SATIE
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バサリと、闇夜に映える白いマントをひるがえして、怪盗は、ちいさな探偵の前に降り立った。
「久しぶりだな」
その言葉が、『誰』に向けられたものなのか、コナンにはわからない。『自分』に向けられたものなのか、それとも、もういない『クドウシンイチ』に向けられたものなのか。
コナンは昔、『コナン』ではなかった。
昔、といってもほんのすこし前、彼は『クドウシンイチ』というひとだった。
コナンは仮の姿で、仮の名前で、それはただの演技だったはずなのに。いつのまにか、そうではなくなっていた。
「薬の副作用よ」
友人であり、仲間でもある少女は、名前そのままに哀しげな顔でそう告げた。
「薬が脳に影響して、最初は演技だったものが、いつのまにかひとつの人格となった。そしておそらくは、肉体の方が、今の状態に合った『江戸川コナン』という人格を選んでしまったのね」
つまりは、『江戸川コナン』が選ばれて、『工藤新一』が選ばれなかった、ということだ。選んだのは他でもない、彼自身。それが無意識にしろ、意識的にしろ、結局はそういうことだ。
「それなら『彼』は……『クドウシンイチ』は、どうなるんだ?」
コナンは他人事のように、彼女に尋ねた。実際、コナンにとってクドウシンイチのことは他人事のように遠かった。
「それは、あなたがいちばん分かっているんじゃない?」
皮肉げに笑った彼女のその笑顔は、痛々しかった。
そう、コナンにも分かっていた。彼はコナンの中から消えていこうとしている。工藤新一は江戸川コナンであり、江戸川コナンが工藤新一であったものが、こうして遠く離れてしまっていることがなによりの証拠だ。
ここにいるのは江戸川コナンであり、この肉体は江戸川コナンのもの。彼は、何処にもいない。
かつては一緒だった彼の記憶も、だんだんとコナンの中から薄れてゆく。この体がかつて17年間生きてきた、『クドウシンイチ』としての記憶が、薄れてゆく。それは記憶がなくなるという意味ではなくて、変わらずに覚えてはいるが、それはすべて、他人の伝記を覚えているかのように、コナンにとってはひどく現実味のない遠いものになっていた。
そして代わりに『江戸川コナン』という人物が成り立ってゆく。
それがいいことなのか、悪いことなのか、判断がつかない。
ここにいるのは彼ではないから、もとの体に戻りたいなんて思うこともないし、ちいさいことをもどかしく思うこともない。それはある意味、しあわせなことなのかもしれない。
「あなたが選んだことを……私はとやかく言う気はないわ」
少女はコナンから目を逸らして、あきらめたように、そう言った。
彼女が、新一のことを好きだったことは、コナンも知っていた。でも、もう彼はいなくて、コナンは彼ではなくて。彼女もそれを分かっているから、こんなにつらそうなのだろう。
「だけど、……あなたは、あのひとのことは、忘れてしまったの?」
誰のことを言っているのか分からなくて、コナンは首を傾げる。
お世話になっている探偵事務所の一人娘は、もう幼なじみではなくても、コナンにとっても大切な姉のような存在として、ちゃんと覚えている。西の名探偵のことも、ちゃんと覚えている。他にも、『クドウシンイチ』にかかわった人間達を、たくさん思い浮かべてみる。けれど、誰を忘れたと彼女が言っているのか、分からなかった。
「あのひとって……誰だ?」
「白い怪盗さんのことよ」
言われて、何度か対峙したことのある、キザな泥棒の姿が浮かんだ。
「忘れてなんか、ないぜ。あんな怪盗、一回見たら、忘れねーよ」
その答えに、彼女はちいさく首を振る。その赤茶の髪が寂しげに揺れる。
「忘れてしまったのね。きっと、工藤君が、持っていったのね。それだけはたったひとつ、手放さずに」
彼女の言葉が理解できずに、必死であの怪盗についてもっと思い出そうとするけれど、それ以上怪盗について思い出すことはなかった。
推測するに、『クドウシンイチ』とこの怪盗は、かつて何らかの深いかかわりがあったようだが、それをコナンは思い出せなかった。何故かそこだけ穴があいたように、記憶から消えていた。
コナンにとって、この怪盗は、自分がかつて『クドウシンイチ』だったことを知る、何度か対峙したことのある泥棒、というだけでしかなかった。
「あのちいさな科学者に話は聞いてたけど、本当みたいだな」
検分するようにコナンを見つめていた怪盗は、そうぽつりと呟いた。おそらくは、『クドウシンイチ』という人格が消えたことを、彼女に聞いたのだろう。
コナンは何をどう答えればいいのか何も分からなくて、ただその場に立ちすくんでいた。
怪盗はゆっくりと歩み寄って、すぐ傍まで来ると、片膝をついてコナンと同じ目線の高さになる。
まっすぐに、その瞳をのぞき込むように見つめてくる。
「お前は今、しあわせか?」
唐突な質問。それでも、見つめる瞳の真摯さに、コナンはすこし考えたあと、ゆっくりとうなずいた。
工藤新一でないコナンは、もとの体に戻りたいと苦しむこともない。かつてと今のギャップに苦しむこともない。もとからそうであったかのように、今の生活と人生に満足している。だから、多分、しあわせなのだろう、と思う。
「そうか」
寂しいためいきのように、怪盗はそう言った。
そして、そのちいさなてのひらを、白い手袋に包まれた手でそっとにぎった。
「もし……何かひとつだけ、たったひとつだけ選べって言われたら、お前なら、何を選ぶ?」
「ひとつだけ?」
「そう、ひとつだけだ。他のすべてをなくしても、それだけはなくしたくないと想う、たったひとつ」
考える。何を選ぶか。たったひとつ、だけ。他のすべてをなくしてもと思う、たったひとつ。
(もし、たったひとつだけ選べって言われたら……新一は、何を選ぶ?)
そういえば、以前にも誰かに、同じような質問をされたような気がした。その質問をしたのは誰だったろう。そのとき『クドウシンイチ』だった自分は、なんと答えただろう。あのときの答えは……。
(それなら、俺は────を選ぶよ)
「それなら、僕は……」
言いかけたくちびるに、そっと怪盗の人差し指が触れて、言葉をとめる。
「やっぱりそれは、秘密にしとけ。特に俺にはな。……お前の口から出るのが、俺の名前以外だったら、お前のこと、殺しちまいそうだから」
冗談のように笑って、冗談のように軽く言って。
そのくせ、瞳だけ、痛いくらい切なく見つめてくる。
コナンはもう『クドウシンイチ』ではなくて、彼はコナンではなくて。そんなこと、この怪盗にだって分かっているはずなのに。
(……ああ、そうか。だから、か)
怪盗の、手袋に包まれた手がそっと頬を包んで。
そのくちびるが、そっと、コナンのくちびるに触れた。
「さよならだ、名探偵。……それでも俺は、愛してるよ」
それが誰への言葉かなんて、誰へのキスかなんて、そんなの分かっていた。
吹いた風にバサリとマントがひるがえって、あっと思った次の瞬間には、もう怪盗はいなくなっていた。
「どうしたの?」
家に帰った途端、おそらくは自分を待っていたのであろう赤茶の髪の少女に尋ねられた。
「何が?」
なんのことか分からずに聞き返す。
「泣いているわ」
言われた意味が分からずに、首を傾げる。
彼女は困ったように溜息をつくと、そっとコナンの頬に触れた。
そうして、やっと、自分が泣いていたことに気付いた。
「あれ? 変だな。僕、何で泣いてるんだろ?」
驚いて、袖で何度も何度も涙を拭う。強くこすりすぎて、頬やまぶたが赤くなっても、涙が止まることはなかった。
これは誰の流した涙なのだろう。江戸川コナンなのか、工藤新一なのか。
「……莫迦ね」
哀はつぶやくと、そっとコナンを抱きしめた。
コナンは彼女のちいさな肩にすがりついて、声を殺して泣いた。
(たったひとつだけ選べって言われたら)
(俺の名前以外だったら、お前のこと、殺しちまいそうだから)
(それでも俺は、愛してるよ)
それなら、殺してくれればよかったのに。
それなら、いっそ殺してほしかったのに。
愛してるなんて言うくらいなら。
殺してくれれば、よかったのに。
殺して、ほしかったのに。
END