ポロメリア <13>


 自分の部屋に備え付けられた大きな鏡台の前に座って、哀は何度も笑顔の練習をしていた。
 鏡の中の自分に向かって、微笑みかけてみる。くちびるの端を持ち上げ、目をすこし細め、笑いの形を造ろうとする。けれど、何度やっても失敗ばかりだった。鏡の中に映る自分の顔は、笑顔などとは程遠い。醜く歪んだ顔をしていた。
 こんなでは駄目なのに。もっと、なんでもないことのような顔をして、なんにもなかったような顔をして、笑わなくてはいけないのに。

 コナンが帰ってきたときに、笑顔で迎えられるように。

 今日、コナンは帰ってくる。
 短い故郷への滞在を終えて、なくしていた記憶を取り戻して。
 哀の予想どおり、彼は日本へ行っていたらしい。出て行った次の日に、優作のもとへ電話がきた。すぐに帰るから、心配するなと。
 電話をしてきた彼は、すべてを思い出していた。『工藤新一』の記憶を取り戻していた。……いや、彼が記憶を取り戻すことなど、彼が日本へ向かった時点でわかっていた。
 優作と有希子は、空港まで彼を迎えに行った。コナンは迎えなどいいと言ったのだが、ふたりは迎えに行った。10年待ちつづけた『本当の息子』の帰りを待ちきれなかったのだろう。
 哀も一緒に迎えに行くことを誘われたが断った。
 そして、こんなところでひとりで笑顔の練習などしている。莫迦なものだとちいさく笑う。
 やがてここへ帰ってくるのは、『江戸川コナン』ではない。工藤夫妻や快斗が待ち望んでいた『工藤新一』だ。10年前に、服部平次が死んだとき、ともにいなくなってしまった彼が帰ってくる。
 優作と有希子は、哀のパスポートをこっそり隠しているようだった。それはひとりで哀がどこかへ去ってしまうことを恐れてのことだった。コナンがすべてを思い出した今、自分がここにいる意味はないと、哀が姿を消してしまうのではないかと心配してのことだった。
 哀は、クスリと笑う。
 たしかに10年前の自分だったなら、身近な荷物だけ持って、あるいは身ひとつで、何処へなりと去っていただろう。コナンがすべてを思いだした今、自分がここにいる意味はないと、皆の前から姿を消していただろう。
 10年前の自分なら。
 けれど、今の哀は違う。あれから10年経って、変わってしまっていた。
 今の哀は弱くて、すべてを捨てて、ひとりで去るなんてことはできない。家族のあたたかさだとか、日常のなにげないしあわせが、もうこの身体に染み付いて、きっとひとりには耐えられない。
『工藤新一』に戻ったコナンの前から、消えられない。
 せめて、せめて家族としてでいいから傍にいたいと、そう願ってしまう。
 だから、ちゃんと笑ってコナンを──『工藤新一』を迎えようと思うのだ。それが、自分が望んでいた『江戸川コナン』ではなかったとしても。10年のときを共に過ごし、淡い恋に落ちていた『江戸川コナン』ではなかったとしても。
 帰ってきたコナンを、笑顔でむかえてあげようと思うのだ。そしてこれからは家族として、彼と共に生きていければと思う。それしかもう、哀にできることはないのだから。
 窓の外から、車が敷地内に入ってくる音が聞こえた。
 優作と有希子、そしてコナン……『新一』が帰ってきたのだろう。
 玄関まで出迎えに行こうと思っていたのに、哀の身体は鏡台の前から動けなかった。まるで椅子に縛り付けられたか、根でも生えて椅子とつながってしまったかのように、どうしてもそこから動けなかった。
 階下で人が入ってくる気配とざわめきがしている。久々に聞く、有希子の弾んだ声も聞こえる。きっとこぼれんばかりの笑顔をしているのだろう。見なくても、容易に想像がついた。
 そう。これはすべて、よいことなのだ。間違いは正され、彼は正しい記憶を取り戻した。……よいこと、なのだ。
 だから、彼を笑顔で迎えてあげなければ。これからは家族として、共に暮らすためにも。
 やがて、階段をのぼってくる足音が聞こえた。10年一緒に暮らしていて、もうその足音を聞き分けられるほどになっている。コナンの、足音。
 部屋の扉が軽くノックされる。
「哀。入るぞ」
 コナンが、まだ『哀』と呼んでくれたことが不思議な感じだった。てっきり、すべてを思いだした彼は、昔のように『灰原』と呼ぶかと思っていたのだ。
 静かに扉があけられ、コナンが部屋に入ってくる。それを背中の気配で感じる。
「ただいま、哀」
「……おかえりなさい。『工藤君』」
 答えながら、哀は振り向けなかった。コナンを見られなかった。
 笑おうと思うのに、うまく笑えない。無理に動かした顔の筋肉は、無惨なほどに歪んでいるだろう。あんなに何度も笑う練習をしたのに、なんの役にも立たない。
「工藤、か。おまえにそう呼ばれるのもずいぶんなつかしいな」
 コナンはなつかしそうに、ちいさく笑う。その口調はいつもと同じで、なんら変わらない。
 それでも、そこにいるのは『コナン』ではないのだ。彼は、今はもう、『工藤新一』の記憶を取り戻しているのだ。
「日本で……服部の墓参り行ってきたんだ。快斗と」
「そう……」
 語られる言葉に、哀は淡々と返事を返す。声が震えたりかすれたりしないよう、精一杯の努力をしながら。
 快斗と一緒に平次の墓参りに行ったということは、本当に、彼はすべてを思いだしたのだろう。
 自分が『工藤新一』だったことも。薬で体が幼児化したことも。哀がその開発者であることも。解毒剤を開発できず『江戸川コナン』として生きることになったことも。平次の死も。
 ……平次への、想いも。
 それなら、10年前、平次と出逢って、新一が蘭への想いがただの親愛だったと気付いたように、今のコナンもきっと気付いただろう。哀への想いが恋愛感情ではなかったと。
 別に自分達は付き合っていたわけでもない。将来の約束をしていたわけでもない。ただ一度身体を重ねたなんてこと、つなぎ止める理由にはならない。
 コナンは、哀から離れてゆくだろう。10年一緒に生きてきた家族としてはこれからも一緒にいられるかもしれないが、哀が望んだように、彼自身を得ることは、もう叶わない。
 不意に、泣きたくなる。目頭が熱い。そんなこと、分かっていたのに。ちゃんと納得して、覚悟も決めていたのに。
 それでも、コナンの前でみっともなくとりすがったりしないよう、必死で感情を押し殺して、普通の声を出そうとする。ゆがむ顔はとめようがなく、振り向くことはできなかったけれど。
「全部思いだしたのね。よかったわね、工藤君」
「ああ……長いこと、とうさんにもかあさんにも、おまえにも、悪いことしたな。ごめんな。俺のせいで、俺の『間違い』にずっとつきあわせちまって。大変だったろ? つらかっただろ? でももう、嘘なんてつかなくていいから」
 コナンのすまなそうな声に、哀の胸は締め付けられる。
 違う。哀にとって、悪いことなどなにひとつなかった。コナンが記憶をなくしていたこの10年は、哀にとって夢見たままのしあわせな時間だった。この時間が永遠に続けばとさえ思っていた。
「……私には、謝るようなことないわ。それよりも、これから優作さんと有希子さんに今までのぶんも、いっぱい親孝行しないとね」
「ああ。もちろんそのつもりだ」
「有希子さんなんか、ものすごく喜んでいるでしょう。あなたは知らないでしょうけど、有希子さんね、あなたの前以外では『新ちゃん』て呼ぶのやめなかったのよ」
「……哀」
 すこし強められた口調が、哀を呼ぶ。たわいない話を続けようとする哀をさえぎる。
「哀。こっち向けよ」
 そう言われても、哀は振り向けなかった。泣きそうにゆがんだ顔を見せたくはなかったし、振り向いてコナンの顔を見たら、彼に取りすがって泣いてしまいそうだった。そんなことはしたくないのだ。彼が『工藤新一』に戻ったのなら、それを喜んで、ちゃんと迎えてあげたいのだ。
「……工藤君」
「哀。俺は本当に『工藤新一』のままか?」
 びくりと、哀の肩がこわばった。
「あれから10年経ってる。おまえは10年前のままか? 違うだろ。……俺だって同じように10年経ってるんだ。10年前のままじゃない」
 哀の心が震える。10年前と同じでないなら……どう変わったというのだろう。
 この10年、彼は『江戸川コナン』だった。ずっと一緒にいた。淡い恋心をいだいていた。それが、今の彼にもなんらか残っていると、いうのだろうか。それは……。
「おまえの想いにちゃんと答えるために、俺は、俺が誰なのか、ちゃんと知らなくちゃいけないと思った。だから、日本へ行ったんだ。ちゃんと思い出すために。全部思い出して、おまえの想いをちゃんと受けとめるために」
 哀は自分の身体を抱きしめるように腕を回した。
 コナンは、何を言っているのだろう。それではまるで……『工藤新一』の記憶を取り戻した彼は、それでもまだ哀が好きだというみたいだ。そんなことが……そんなことが、あるのだろうか?
 10年前、服部平次と出逢って、新一は蘭への想いが親愛でしかないと気づいた。
 でも今、コナンは、服部平次への想いを思い出してなお、哀への想いを恋心だと言うのだろうか。
「呼べよ、哀。俺は、誰だ?」
 はじめ、『江戸川コナン』は『工藤新一』だった。それはただの仮の名前で、仮の存在だった。
 けれど、服部平次がいなくなったあの日、『工藤新一』はいなくなり、『江戸川コナン』が生まれた。それから、ずっと『江戸川コナン』として生きてきた。
 今のコナンには、ちゃんと『工藤新一』だったころの記憶がある。けれど、『江戸川コナン』として生きた10年の記憶も感情も、ちゃんとあるのだ。『工藤新一』だけで、成り立っているわけではない。
 ここにいるのは……。
「おまえと、10年一緒に生きてきた俺は、誰だ?」
 泣き顔も隠さずに、哀は振り向いた。

「『コナン』……!!」

 叫んだ。彼の名前を。愛しい彼の名を。
「『ただいま』、哀」
 腕が伸ばされる。
 哀はその腕の中に、ためらわずに駆け込んだ。しっかりと、コナンに抱きしめられる。
 それは夢ではない。嘘の上に成り立った間違いでもない。
「コナン。コナン……」
 繰り返し、彼の名前を呼ぶ。彼の、名前を。
 そんな哀をコナンは強く抱きしめる。
「哀。俺は、ここにいるよ」
 あの日から、ずっと夢を見ていた。ずっと夢のなかで生きてきた。コナンも。哀も。
 にせものの、しあわせな夢のなかで生きていた。
 そしていつしか夢は覚めて。
 それでも。
「なくしていた記憶ぜんぶ取り戻して、俺が誰なのかちゃんと知って。だからやっと俺はちゃんとおまえに答えられる」
 コナンはほんのすこし抱きしめる力をゆるめて、哀の身体をすこし離した。ちゃんと顔が見えるように。真っ直ぐに泣き濡れた哀の顔を見つめる。
 哀のすぐ目の前にあるコナンの顔は、まるで見たこともない男のような気がした。哀の知ってる『工藤新一』でも、『江戸川コナン』でもない。それでも、誰よりも愛しいひとだ。
 コナンの手が、そっと涙をぬぐうように頬に添えられる。額と額を、そっと合わせる。くちびるに、吐息が触れる。
 夢ではなく、確かな感触で。

「哀。俺は、おまえが──」

 そして。
 夢より確かな現実がはじまる。
 覚めない夢のように、しあわせな現実が。
 今、ここから。ふたりで。


 END.