると当たり前のことを言うかのようで。その口調に平次はすこし笑う。
「そうか。それ聞いて安心したわ。おまえがそう言うんなら、大丈夫やな」
「ああ」
 本当は、新一にだって不安がないわけではないのだ。何しろ相手は巨大な裏組織だ。命の危機にはいつだってさらされていたのだ。だけど、不安に震えていても何も出来はしないから、信じていようと──なにがあっても、絶対に信じて待っていようと決めたのだ。
 志保が今何処で何をしているかは分からない。一度さえも連絡があったこともない。それでもかろうじて、まだ彼女が無事に生きていて、組織にも捕まっていないことは分かっていた。
 新一が組織を潰すために動いていたとき、時折、その存在を感じることが出来た。それはたとえば、ある会社の情報がネット上からハッキングされた痕跡であったり、敵に偽の情報が流された痕跡などだった。
 何処かで、彼女も戦っているのだ。新一とは違う場所で、違う方法で。
 それでも一緒に、戦ってきたのだ。
「……本当は」
 ちいさく、新一は言葉をこぼした。
「本当は、あいつと離れて待つのはつらかったんだ。そうするのが一番いいって分かってたけど、でも」
「……工藤」
 それは、ずっと新一が閉じ込めてきた本音だった。弱音だった。誰にも言うことは出来なかった。ひとりだけで抱えてきた。
 けれど今なら、もう言ってもいいだろう。平次になら。
「今更になって、俺がコナンだったころ待っててくれた蘭のつらさが身に染みて分かったよ。それなのに俺は蘭を振ってさ。因果応報ってやつかな?」
 ほんのすこしだけ、嘲るように、新一はちいさく笑った。
 志保が新一から離れたのは、間違いではなかったと思う。実際、ふたりが離れて行動していたからこそ、何とか組織から逃れてこられたし、身軽に行動も出来た。また、それぞれ別方向から組織に対抗することで、組織を潰すことが出来たのだ。この7年の間は、ふたりが離れ、一度たりと連絡も取らずにいることこそが、ベストの状態だったのだ。
 そうは分かっていた。分かってはいたが、それでも、離れていることは心に不安を生んだ。
 離れているということは、相手が何をしているか分からないということだ。今何処で何をしているか、何を想っているか、何ひとつ分からない。
 もしかしたら、つらい目にあっているかもしれない。命の危機にさらされているかもしれない。哀しみに涙をこぼしているかもしれない。そして、もしそうであったとしても、助けることも、抱きしめてやることも、涙を拭ってやることも出来ないのだ。
 できることといえば、ただ、無事を祈ることくらいで。
 自分が待つ立場になって、はじめて、かつて自分を待っていてくれた幼馴染のつらさを知った。彼女がどんなに自分を想っていてくれたか。それなのに、自分は彼女の想いに応えることさえ出来なくて。
 ──いや、蘭だけじゃない。待たせたと言うのなら、平次だって同じだろう。
 ろくに連絡もせず、けれど彼はいつだって新一の心配をし、手助けをしてくれた。
 今度は、新一が志保を待つ番だ。彼女を待ち、彼女の帰ってくる場所になれるように。帰ってきたら、抱きしめてあげられるように。
「おまえがそれでいいと思うんなら、俺は何も言わんよ」
「悪いな、服部」
「あやまんなや。それよりおまえは、これから宮野が帰ってくるの迎える準備せんとアカンのやろ?」
「ああ。なんせずっと日本を離れていたからな。家もほっぽりっぱなしだし……」
 新一は今の自分の生家を想像し、小さく眉をすくめた。
 組織に家の場所はとっくに明らかになっていたため、東京の工藤邸には近づけなかった。また、被害を受ける可能性も考えて、博士にも邸を離れてもらった。つまりあの並んだ2件は、ここ数年、人の手がまったく入ってない状態だった。
 家など、人が住まなければ、すぐに廃墟と化してしまう。新一がコナンの姿をしていた頃は、定期的にコナン自身や蘭などが掃除をしたりしていたから、かなりマトモだったが、今は完全に誰も手をつけていない状態だった。埃や雑草、それに近所の子供達のいたずらで窓のひとつやふたつは割れているかもしれない。それを思うと、溜息をつくしかない。
 それでも──。
 きっと、志保が帰る場所は、あの場所だろうと思うのだ。
 そして、新一も、迎える場所があそこであればいいと思うのだ。
 まるで昔のように、屋敷をきれいにして、生活できるように整えて、今は遠くに住んでもらっている博士にも帰ってきてもらって。
 そうして、当たり前のように、あのころ学校から帰ってきた彼女を迎えたみたいに、『おかえり』と。
「そうやな。それが一番やろうな」
 平次も、新一の言葉に深くうなずいた。
「人手が要るんやったらいつでも言えや。すぐに飛んでいくからな」
「何言ってんだよ。大阪府警のエリート警部補が、そんな簡単に大阪離れられるのかよ」
「まあ……そうかもしれんが、気持ちの問題や、気持ちの」
「ま、頼りにしてるよ」
「おう!」
 それからしばらくお互いの近況を話した。近況といっても、お互いが関わった事件の話がほとんどだ。だがそれが、新一と平次にとってはいつもの──昔通りのことだった。電話だけでは話し足りなかったけれど、これからはゆっくり時間があるのだ。惜しみながらも、また連絡する約束をして電話を切った。
 再び静かになった室内で、新一はもういちど窓辺に寄った。
(志保)
 模型のような街、蟻のような人波。このどこかにいるかもしれない彼女のことを思った。
(大丈夫)
 きっと、もうすぐ会えるだろう。もうすぐ、必ず。



 最近のタクシーの趣向なのか、それともこの運転手の趣味なのか、車内には耳障りにならない音量で音楽が流されていた。今流行りの女性歌手のもののようだが、それが誰なのか、志保には分からなかった。それでも、子守唄のように優しい歌詞と音色は、耳に心地よいものだった。流れてゆく窓の景色を見つめながら、その音にそっと耳を傾けていた。
「お客さん、もうすぐ米花町ですよ」
 タクシーの運転手が、志保に声をかけた。
 窓から見える前方の景色には、米花タワーや米花ツインビルなど、懐かしい建物が見えていた。けれど、昔と全く同じではない。志保が見たことのない新しい建物もいくつか見えた。
「お客さん、米花町の出身ですか?」
「……いいえ。出身ではないけれど、昔すこしの間だけ住んでいたことがあるの」
「そうなんですか。都市開発とかで、最近は米花町も結構変わりましたからねえ」
 まだ何か話しつづけている運転手の言葉を頭の隅で聞きながら、志保はただ外の景色を見つめていた。
 やがて、タクシーは米花町に入り、志保は米花駅の近くでタクシーを降りた。
 駅の建物はそのままだったが、まわりの景色はだいぶ変わっていた。駅のすぐ前にある大きなデパートなどは変わらないものの、こまごました店や街並みは変わっていた。
(7年も、経つんだものね)
 彼女がこの場所に来るのは7年ぶりだ。あの日──新一と別れてから、しばらくは日本にいたが、すぐに海外に出た。組織に居場所がばれないように、ひとつのところに定住することはなく、各地を転々としてきた。そうしながらも、組織に関する情報を集めて、組織を潰すために働きかけてきた。
 そして、ついに先日、組織の中核が崩壊した。大きな組織は少しずつその手足をもがれ、ついにはひとつの塊として機能できないよう追い詰められた。今は、その外殻が残っていても、その中身はもう存在していないのと同じだった。
(工藤君)
 それが、彼の力によるものだと知っている。自分と同じように、彼もどこかで戦い続けて──そして、因縁ある組織をやっと潰したのだ。
 組織はすでにない。これで本当に志保は自由の身だ。怯えながら、隠れて暮らす必要はもうない。
 志保の存在によって、傍にいる親しい人に害が及ぶのではないかと、怯える必要はなくなったのだ。

『今はあなたの傍にいられないけど、でもいつか──いつかそれが許される日が来たら、必ず、あなたに逢いにいくから』

 7年前、そう告げたのは志保だ。
 組織は壊滅し、組織を理由に離れている必要はなくなった。けれどそれがそのまま傍にいることを許される理由になるのか。本当のところ志保には分からなかった。
 それでも──ただ、逢いたいと、そう、思ったのだ。

(必ず、あなたに逢いにいくから)

 昔、子供の姿だったとき、よく歩いた道を、ゆっくりと歩き出す。あの頃より高くなった目線で、変わってしまった街並みの中を歩いてゆく。
 志保は、工藤新一が今どこにいるのか知らない。もしかしたら、ここにはいないかもしれない。
 それでも、志保の帰る場所はあそこだと思った。
 子供の姿で、彼と共に、優しい博士に庇護されながら過ごした場所。ほんの短い間だったけれど、元の姿に戻って、彼と共に過ごした場所。
 あの場所に、帰りたいと思った。
 少年探偵団のみんなと一緒に遊んだ空き地、いつもお菓子を買った駄菓子屋、通った小学校。ゆっくりと、思い出をたどりながら、歩いていく。
 あれからすでに7年も経って、変わらない景色もあるけれど、変わってしまっているところも多い。かつての空き地は駐車場になり、小学校はきれいに建て替えられている。それでも、昔ながらの風情を残す駄菓子屋は変わらずにあった。
 ゆっくりと歩く志保の脇を、制服を着た少女たちが、笑いながら通り過ぎてゆく。見た目からおそらく中学生だろう彼女らは、見知らぬ制服を着ていた。きっと、近所の中学校の制服も変わったのだろう。
 思えば、あのときを一緒に過ごしていた探偵団のみんなも、すでに中学生になっているはずで、きっと今すれ違ってもすぐに彼らであると分かるかどうか。探偵になりたいとか、仮面ヤイバーになりたいとか言っていた彼らも、今はそれぞれの夢や希望を持って、それぞれの道を歩んでいるのだろう。
 変わることは悪いことではない。むしろ、自然な流れなのだ。
 たとえば、別れる日、顔をぐしゃぐしゃに歪めて泣きながら、決して忘れないと、どんなに時が経っても絶対に友達だと、そう言った歩美達が、コナンや哀のことを忘れていたとしても、それは責められるべきことではない。当然のことなのだ。
 それと同じに──たとえ、新一が志保のことなど忘れていたとしても──。
 そこまで考えて、志保はそれ以上考えるのをやめた。
 新一を信じるとか信じないとか、そんな次元のことではなくて、ただ、志保の帰る場所はあの場所であると、ただそれだけのことなのだ。結果なんていらないのだ。
 ゆっくりと、変わりつつあるけれど懐かしさの残る景色を進んでゆく。
 いつもよく吠える犬がいた赤い屋根の家は、建物は変わらなかったけれど、もう犬はいなかった。よく手入れされた薔薇の垣根に囲まれていた家は、変わらずにきれいな花を咲かせた垣根を残していた。曲がり角の小さな家は、建て替えられて二階建ての大きな家になっている。
 学校帰りにいつも通った道。そして、その角を曲がれば──。

「────」

 懐かしさに、志保は角を曲がったところで足を止めた。
 少し先に見える、2件並んだ家。ひとつは大きな古い洋館で、その隣には個性的な屋根が特徴の家。
 何も変わらない──いや、あれから7年経って、やはりすこし古びたように見える。外壁にはあのころより色がつき、どこか寂れた感じがする。永く人が住んでいなかったのだろうと、遠目にも分かった。
 人が住んでいない家というのは、急速に寂れるものだ。新一も組織に対抗するため、どこか他の地にいたし、おそらくは博士もその身の安全のために、どこか別のところへ避難していたのだろう。それは当たり前で、仕方のないことだ。
(それでも)
 志保はゆっくりと、博士の家へと向かって歩き出した。
 懐かしい家の外観が、はっきりと見えてくる。
 少し進んだところで、志保はさっきは分からなかったことに気付いた。さっきまでは角度的に見えなかったけれど、近づいてみて分かる。新一の家の窓が、開いていたのだ。
(──まさか)
 心が早鐘を打つ。胸元で、手を握り締めた。
(まさか──まさか)
 無意識のうちに、志保は走り出していた。そんなに長い距離でもない、門までの道を走っていた。
 錆びついた鉄柵でできた門は開いていた。
 中を見渡せば、玄関の扉も、庭に通じる窓も開け放たれていた。
 そして、志保の目の前に、ひとつの人影が見えた。雑草がぼうぼうに伸びた庭に、荷物を運び出しているところなのだろう。Tシャツにジーンズ姿で、軍手をはめて、首にタオルを引っ掛けた姿で、家の中から埃をかぶった大きな机を運び出そうとしていた。
「…………」
 その姿を見て、くちびるが震える。正しい声にならない。その姿を見るのは、7年ぶりだ。ずっとずっと、逢いたかったひと。
「しん、い、ち」
 声が震える。それでも、かすれた声がこぼれた。
 それに気付いたのか、新一が顔を上げた。
「志保……」
 呼ばれる声に、心が震える。そうやってもう一度呼ばれる日を、どれほど夢見てきただろう。志保はその場に立ちすくむ。上手く動けなかった。
 同じように突然現れた志保の姿に驚いたのか、動かずにいた新一は、しばらくたったあと、ひとつ溜息をつくと軍手を外して、ぐしゃぐしゃと自分の髪をかきまぜた。
「おまえなあ……、帰ってくるのちょっと早いぞ。俺の予定じゃ、来週か再来週あたりに帰ってくると思ってたのに……。せっかくうちも博士んちも綺麗にして、博士も呼び戻して──それでおまえを迎えようと思ってたのに。7年ぶりの再会がこんな姿って、かっこ悪いじゃねえか」
 たしかに今の新一は、あまり見れたものじゃない。掃除の最中だったせいで白いシャツは所々黒くなっているし、よれたタオルは首に引っかかっているし、髪も乱れている。かつて、テレビやメディアに出ていたようなかっこいい『名探偵工藤新一』とは大きく違う姿だ。
 だがその姿のほうが、志保には愛しかった。なんの飾りもない、そのままの、工藤新一。
「かっこつけなところは、相変わらずなのね」
「おまえ、ひさしぶりに再会した第一声がそれかよ」
 お互い顔を見合わせて、ちいさく噴き出してしまう。長い時間を隔てても、変わっていないものがある。もちろん、変わってしまったところもたくさんあるんだろうけれど。一番大切なものはそのままで、だから、大丈夫なのだと確信する。
 新一は、志保に向かって、腕を差し伸べる。
「おかえり、志保」
「ただいま、新一」
 志保はゆっくりと歩み寄って、差し出されたその手を取る。その手のあたたかさに、涙がこぼれそうだった。やっと、やっと取り戻したもの。帰る場所に辿り着けたのだ。
「あ〜、まあ、見て分かってると思うけど、これから掃除しないと今夜寝るところもないからな。おまえも掃除手伝えよ」
「あら、私はちゃんと米花セントラルホテルに泊まるつもりで予約入れてるわよ。だって、ここに泊まれるなんて思っていなかったもの。寝るところがないのは新一だけよ」
「なっ! おまえ、掃除手伝わないつもりか!? 自分の寝床が確保できりゃあそれでいいのか!?」
「しかたないわね、手伝ってあげるわよ。あなた要領悪いし、ひとりじゃ夜までに終わらなそうだし」
 昔のように軽口を叩きあいながら、家の中に入っていく。新一の手はすこし埃っぽくてじゃりじゃりしたけれど、その手は離さない。これからゆっくりと、離れていたあいだの話や、これからの話をすればいいのだ。これからは、ずっと一緒にいられるのだから。
「ああそうだ、忘れてた」
 新一が志保を振り返る。なんでもない、当然のことのように、彼は笑って言った。

「愛してるよ」


 END.