Still for your love


 ここに、この場所に花を捧げるのは、もう何度目だろう。捧げても捧げても、花は枯れゆくばかり。時が過ぎゆくばかり。
 ────大切な人が、眠る場所。
「……蘭」
 新一はちいさくつぶやいて、持ってきた花を、墓の前に置いた。花がカサリと、乾いた音を立てる。
 花立てにはすでに色とりどりの花がさされていた。おそらくは、午前中のうちに来た、蘭の両親、小五郎と英理だろう。
 顔を合わせづらくて、いつのまにか、こうして時間差で来ることが暗黙の了解になってしまった。
 ……蘭が死んだのは、新一のせい、と言えなくもなかったから。


 苦労の末、哀が解毒剤を開発し、コナンと哀は元の体に戻れた。
 けれどそれからが、本当の、黒の組織との戦いだった。
 死んだはずの新一と志保が現われて、それを見逃すほど組織は甘くなかった。すぐに薬の効力を知り、追いかけてきた。
 今度は孤独な戦いではなかった。すでに事情を知っていた人達だけでなく、それから事情を知った他の皆も、警察だって、味方についてくれた。
 そして、組織を壊滅まで追い詰めていった。
 けれど組織が完全に壊滅するその寸前、組織の残党に、蘭を人質に取られた。
 組織はもうほぼ壊滅状態で、これからどう抵抗しても壊滅は免れないことを、向こうもわかっていた。だから、蘭を人質に取ったのは、逃げるためとか何か要求するためではなく、ただ、最後に一太刀あびせてやりたいという理由からだった。彼らは最初から、蘭を殺すつもりだったのだ。
 そして、蘭は、APTX4869を飲まされた。
 新一や志保には幼児化というように作用した薬だったが、蘭にはそう効かなかった。

 …………蘭は、体が半分溶けた状態の死体で見つかった。

 それから、組織は完全に壊滅したが、逝ってしまった命が戻ることはありえなかった。
 小五郎は、大声で泣き叫びながら、新一を口汚く罵って、何度も何度も殴った。
 お前のせいだと、お前がいなければ、蘭は死なずにすんだのに、と。
 新一は何も言い返せなかった。ただ、おとなしく殴られてやることしかできなかった。


 あれから、小五郎には会っていない。英理には何度か会ったが、やはり、この日……蘭の命日には顔を合わせることができなかった。
「……ごめんな」
 もういないひとの面影に向かって、ちいさくつぶやく。
 それは、何に対する謝罪なのか。
 新一にとって、蘭は大切なひとだった。幼なじみで、親友で、家族のようであった。
 自分がコナンとして過ごしていたあいだも、ずっと信じて待っていてくれた。
 新一にとって、蘭は、かけがえない大切な大切なひとだった。
 それは、間違えようのない真実。
 でも。
『新一……私、新一が好きだよ』
 コナンから新一に戻って、しばらくしたころ、蘭は、新一に告白してきた。
 蘭が自分をそういうふうに想ってくれていることは、知っていた。ずっと、お互い気持ちを抱えながら、なんとなく言いだすきっかけがないまま過ごしてきたようなものだった。
 ────昔は。
 そう、それがコナンになる前だったら、照れながら戸惑いながら、でも、喜びながら、蘭に手を差し伸べていただろう。
 コナンになる前だったら。
 あいつに出会う前だったら。
 でも、もう、出会ってしまったから、知ってしまったから。
『………………ごめん、俺』
 蘭は大切な人だから、そういう意味で好きではなくても、それ以外の意味では大好きな人だから、傷つけたくなんてなかったけれど、心を偽ることもできなかった。大切な人だから、なおさら。
 けれど、蘭は、新一がそれ以上何か言うより早く、言葉を紡いだ。
『知ってるよ。ただ、言ってみただけ』
 そう言って、微笑んだ。
 その微笑みは、儚げで、けれど決して侵すことのできない神聖さを持った、綺麗な微笑みだった。
 そして、それが、新一が蘭の姿を見た最後になってしまった。
 それからすぐに蘭は組織の奴らに捕まり……次に会ったときは、壊れた死体になってしまっていた。
 だから、今でも想うのだ。
 あのとき、好きだと言われたあのとき、嘘でも、気持ちに答えてやるべきだったのではないかと。
 新一の拒絶で、蘭はどれほど傷ついただろう。そして、傷つけたまま、死なせてしまった。そのことが、今もずっと新一をさいなむ。蘭を助けられなかったということよりも、深く深く新一の心を抉っていく────。


「……あら」
 聞き慣れた声がして、新一は物想いから我に返り、振り向いた。
 そこには灰原哀……今は宮野志保である女性がいた。彼女の手にも、花束があった。彼女も、墓まいりに来たのだろう。バツの悪そうな顔をして立っていた。
「ごめんなさい。あなたの後に来たつもりだったんだけど、早かったかしらね」
「いや……」
 小五郎や英理だけでなく、他の関係者達とも顔を合わせづらくて、皆、ここへは時間をずらしてくるようになっていた。
 志保は一瞬どうしようか迷ったようだが、ここでいったん帰って、後でまた来るのも変だと思ったのだろう。そのまま新一の隣まで進み出て、新一の置いた花の隣に自分の持ってきた花を置いた。
 しばらく黙祷を捧げてから、彼女は新一の方へと向き直った。
「工藤君、ひさしぶり。元気そうね。活躍は聞いているわ」
「ああ、灰原も……」
 医学界と探偵業と、分野は違えど、ふたりともそれぞれ名声を挙げて、マスコミに取り上げられることも多々あるから、会うことがなくても近況は大体知っていた。
「もう『灰原』じゃないわ。『宮野』よ。『工藤』君」
 新一の使った呼び名に耳をとめて、志保はそう言った。
「………………、でも、俺にとっては、『灰原』は『灰原』だ」
 どこか苦しそうに、新一が答える。
 その様子を見て、志保は少し寂しげにちいさく笑った。
「『宮野志保』は、あの薬の開発者だから、そんな名前、呼べない?」
 その言葉に、目に見えて分かるほど、新一の肩がこわ張った。
 そのとおりだった。
 志保自身が悪いわけじゃないと、ちゃんと分かっている。彼女はそれが毒薬だとは知らないまま、組織に命じられて薬を作っていただけだし、途中で組織を抜けている。むしろ、仲間として組織の壊滅に協力してくれたし、解毒剤も作ってくれて、感謝している。
 けれど、自分を子供にし、蘭を死なせたあの薬の開発者だと思うと、こらえ切れない憎しみが沸き上がってきてしまうのだ。
 だから、『灰原』と呼んでしまう。今でも。それは、彼女が組織を抜けてから得た名前だから。薬の開発者が持っていた名前ではないから。
 そんな新一の様子をせつなげに見つめて、志保はわずかに目を伏せた。
 消えない過去が、いつもいつも、重くのし掛かる。誰の肩にも。
 立ち込め始めた重い空気を振り払いたくて、志保は別の話題を振る。
「今日は、服部君と、一緒ではないの?」
「……ここへは、あいつと一緒には、こない」
「どうして?」
 不思議そうに、志保は尋ね返す。
「それは……」
 言いかけて、新一は言葉に詰まる。
 けれど、そのあとを、志保が引き継いだ。
「蘭さんに悪いから?」
「!?」
 驚いて新一が顔を上げると、志保がまっすぐに新一を見つめていた。色素の薄い茶色の瞳は、すべてを見透かしたように新一を映していた。


 平次と並んでこの墓前に立つことはどうしてもできなかった。
 蘭を不幸に死なせておきながら、その上に築いた自分のしあわせを、わざわざ見せつけるようで。
 新一は、蘭が死んでしばらくは、ショックと自己嫌悪で、壊れてしまいそうだった。物を食べることも、眠ることもできないほどになったときもあった。
 それを助けてくれたのは……公私共に支えてくれたのは、服部平次だった。
 それまでも、そのときも、それからも、そして今も、彼はずっと傍にいて助けてくれる。支えてくれる。大切な………………。
 蘭を拒絶した理由でもある平次と共に、この墓の前に立つことはできなかった。


「……莫迦ね」
「え?」
 志保は呆れたように、大袈裟に溜息をついてみせる。
「今度来るときは、服部君と一緒にいらっしゃいよ。そのほうが、きっと蘭さんも喜ぶわ」
「うそだ、あいつがそんなこと、喜ぶわけない……」
 新一は、かたくなな子供のように、きつく胸元をつかんで頭を振る。
「俺は……蘭よりも服部を選んだんだ。それであいつがどれほど傷ついたか……それなのに、服部と一緒にここに来るなんて、あいつがそんなこと、喜ぶわけない……!!」


「なに寝ぼけたこといってんのよ、あんたは!」


 突然威勢のいい声が後ろから聞こえて、びっくりしながら新一と志保は振り向く。
 そこには…………園子、がいた。
「鈴木……」
「園子さん……」
 二人は、驚いた顔で、園子を見つめた。
 園子に会うのも久しぶりだった。蘭の葬式以来だ。園子は蘭が死んだとき、小五郎と共に、新一をひどく責めた一人だった。当然だろう。大親友をなくしたのだから。
 そのとき園子は、新一が蘭を振っていたことも知っていて、そのことも激しく責めた。泣き叫びながら、いなくなってしまった大親友のことを想って。
 あの日の記憶が新一の中にまざまざと蘇る。
 ああ、また、責められるのだろうかと、新一はぼんやりと思った。
 今また園子にどんな責める言葉を投げ掛けられようと、新一はそれをすべて受けるつもりだった。新一には、蘭を死なせたという、それだけの罪があるのだから。
 けれど、園子は怒ったように大股で新一の元まで歩み寄ると、予想外の言葉を投げ付けた。
「あんたがしあわせだって、蘭に見せつけなくてどうすんのよ!」
「鈴木……?」
 新一は一瞬、園子が何を言ったのか分からなかった。
 てっきり、今新一がしあわせであることへの罵りの言葉が来るとばかり思っていたから。
「蘭は、新一君のしあわせをずっと願ってたんだから、それを蘭に教えてやらなくてどうするのよ! いーい? 今度来るときは、服部君と一緒に来なさいよ!」
 まだ茫然としている新一に、園子は畳みかけるように念を押す。
「分かったわね!?」
「あ。ああ…………」
 園子の勢いに押されて、思わず返事を返してしまう。
 すると、園子は満足したようにニッと笑った。
「よろしい。絶対だからね、新一君!」
 からかうように、園子はウインクしてみせる。
 それは、昔、まだコナンになる前の、ただの高校生だったころ。よく園子が、仲のいい新一と蘭の姿をからかうときに見せていた表情そのままで。新一は昔に戻ったような錯覚を覚える。
 しあわせだった、あの頃。なくすことの痛みも、手に入れることの勇気も、何も知らないまま、それでもすべてが自分の手の中にあった。
 あれから、多くの時が流れて。多くが変わった。
 かけがえのない多くのものをなくして、かけがえのない多くのものを手に入れて。
 あの頃と変わらない何かがあるとしても、もう帰れはしない。
「じゃ、私は帰るわ」
 茫然としたままの新一をそのままに、言うなり、園子はくるりと背を向けて歩きだす。
 園子のその行動に、新一ははっと我に返る。
「お、おい。墓参りしていかなくていいのか?」
「私は、明日もう一度来るわ。忙しい探偵さんと違って、私はお気楽な花嫁修業中の身ですから。蘭も、明日で許してくれるでしょ」
 それが、自分を気遣ってのことだと分かる。このあともうしばらく、新一がゆっくり蘭と話せるようにと。自分がいたのでは、新一も気をつかってしまうだろうからと。
「…………悪い。……ありがとう、鈴木」
 園子は背を向けたまま、片手だけひらひらと振ってみせる。
 その姿を一緒に見送りながら、志保がちいさくそっと言った。
「いいひとね、園子さんて」
「ああ。…………あの蘭の、大親友なんだぜ?」
 その言葉に込められた、新一の、今も変わらない限りない蘭への信頼と愛情を感じ取って、志保は寂しげに目を細めた。それは、決して志保には越えることできないもの。得ることのできないもの。たとえどれだけの時間が、これからまた、流れたとしても。
 志保は新一に気付かれないよう、ちいさく溜息をついた。
「私も、もう帰るわね」
「……ああ」
「じゃあね、工藤君」
 志保も、新一を置いて歩きだす。
 背を向けた志保が数歩進んで、それから、ふと、何かを思い出したように、あの頃と変わらない皮肉げな笑みで新一を振り返った。何もかも見透かしているような、見えていない自分をからかうような。けれど何処か優しい、あの笑顔で。


「工藤君、ねえ知ってた? 私も、あなたのことが、好きだったのよ」


 やはり予想していなかった言葉に、新一は、また言葉を失う。
「……灰原……」
 まるで知らない女性を見るかのように、新一は志保を見つめた。一瞬のうちに、彼女への想いが、心の中を駆け巡る。


 『宮野志保』を恨む気持ちはあっても、『灰原哀』に対する気持ちはまた別だった。
 新一の……コナンの知る哀は、感情表現の下手な、頭はいいくせに何処か不器用な、けれど優しい女の子だった。
 そして、何処か、自分と通じるものを持っていた。
 同じく子供にされたという共感だけでなく、何故か言葉に出さなくても通じることがある。きっとふたりは、心の根底にあるものが、ひどく似ているのだと思う。
 そんなふうに、蘭とはまた違う意味で、特別に想う相手だった。

 けれど。

 その、蘭に対する感情も、哀に対する感情も、『レンアイ』ではなかった。
 あるいは、もしかしたらその気持ちは、いつかそういう気持ちになりえたのかもしれない。
 あいつに、出会わなければ。
 あいつに対する、この気持ちを知らなければ。
 すべては仮定ばかり。


 黙っている新一に、志保は悪戯っ子のようにちいさく肩をすくめてみせる。
「嘘よ。冗談。本気にした?」
 そう言って、志保は笑った。    あの日の蘭と同じような、綺麗で儚い微笑み。
 だから、新一は、それが嘘でないことを知る。
 その志保の向こう、少し遠くで、園子も足をとめてこちらを振り返っているのが見えた。
 この会話が聞こえているのかいないのか、新一が園子に気づくと、彼女もふわりと微笑んだ。常の明るく活発な彼女からは想像もつかないような、儚い微笑み。

 きれいで、儚い微笑み。

 英理と会ったときも、そうだった。
 蘭が死んでしばらくしたころ、英理が新一を訪ねてきてくれた。小五郎のことを謝りに。
『ごめんなさいね。小五郎さんも、本当はわかっているのよ。あなたが悪いわけじゃないって。それに、あのひとが一番責めているのは、自分自身なのよ。娘を守れなかった自分自身を責めているの。だからあなたも、そんなに自分を責めないで。あなたが悪いわけではないのだから』
 英理は新一に、そう言ってくれた。
 本当は、英理だって、新一を完全に許してはいなかっただろう。
 新一が悪いわけではないと頭で分かっていても、感情は、同じように理解できていなかっただろう。
 それでも、英理は、新一に会って、微笑んでくれた。
 蘭や、志保や、園子と同じ、綺麗で儚い微笑み。


 どうして、自分は、彼女達にそんな微笑みかたばかりさせてしまうのだろう。
 真実はいつもひとつ。
 口癖のその言葉が、今は重くのし掛かる。
 真実はいつもひとつで、だからそれを偽れなくて、多くを傷つけた。
 謝ることさえできない。
 蘭にも、志保にも、園子にも、英理にも。


 それでもやっぱり、進んでいくことしかできない。
 いちばん大切なひとが、隣を歩いてくれているから、なおさら。
 しあわせになることしか、できない。


 やがて、志保も園子も、また新一に背を向けて歩きだした。遠ざかってゆく。
 その姿が角を曲がって見えなくなるまで、新一は彼女達を見つめていた。


 またひとりになり、新一は、もう一度、蘭の墓の方へとまっすぐ向き直る。
 捧げられた花が、風に揺れる。甘い香が頬をかすめる。けれど、蘭はもう、花を見ることも、この香を感じることも、かなわない。
 やっぱり胸が痛む。なくしてしまった、大切なひと。
「…………ごめんな」
 もう一度、その言葉を繰り返す。
 けれど、これで最後。もう、この言葉は言わない。そう心に誓う。
「今度来るときは……服部と一緒に来るよ」
 新一はそこにいない蘭の幻に語りかける。
「俺、今しあわせなんだ。しあわせで、前に進んでいくことしかできなくて…………それでもお前は許してくれるか?」
 その問いの答えは、最初から分かっていた気もする。
 志保や園子も言っていたとおり、蘭ならきっと笑って……『当たり前でしょう』と。きっと。
 その顔が、ありありと想い描ける気がする。
 今も脳裏の残る、あの儚い微笑みなどではなくて、新一の大好きだった、あのひまわりのような笑顔で。


 きっと、彼女は笑ってくれるだろう。


 END