真珠


 米花センタービル最上階、展望レストランの窓際の特等席からは、地上の星のように美しい灯りのちりばめられた夜景を見下ろすことが出来た。
 その場所で志保が新一から渡されたのは、手のひらに乗るほどのちいさなプレゼントで、綺麗に包装されたリボンと包み紙をとると、中から現われたのは、予想どおり独特な手触りをしたちいさな濃青の箱だった。
 震えそうになる指で、志保がそっとその蓋を開けると、中にはプラチナのリングに真珠が一粒ついた、シンプルだけれど繊細なデザインの指輪がおさまっていた。
「……普通は、給料三ヶ月分のダイヤだってきくけど」
 志保の口から最初に出てきたのは、そんな可愛くない台詞だった。この場面で言うには、あまりにふさわしくない。言ってしまってから、彼女自身も後悔する。
 ああ。本当は、こんなことが言いたいわけではないのだ。言わなければならないことも、もっと違うことのはずなのだ。
 けれど、優秀なはずの志保の頭は、なにひとつ正しい言葉を思いつかせてくれない。
 しあわせすぎて、まるで夢を見ているようで、どうすればいいのか分からないのだ。自分自身のことだというのに、もどかしさに身を捩りたくなる。
 けれど新一は、そんな志保の胸のうちまで見透かすように、優しく笑う。
「まあな。婚約指輪だって言ったら店員にもダイヤをすすめられたし、おまえ赤が好きだから、ルビーとかガーネットでもいいかなと思ったんだけど。……俺達には、真珠が、いちばん合う気がしたから」
 何がどう合うのか分からなくて、志保は首を傾げる。ふたりのあいだに、特に真珠にまつわるような思い出などはないはずだ。
「真珠って、どうやってできるか知ってるか?」
「貝の内部に入った異物に、貝の分泌物がコーティングされていってできるのよね」
 新一の質問に、志保は素直に答える。
 貝の中に異物が混入したとき、貝は分泌物を出してそれをくるんでゆく。異物が核となり、分泌物が真珠層となり、やがては真珠ができあがるのだ。だから養殖では、わざと貝の中に真珠の核となる異物を入れる。
「ああ。つまり、真珠のもとは、貝を傷つけるものだったんだ。異物が入って傷つけられて、痛みから出された分泌物が、やがて真珠に変わる……。貝の痛みと傷が、この真珠を生んだんだ。痛みと傷が真珠に変わった、といってもいいかな」
 新一は、志保の手にのせられたままだった箱を手にとった。指輪を取り出して、彼女の前にかざす。
「俺達みたいだろ?」
 乳白色の綺麗な球形は、光を受けてかすかに虹色に輝いて、まるでオーロラのようだ。
「俺達の出逢いは、決していいものじゃなかった。お互いの存在が、お互いを傷つけたこともあった」
 その言葉に、かすかに志保の胸が痛む。
 そう。よい出逢いではなかった。お互いの存在のために、大切なものをなくしたこともある。志保は姉を、新一は自分の姿を。わきあがる哀しみと憎しみを抑えられず、傷つけ合った。
「でも、それだって、間違いでも無駄でもなかった。傷つけ合ったこともあるけど……それが、今のこの想いを生んだのだから」
 この胸にあった傷も痛みも、優しさやせつなさにくるまれて、いつしか愛に変わった。
 貝の中で夢を見る真珠のように。
 新一は志保の左手をとって、持っていた指輪を薬指に通した。寸分の違いもなく、それは彼女の薬指にぴたりとおさまる。冷たいはずのプラチナのリングが、志保には熱を持っているように感じられた。ほんのり桜色に染まった肌に、白銀のプラチナと乳白色の真珠がよく映える。
 そのまま指を絡めるように、新一は志保の手を握った。



「志保。愛してる。結婚しよう」



 なにひとつ正しい言葉なんて浮かんでこなくて、代わりに涙があふれた。頬の上を、水晶のように輝く雫がこぼれてゆく。
 言葉に出来ない想いをどうにか伝えたくて、志保は必死に新一の手を握り返した。
 新一は絡めたままの手をそっと引き寄せて、真珠の輝く指先にそっとくちづける。
「……やっぱり、いくら父さんと母さんの思い出の場所でも、レストランでプロポーズするんじゃなかったかな」
 困ったような新一の声に、志保は驚いて泣き濡れた顔を上げた。
 涙で揺れる瞳が、彼特有の、いたずらっこのような瞳にぶつかる。そんなところは、出逢ったコナンのころから変わらない。きっとこれからも変わらないだろう。
「今、おまえのこと抱きしめたくても、人目があるからできないだろ?」
 志保は一瞬驚いたような顔をして……それから、彼につられるように微笑んだ。
「抱きしめてよ。いいじゃない、まわりなんて」
 今度は新一が驚いた顔をする番だった。
「……ったく」
 新一は照れ隠しのように、すこし乱暴に椅子から立ち上がった。テーブルの脇に立ち、そのまま離さずにいた手を引き寄せて志保も立ち上がらせた。
「やっぱりおまえは、最高の女だよ」
 しなやかな腕が背中に回されて、志保を抱き寄せる。同時に顔が傾けられて、そっとくちびるが重なった。
 レストランの一角での突然の光景に、他の客達のざわめきが一瞬にしてしんと静まる。まるで絵画のように、窓の外の夜景を背景に、抱き合ってくちびるを重ねるふたりの姿に、目を奪われる。
 何秒かの静けさののち、どこからともなく、拍手が上がった。それにつられるように、拍手の音はどんどん増えてゆき、たちまちレストラン中、拍手の音で埋め尽くされる。
「おめでとう」
「おめでとう」
「しあわせにね」
 近くの席にいた見知らぬ人達から、祝福の言葉をかけられる。
 やっとくちびるを離して、間近で見た新一の顔は、照れて赤くなっていた。
「またこのレストランで、新しいプロポーズ秘話ができちまうかな?」
「それも素敵じゃない」
 ふたりを祝福する拍手はまだ鳴りやまない。
 新一と志保は顔を見合わせてすこし笑ったあと、拍手に応えるように、並んで立ち、大勢の客達に向かって、優雅に礼をした。
 新一の右手と、志保の真珠の指輪を付けた左手は、しっかりと握り合ったまま。


 END.