Sweet Berry Kiss
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(志保)
優しく呼ばれる声。顔をあげると、母親のいつもの笑顔が目に入った。
(ケーキ焼けたわよ。早くいらっしゃい)
甘い香りが、部屋に満たされる。そこに満ちる、幸福と同じに。
差し出されるケーキを、喜んでほおばる。
(志保。ほっぺたにクリームついてるぞ)
笑われながら、父親に優しくクリームを拭われる。大きな、優しい指。
だいすきな、だいすきな、ひとたち、だった。
けれど、その笑顔は、そのまま、黒い額縁の中に納まった。
並ぶ二つの写真。自分の両親。
(大丈夫よ、志保。おねえちゃんが、ついてるからね)
幼い手をしっかりと握りしめて、同じように幼い姉が、繰り返した。
哀しいというよりも、突然訪れた別れに、なにがなんだか分からなかった。
ただ、握り合ったちいさな手のぬくもりだけが、たったひとつのよりどころだった。
そのたったひとりの姉すら、今はもう、イナイ。
遠い記憶。
遠すぎて、もうケーキの味なんて、忘れた。
「なあ灰原。お前も食べねえ? このケーキすっげえうまいんだぜ」
コナンは哀に、持ってきたケーキの箱を掲げてみせた。
箱の中には、甘そうなケーキがいくつか並んでいる。どうやら、ここへくる途中に買ってきたらしい。
「いらないわ」
哀はそっけなく答える。
「なんだよ、せっかくお前の分も買ってきたのに」
コナンは勝手知ったる博士の家、ということで、いそいそとキッチンに消えて行った。
程なくして、紅茶のよい香りと、ケーキの甘い香りを漂わせながら、コナンが居間に戻ってきた。右手にケーキの皿、左手に紅茶のカップを持って。
とろけそうなくらいの顔でケーキをほおばるコナンを、横目で見つめる。
よほどおいしいらしい。
「おまえ、ほんとに食わねーの? これほんとにうまいのに」
コナンはケーキを少し崩すと、ひとかけらフォークに刺して、哀の前にさしだした。
甘い香りが、満ちる。
(志保)
遠くに、呼ぶ声が聞こえる。
今はもう、どこにもない、愛しい笑顔。
「やめてよ。ケーキなんて嫌いなのよ」
ケーキを差し出すコナンの手を強く押し返す。
それでもケーキの香りは消えてはくれない。
志保、という名前さえ捨てて、暗闇の中で生きてきた。
かつて手にしていた、しあわせ、なんてものとはいちばん遠い場所で生きてきた。
あの笑顔を、思い出すのがつらくて。
「…………やっと、ケーキの味を忘れたのに」
忘れたはずだった。みんなみんな。
ケーキの味も、呼ばれる声も、やさしい笑顔も、やわらかなぬくもりも。
ぜんぶぜんぶ忘れて。
だから、自分はひとりでも生きていけるはずだった。
ひとりで、生きてきた、のに。
(哀)
呼ばれる音は、かつてとは違うのに、それでも、その響きの優しさは同じで。
向けられる笑顔や、与えられる無条件の優しさや、やわらかなぬくもりが、痛いのだ。
ひどくひどく、痛いのだ。
かしゃんと、フォークを置く音がした。
「莫迦だな、おまえ」
ふわりと、鼻孔を、甘やかな香りが埋め尽くした。
伝わる熱が、キスされているからだと気づくまでに、数秒かかった。
「なっ…………」
驚いて声をあげようとしたくちびるのあいだに、するりと舌が潜り込む。
途端に口の中に広がる、甘い甘い味。
さっきまで、彼が食べていた、ケーキの味が伝わってくる。
哀はきつく目を閉じた。
(志保)
呼ばれて振り向くと、そこにあった優しい笑顔。あたたかなぬくもり。
だいすきな、だいすきなひとたち。
(おかあさん)
(おとうさん)
(おねえちゃん)
忘れたはずの思い出達が、哀の中にあふれかえる。
しあわせだった昔。もうぜんぶ、なくしてしまったもの。
口の中にケーキの味を残して、そっと、くちびるは離れた。
ゆっくり目をあけると、優しい笑顔が、そこにあった。
優しいコナンのほほえみが、そこにあった。
「………………っ」
強く、胸を押さえた。
痛い。痛いのだ。
ケーキの甘い香りや、味や、あふれる思い出達や、触れたくちびるの熱や、その笑顔が、何故だかひどくひどく、痛いのだ。
「莫迦だな」
コナンはもういちど、そう言った。
「おまえはここにいればいいんだ。ここにいていいんだ」
ケーキの味なんて、忘れたいの。
あなたなんて、大嫌いなの。
おねえちゃんを、死なせたから。
そしてあなたも、私なんて嫌いでしょう?
あなたの人生を狂わせた薬を作った女だもの。
ねえ、それなのに、なんでそんなことを言うの?
私にケーキの味を思い出させるの?
ねえ?
「ケーキの味なんて、忘れたと、思っていたのに……」
うつむく自分の身体を、幼い子供の、小さくて短い腕が、そっと抱きしめる。
その肩に、哀はそっと顔を埋めた。
もしも解毒剤が完成して、すべてが終わっても、大きくなったその腕は、また私を抱きしめてくれる?
ただ一度だけでもいいから。
ねえ?
嘘でもいいから。
甘いケーキの香りがする。
END