Sleep my dear


 新一をひとり残して蘭の墓を後にして、言葉もなく、志保と園子は駐車場への道を歩いていた。
 すると、志保の少し前を歩いていた園子が、急にくるりと振り返った。
「あなた……宮野さん、だっけ」
「ええ」
「ねえ、これから暇?」
「どうして?」
「これね、本当は蘭と飲もうかと思って持って来たんだけど、よかったら、あなた、付き合わない?」
 そういいながら、持っていたワインのボトルを示す。
 おそらくは、花の代わりに墓前に供えるつもりだったものだろう。
「いいの?」
「もちろん。女同士でじっくり語り合いましょうよ。ね?」
 園子の無邪気な笑顔に、志保も微笑み返す。
「ありがとう。じゃあ、付き合わせてもらうわ」



 現在園子がひとり暮らしをしているというマンションに招かれて、二人でワインを飲みながら、最初はたわいない話をしていた。そのうち、思い出話や共通の知り合いの話で盛り上がった。
 最初はワインだけだったのだが、いつのまにかカクテルだの日本酒だのがテーブルの上に並んでいた。
 そして、園子が酔っ払うにつれて、話題は蘭のことに移っていった。
「蘭はねえ〜、アタシの自慢の友達だったんだから!」
 ろれつの回らない口調で、園子は向かい側にいる志保に繰り返す。完全に酔っ払っていた。
 声自体もかなりの大音量になっているのだが、この高級マンションは防音が完璧で、隣の心配などしなくてもよかった。
「可愛くってえ、強くってえ、優しくってえ、で〜、すんごく友達思いでえ〜」
「ええ、知っているわ。私が蘭さんに会ったときも、すごく親切にしてもらったもの」
 志保のほうは、酒を手にしているも、ほとんど酔った様子も見せずにいつものままだ。
「そうでしょう〜あのこはあ〜誰にでも優しくて〜それでね〜〜」
 そして、酔っ払った園子は、また、さっきも言った蘭との思い出話を語り始めた。
 こうして酔ったときでもなければ、彼女のことを口に出すのはつらいのかもしれない。そして、酔っているからこそ、いつもは押さえている蘭への思いがあふれだしているのだろう。
 志保は嫌な顔一つせずに、園子の話を聞いてやる。
「で〜、そのときも蘭が助けてくれてえ〜〜、ね〜〜、蘭て、ほんとにいいこでしょ〜〜」
「ええ。わかるわ」
「ね〜、志保ちゃんも、そう思うでしょ〜? それなのに……」
 ふと、言葉の最後が弱い調子になる。それから一拍置いて。

「まあ〜〜ったく、新一君ってのは、頭いいくせに、ぜ〜〜んぜん女見る目ないんだから!」

 ダンッ、と、グラスを勢いよくテーブルに置きながら、園子は叫んだ。
 突然飛んだ話題に、志保は目を丸くする。
 ほんの少し志保のほうへ詰め寄りながら、他の誰が聞いているわけでもないのに、何故か声をひそめて園子が言う。
「新一君がさあ〜、蘭のこと振ったって、知ってる?」
「知っているわ」
 あっさりと、志保は答える。
 具体的に誰かから話を聞いたわけではなかった。けれど、同じ子供にされた仲間として、志保……哀はある意味誰よりコナンの傍にいた。だから、彼女は知っていた。
 新一……コナンが、誰を想っているか。誰を愛しているか。
 それは、蘭ではなかった。そして、自分でもなかった。
 だから、元に戻った後、たとえ蘭に想いを告げられても、新一は断るだろうと分かっていた。
 そして実際元に戻った後、わずかな態度の変化から、蘭は新一に告白し、振られたのだろうと察した。
 ────いや、新一に別の想い人がいることくらい、蘭にも分かっていただろう。ただ、それでも彼女は想いを告げた。それが、わずかな望みに賭けたのか、自分の気持ちに整理を付けるためだったのかは知らないけれど。
「さっきは新一君にあんなこと言ったけど、アタシ……本当は、まだ、新一君のこと、許せないんだ…………」
 さっきまでのべろべろになっていた様子が消えて、ふと、寂しげな声音になる。
 その姿を、志保は静かに見守る。
「……分かっているのよ、私だって。新一君が蘭を振ったの、アタシがどうこう言うような問題じゃないって。恋愛って、そんなもんじゃないって」
 何かをこらえるように、園子の肩が少し震える。
「どんなに想われたって、その人のこと、好きになってあげられないこともあるし、好きになっちゃ駄目な人、好きになっちゃうことだってあるわ。分かってるの。そんなの理屈じゃないって。だから、新一君が蘭のこと振ったのだって、誰が悪いわけでもないの。分かっているの。でも、でもね」
 園子の瞳が、泣きそうに歪むのが分かった。それでも、いつもの調子を保とうと、笑おうとしていた。
「蘭と新一君、とってもお似合いで、もううらやましくなるくらいお似合いで、私の理想そのままで…………だから蘭なら仕方ないって、ずっと、思っていたから」
 その言葉に園子の気持ちを察して、志保は驚いたまなざしを向けた。
「……園子さん、あなた」
 あなたも、工藤君のことが、好きだったの?
 そう続く言葉は飲み込んだ。
 志保の気遣いに、園子は小さく笑う。
「だから、蘭をふったことで新一君を責めたのは、蘭のためじゃなかった。自分のためだった。蘭ならって思っていたのに、彼が選んだのは他の人で……だから、そうしたら私の気持ちはどうなるんだって思ったの」
「…………そう」
 志保は、園子にかけるどんな言葉も持っていなかった。
 同じように新一に想いを寄せていたとしても、園子と志保とでは立場が違い過ぎる。だから、どんな言葉をかけてやればいいのか分からなかった。
 だから、志保はただ黙って園子を見つめる。そっと。見守るように。その告白の全てを受けとめるように。
「でもね、もう、忘れることはできなくても、立ち止まることはやめて、歩きだそうと思って」
 無理して明るい口調を作って、園子は笑ってみせる。
 それでも、無理をしていることが分かるから、何処かその笑顔は痛々しく感じる。
「だから、今日は、いつもより早く蘭の処に行ったの。いつも新一君が、私の前に来ていること知ってたから、早く行けば、もしかしたら、会えるんじゃないかと思って。本当はもっと早く行こうと思っていたんだけどね、いざ行こうとすると、なんか足がすくんじゃって、あんな時間になっちゃった」
 くすくす笑う声も、明るい笑顔も、今にも壊れそうに見える。泣き顔と、紙一重の、笑顔。
「でも、行ってよかった。新一君に会えて、少しだけど話ができてよかった」
 園子は、持っていたグラスをテーブルに戻すと、自分もテーブルの上に突っ伏した。重ねた腕の上に額を置いているから、もう表情は見えない。
「ねえ、私が新一君に言ったこと、間違ってなかったよね? 蘭ならきっと、新一君のしあわせ、望んでいるよね?」
 突っ伏したままだから、少し声がくぐもって聞こえる。その声が、少し震えてかすれている。
 まるで、懺悔のようだ、と志保はふと思った。
 いや、これは実際、園子の懺悔なのだろう。
 誰に対する、何に対する懺悔かなんて分からないけれど。
 答えを待つ園子に、志保は優しく答える。
「ええ、もちろん。だって、それが、あなたの大好きな蘭さんなんでしょう」
 志保の言葉に、突っ伏している園子の肩から、ふっと力が抜かれるのが分かった。
 それが真実でも、そうでなくても、誰かにそう答えてもらいたかったのだろう。
「……あのね、アタシ、今度結婚するの」
 ためいきをつくように、園子はその言葉を吐き出した。
 園子はこう見えても鈴木財閥のひとりだ。次女ということで家を継ぐことはなくても、結婚などということになれば、財政界にある程度影響する。だから、その手の業界ではその話はもう広く伝わっていた。
 志保は財政界の人間ではないが、研究のスポンサーが鈴木財閥となんらか関わりのある会社らしく、ある折にその話を耳にはさんでいた。
 それが、園子自身の望んだ結婚なのか、それとも政略結婚なのか、志保には分からなかったが。
「アタシ、しあわせになるわ」
 園子は、きっぱりと言い切った。突っ伏したままだからその表情は見えないけれど、言葉は迷いもなく強かった。
「しあわせになるの」
 まるで、自分の決心を確かめるように、自分に言い聞かせるように、園子は繰り返す。
「きっとよ。きっとしあわせになるんだから。蘭の分までしあわせになるなんて言わない。でも、せめて新一君よりもしあわせになってやるんだから!」
「…………そうね。しあわせになればいいわ。あの名探偵さんより、もっともっと」
「うん…………」
 ちいさな返事が聞こえて、顔を伏せたまま園子がちいさくうなずいたのが分かった。
 そのまましばらく言葉が途切れて、ふと気づくと、園子はテーブルに突っ伏したまま眠っていた。規則正しい寝息が聞こえる。
 志保は苦笑して、さっき園子が脱いだ上着を園子の肩にかけてやる。
 寝苦しかったのか、園子がうつ伏せていた顔を少し横へ向ける。けれど、まだ起きる気配はない。
 その寝顔は、子供のように無邪気で穏やかだ。
 志保は眠ってしまった園子の髪をそっと撫でてやる。ちいさな子供をあやすように、そっとそっと。
「しあわせになりなさい」
 志保は、母親のように優しい声音で語りかける。
「しあわせになれるわ、あなたなら、きっと」
 その言葉を繰り返す。何度も何度も。
「しあわせになりなさい」
 それは一体誰に向けられた言葉なのか。園子へか、自分へか、それとも彼へか。あるいはすべての人への言葉なのか。
 分からないまま、それでも志保は子守歌のように、その言葉を繰り返した。


 どんな夢を見ているのか、一筋、閉じられた園子の瞳から涙がこぼれた。


 END