海原の人魚 8


 そこから先のことを、平次は憶えていない。
 ただ、夢を見たような気がした。誰よりも誰よりも愛した人魚の夢。
(──平次)
 新一の顔は、泣いているようにも笑っているようにも見えた。その美しい蒼い瞳が揺れている。
(莫迦だよおまえ。なんで俺のためなんかに、命をかけるんだよ)
 そんなことは決まっている。愛しているからだ。だから、死なせたくなかった。ただ、それだけのこと。
(莫迦)
 声は怒ったような口調で、けれど震えていた。
 そして言葉とは裏腹に、新一の手が、そっと平次の頬をなでる。
(でも、ありがとう。俺は大丈夫だから)
 なにが大丈夫というのか。どう大丈夫だというのか。平次は聞き返そうとした。それなのに、声が出ない。
(愛してる)
 言葉とともに、新一は平次にそっとくちづけた。やわらかなくちづけ。
(あいしてる、平次)
 新一は泣きながら、けれど笑っていた。精一杯の笑顔。平次のための、精一杯の笑顔。
 そんな顔をしないで。
 そんな顔をさせたかったわけではないのだ。
 平次は、新一のほうへ腕を伸ばそうとした。その頬を包み込んで、髪をなでて、抱きしめたかった。
 それなのに、体が動かない。
 まるで身体を失って、意識だけがそこにあるかのように、身体を動かせない。
 それでも必死に新一のほうへ腕を伸ばそうとした。必死に新一の名前を呼ぼうとした。
(新一!)



「……い、……ち……」
 かすれた、自分の声がした。
 さっきまでは、浮遊感にも似た感覚のなさだったのに、急に体が重く感じる。体の中に、血の代わりに鉛でも流し込まれたかのようだ。まぶたを開けるのさえ、つらい。
 それでも平次は必死に目をあけた。新一の姿を求めて。
「平次様!」
 やっと開いた平次の視界に入ってきたのは、けれど愛しい新一ではなかった。
 執事が心配そうな顔で覗き込んでいた。
 軽い既視感。そうだ。嵐の海でおぼれたときも、こんなふうに家臣達に心配そうな顔で覗き込まれていた。あのときに似ている。この体のだるさも、頭の痛さも。
 だが違うのは、ここは海の上ではない。
 視界はまだはっきりしないが、身体に感じるのは、上質のやわらかなベッドの感触だ。馴染んだその感触から、ここが自室の、自分のベッドの上であることを知る。
「……しんいち。新一は……」
 自分の状況よりも、それが気になった。重い首を巡らせて、新一の姿を探す。
「──────」
 答えに困ったように、執事が眉をひそめ、平次から目をそらした。その姿に、不安を掻き立てられる。
「新一は……どないしたんや……」
 平次はまだだるい身体を起こそうとした。
 けれど執事や召使達に、身体を押さえつけられる。
「動かれるのはまだ無理です。安静になさらないと」
「新一は何処や……」
 うわごとのように、平次はそう繰り返す。ベッドから起き上がって、新一を探そうとする。押さえつける執事達を押しのけようとする。
 今の平次を止めるには真実を告げるしかないと、執事はためらっていた口を開いた。
「新一様は、いらっしゃいません……」
 その言葉に、平次の動きが止まる。
「行方不明のまま、見つかりませんでした……」
 まるで螺子巻き人形のねじが切れたかのように、平次は急に動こうとする力を無くして、ぱたりとベッドに身体を横たえた。
 新一がいない。
 その事実だけが平次に重くのしかかる。
「なんでや……」
「何があったのかは、私達のほうが知りたいのです。一体何があったのですか、平次様……」
 執事の語るところによると、平次は、ひと月ものあいだ行方不明だったのだという。
 あの日、新一とともに出かけて、夜になっても帰らずに、心配して探しにいった召使達によって、浜辺に取り残された馬だけが見つけられた。ふたりの姿は何処にもなくなにかあったのかと捜索隊が出された。けれど必死の捜索にもかかわらず、ふたりの行方はもちろん何の手がかりさえ掴めずにいた。
 当初は誘拐かとも思われたが、なんの連絡もなく、海に落ちたのではないかという見方がいちばん強くなった。城のまわりの海は、穏やかなところもあるが、潮の渦巻く危険なところもある。その近くを歩いていて足でも滑らせたのなら、死体があがることもない。
 彼らがいなくなってから一ヶ月が経ち、誰もがその生存をあきらめかけていた。
 そんなとき、平次は浜辺に倒れているのを発見されたのだという。
 発見された平次は城に運ばれ手当てを受けた。手当てといっても、特に怪我もなく、ただ意識がないだけだった。
 それから4日間、意識不明のまま眠りつづけ、5日目の今日、平次は目を覚ましたのだという。
「平次様が浜辺で発見されたとき、おそばに新一様はいらっしゃいませんでした。周辺をくまなく探しましたし、それからも捜索は続けているのですが……」
 おそらくはもう無理だろうと、執事が言外に含ませる。
 その言葉に、平次は深く目を伏せる。
 そんな捜索などでは、新一は見つからないだろう。彼は、人魚なのだから。いや……人魚に、戻れているのなら。
 彼が、人魚に戻って、海に還っているというのなら。それなら、どれほどいいだろう。
 平次の命と引き換えに助かるはずだった、新一の命。それなのに、平次は今もこうして生きている。
 それは──。
「平次様……」
 気遣うような声がかけられる。
「大丈夫や。……しばらく、ひとりにしてくれへんか……?」
 平次の気持ちを汲んで、無言のまま、傍らにいた執事も医師達も、皆、部屋を出てゆく。部屋には、平次一人になる。
「新一……」
 窓からは、青い海が見える。彼の、瞳のような蒼。
 人間などに恋をしなければ、あのとき平次を助けたりしなければ、新一はこの海でずっとしあわせに暮らせただろうに。海の底の楽園のような街で、志保や他の人魚達に囲まれて、ずっと、しあわせに。
 それなのに。それなのに。
「しんいち……っ!」
 涙があふれた。切り裂かれるように、胸が苦しい。
 嗚咽は、おそらく部屋の外にももれているだろう。それでもかまわず、平次は彼の名前を呼びながら泣き続けた。
 この海原の何処にも、平次の愛した人魚はいない。この命と引き換えにしても、彼を助けたかったのに。どうして、助けられなかったんだろう。
(あいしてる、平次)
 あれが夢なのか現実なのかわからない。それでも、おぼえている新一の最後の笑顔は、平次の胸を締め付ける。
 涙が枯れ果てるまで、平次は泣き続けた。



 すでに太陽は水平線の下に消え、淡い朱色だけが、空の端を染めている。宵の明星はその一番星としてすでに明るく輝いていた。夕闇がゆっくりと近づいている。
 平次は薄暗い浜辺に馬を走らせていた。あいた時間ができると海辺に行くのが平次の習慣になっていた。新一と出逢った、あの浜辺に。
 あれから、すでに季節は変わろうとしているが、それでも海は何も変わらない。新一と出逢った、あのときのままだ。
 彼に最初に出逢ったのは、嵐の海の中でだった。溺れている自分を、助けてくれた。その美しい姿に、ひとめで心を奪われた。二度目に出逢ったのが、この浜辺だ。ここで、明るくなってゆく空の下、岩場の上に座っていた。
 新一と別れたのもこの場所だ。
 平次は馬から降りて、岩場まで行く。残光もやがて消え、闇に包まれようとする世界で、岩に打ち付ける波の音だけが大きく響く。
 まるで……夢でも見ていたのではないかと疑いたくなるほどだ。新一とともに過ごしたあの短い日々は、幻だったのではないかと。
 だが、何ひとつ幻でも夢でもない証拠に、この胸には、今も彼への想いがあふれている。こんなにも胸を締め付けて、せつなくさせる。
 新一はいなくなってしまったが、それでも城の新一の部屋はそのままにしてある。いつ、彼が帰ってきてもいいように。──それが、叶うのなら。
「……新一……」
 闇に包まれる海を見つめたまま、平次は呟いた。
 そのとき。
 ばしゃんと、水音がした。
 平次は驚いて顔を上げ、海を見た。魚の立てる水音とは明らかに違う。目を凝らして暗い海を見つめれば、海面に人影が見える。誰かが海からあがってくる。
(…………!!)
 もしかしたらという気持ちで、平次は見つめた。影はゆっくりと海面を泳ぎながら近づいてくる。
 そこにいたのは……。
「おまえ……」
「悪かったわね、新一じゃなくて」
 紅い尾ひれを持つ人魚が、海から顔を出していた。
 それが新一ではないことに、平次は落胆を隠せない。
 けれど、志保なら知っているはずだった。新一がどうなったのかを。
「おい、新一は……新一はどうなったんや……!」
 海に飛び込まんばかりの勢いで、平次は岩場の淵ぎりぎりまで詰め寄ると、志保に食いかかるように尋ねた。
 それを、志保は目を細めて冷たく見つめる。
「あなた、莫迦じゃない?」
 志保の冷たい声が投げつけられる。
「あなたに渡したのは、仮死状態になる薬だったのよ。あなたが倒れたあと、新一がずっと泣いてね。あなたを死なせないって。だからあなたが飲んだ薬が抜けるまで待って、あなたを海辺に連れて行ったの」
 言いながら、そのことを思い出して苛立ったように、志保の尾ひれが揺らされる。彼女の感情を表して、海面がさざなみだつ。
「なんで新一の目の前で薬を飲んだりするのよ。自分が『材料』になるつもりだったら、新一の見えないところでそっと死ねばよかったじゃない。あなたに目の前で倒れられて、あなたの命と引き換えに自分が助かるって知って、それを新一が受け入れるはずないじゃない」
 志保の言葉は、平次に刺さる。すこし考えれば分かることだった。それなのに、あのときは新一を助けたいという一心で、他のことが考えられなくなっていた。
「なんも言い返せんわ……」
 平次は深くうなだれる。あのとき、平次がもっと考えていれば新一を助けられたかもしれないと思うと、後悔ばかりがつのる。
 けれどそんな彼の態度は、彼女をさらに苛立たせたようだった。
 苛立ちをぶつけるように、志保はその尾ひれをおおきく振って海面を叩いて、平次に向かって大量の水を跳ね上げる。頭から水をかぶって、平次はびしょぬれになる。
「うわっ! なにすんねん!」

「まったく! こんな莫迦に大切な新一をやるなんて、腹立たしいわ!」

「……え……」
 志保の言葉に、平次は目を見張る。
 彼女は今、なんと言った?

    ……ぱしゃん

 海から、もういちど水音がする。志保が立てた音ではない。もっと遠くから。
 平次は目をこらす。海から、またひとがあがってくる。
 そのシルエットには見覚えがあった。忘れるはずもない。
 それは……。


「……しんいち……」


 まるで夢でも見ているように、平次は呆然とそのひとの名を呟いた。
 いや、これは夢なのかもしれない。だって。だって。彼が、愛しい彼が、そこにいるなんて。
 海からあがったばかりの、濡れた姿のまま、新一が岩場にあがる。その髪から、落ちた水滴が、岩にあたってちいさな音を立てる。
 暗い闇の中で、それでもその蒼い瞳の美しさは何も変わらない。それが平次を見つめていた。
「……完全な人間に、なれたわけじゃねえんだけど」
 澄んだ、きれいな声が、響く。
 それが新一のくちびるからこぼれたものだと気付くのに、数秒を要した。そういえば、彼の声を聞くのは、これがはじめてだ。
「あなたが寝てるあいだにね、死なない程度に血とか細胞とか取らせてもらったわ」
 横から志保が口をはさむ。
「それで、とりあえず薬の改良版ができたのよ。足はあるけど、人魚の遺伝子に近いわ。これからまたどうなるか分からないけど、前よりはましなはずよ。死の危険もなくなったしね」
 けれど志保の言葉など、ろくに平次の耳には入っていなかった。
 意識はすべて、目の前の恋人に向けられている。
 それが夢でも幻でもないことを確かめるように、おそるおそる平次の手が新一の頬に伸ばされる。
 なめらかな感触は、平次が知っているものだ。伝わるあたたかさがそれが幻などではないことを伝える。夢でも幻でもなく、新一は、たしかにそこにいるのだ。たしかにここに。
 頬を包む手の上に、新一は自分の手を重ねた。
「俺、行くとこも帰るとこもないんだけど、また拾ってくんねえ?」
 泣きたくなるような熱い塊が、のどからせりあがってくる。いや、きっと、泣きたいのだ。しあわせで、しあわせで。
 平次は彼を引き寄せて、抱きしめた。細い身体を、壊れそうなくらいに。
「アホ。おまえが帰るとこは、俺んとこやろ?」
「アホとかいうな。おまえだって死のうとしたバカのくせに」
 しがみつきながら返される言葉に、平次はちいさく笑う。
「想像してたのよりむっちゃ綺麗な声で、想像してたのの数倍口が悪いわ」
「うるせー」
 拗ねるように言い返しながらも、ぎゅと、平次の服を掴む力が強くなる。
「……幻滅したか?」
「惚れなおしたわ」
 海からふたりの様子を呆れたように眺めていた志保は、するりとまるでイルカのように音を立てずに海にもぐった。
 それから、しばらく沖に進んだところでまた海面に顔を出す。振り返れば、まだしかっりと抱き合っている影が見えた。
「バカ王子!」
 海から、志保は叫ぶ。
 その声に驚いて、ひとつだった影がわずかに離れる。
「今度また新一を泣かせたりしたら、今度は本当に一瞬で死ぬ薬飲ませるわよ!」
 その言葉にわずかに目を丸くして、それから平次は新一の肩を引き寄せて、海にいる人魚に向かって叫び返した。自分と同じように、新一を誰よりも誰よりも大切に思っている、人魚に。
「もう絶対泣かせへんわ! せやから安心してや!」
 志保はちいさく肩をすくめると、わざと大きな音を立てて海に潜っていった。
 その影を見送って、平次はもういちど、腕の中にいる新一に視線を戻す。なくしたと思っていた、大切な大切なひと。
「もう離さへんわ」
 もういちど、腕の中に閉じ込めた。もう二度と、離さないように。なくさないように。
 新一も、腕を伸ばして、平次の背中にしがみつく。
 人魚は海を失くして。それでも、代わりに足を得たから。大切なひとと歩いていく足を得たから。
 愛しい人と、ずっと、一緒に。


 END.