耳かき 新一×志保篇


 ある日、所用があって工藤邸に来た志保は、おもしろい光景を目にした。
「……何やってるの、工藤君」
 思わず声をかける。
 志保の目の前にいるのは、自分の左の耳に耳かきを突っ込んだまま、眉根を寄せて固まっている名探偵、であった。よくわからない、見慣れない光景である。
「見てわからないかよ……」
「わからないから尋いているんでしょう」
「耳掃除だよ……」
 工藤新一の耳かき好きは、志保も知っていた。新一が、にやける平次や快斗の耳かきをしている処を何度も見たし、自分も彼に捕まって耳かきをされたひとりでもあるのだから。
「で、だから何してるのよ」
 もういちど、志保は尋ねた。
 耳掃除と本人はいうものの、思い切りしかめつらで、耳かきを耳に突っ込んだまま、動かずにいるのである。一見耳掃除をしているようには見えない。
「……自分の耳は、うまく掃除できなくて、ちょっと耳かき奥まで突っ込んで、痛かった……」
 聞きとりづらいちいさな声で、子供が言い訳をするように、新一はぼそぼそと答えた。
 そんな彼の様子と、子供のようなその失敗に、志保は思わず笑ってしまう。
 新一は耳かき好きだけあって、他人の耳かきはとてもうまかった。志保もそれは身をもって知っている。それなのに、自分の耳かきは、驚くくらい下手ならしい。
 あの完璧にも見える名探偵に、思いも寄らない弱点があるようだ。
「なんだよ、仕方ないだろ。自分の耳の中は見えないんだから」
 言いながら、また耳かきを動かして、また奥までかじってしまい痛かったのか、眉をしかめて動きがとまる。
 自分の耳かきは、自分の爪切りと一緒で苦手らしい。自分に関してのことのみ苦手というところが、なんだか新一らしくもある。
「見てられないわね」
 その様子にちいさく笑って、志保は新一の隣に座った。
「ほら、貸してごらんなさい」
 新一に向かって手を差し出す。
 差し出されたその手と志保の顔を、新一は驚いたように交互に見つめた。
「志保が、……俺の耳かきするのか?」
「あなたが自分でやるよりいいでしょう? 鼓膜傷つけたくなかったらね」
 確かにこのままでは、そのうち怪我をするだろう。
「でもなあ……う〜〜ん。ま、いいか」
 しばらく考えたあと、新一はおとなしく志保の膝の上に頭を乗せた。
 誰かの耳かきをするために膝枕をさせたことはあっても、他人に膝枕で耳かきをしてもらうなんて、新一ははじめてだった。しかも女の子に膝枕をしてもらうことなど今までなかった。やわらかな志保の足の感触が、なんだかひどくどきどきする。
「動かないでね。私、あなたほど耳かきうまくないから」
 志保のきれいな指先が、新一の耳を軽く引っ張って、耳掃除を始める。
(う、わ……)
 なんとなく、背中がぞくぞくする。
 別に耳が感じやすいとかそういうことは……なくもないのだが、なんだか不思議な感じだった。感触としては純粋に気持ちいいのだが、膝枕だとか、耳に触れる指だとかの相乗効果で、なんだか不思議な感じだ。
 でも、嫌な感じじゃない。
「はい、反対側向いて」
 志保の言葉に従って、新一は頭の向きを変えた。
 てきぱきと、志保は耳掃除をこなしていく。
 なんだかそれが、もったいないような、寂しいような気持ちになった。
 膝はあたたかくて、気持ちがよくて、もうすこしゆっくり耳掃除をしてくれてもいいのに、と思うのだ。
「はい、おわり」
 志保がそう言ったとき、新一は無意識のように、言っていた。
「なあ……もうしばらく、こうしてちゃ、駄目か?」
 言ってしまってから、顔が赤くなる。そういえば同じようなことを、平次や快斗も言っていた。自分はそれを一蹴して膝から蹴落としていたというのに、まさか同じ台詞を自分が言うとは。
 これでは志保に『莫迦なことを言うな』と蹴落とされも文句は言えない。
 うかがうように、首をひねって志保の顔を見上げると、志保も赤い顔をしていた。目があった途端、照れたように視線をはずされる。
「……別に、かまわないわ」
 横を向いたまま、ぽそりと志保が言った。
 なんだかそんなふうに照れられると、こっちもよけい照れてしまうが、とりあえず許可が出たので、新一はまたもとのように、志保の膝に顔を戻した。
 手持ちぶさただったのか、志保はまた新一の耳を軽く引っ張って、今度は耳の中ではなく、外のまるまっている部分の掃除などを始める。それもひどく気持ちいい。
(……耳かきって、いいよな。自分がするだけじゃなくて、してもらうのも……)
 平次や快斗が、耳かきをしてもらいたがる気持ちもわかる。
 今度平次や快斗の耳かきをするときは、もうすこしゆっくりやってやろうかな、などと思った。
 耳に触れる優しい感触と、膝の心地良さに、新一はうっとりと目を閉じた。
「……あら」
 ふと志保が気付くと、新一からかすかな寝息が漏れていた。
 耳かきをされているうちに、思わず寝てしまったらしい。子供のような無邪気な顔で眠っている。
「あらあら」
 全然困っていなそうな口調で志保はつぶやくと、そっと新一の髪を撫でた。
 新一が起きる気配はまだない。
 志保はそっと身をかがめて、ほんのすこし、自分のくちびるを彼の耳に近づけて。滅多に人に聞かせることのない優しい口調で、普段呼ばないその名前で、そっとささやいた。

「おやすみなさい、新一…………」

 夢の世界にいる新一にその言葉は聞こえていなかったけれど。それでもいい夢を見ているのか、彼の寝顔がすこし笑った。


 END