there is...



 今まで、『あたりまえ』だと思っていたことが。
 実は、『奇跡』のようなもので、そしてかけがえのない『幸福』だったのだと、やっと気づいた。



「じゃ、工藤。行ってくるわ。7時には帰ってくるからな」
 玄関で靴を履きながら、顔だけコナンのほうを振り返って、平次が言った。
 コナンは、平次の上着の裾を掴んでいた手を、仕方なしにゆっくりと離す。それでも瞳は泣きそうに平次を見上げている。すがるように。
 平次は困ったように笑って、あやすようにコナンの頭をぽんぽんと軽くたたいた。
 平次が出かけるとき、子猫はいつもこんなふうだった。まるで捨てられるのではないかとおびえるような瞳で見つめてくる。
「できるだけ早よう帰ってくるから、待っててや」
 コナンがちいさくうなずくのを確かめて、平次は出て行った。
 ひとり残されたコナンは、しばらくその場に立ちすくんで、閉められたドアを見つめていた。


 今日もいつもどおり、平次は出かけていった。
 人間には学校とか仕事とか、その他いろいろあるから、コナンのように、家に閉じこもってばかりいるわけにはいかないと、ちゃんと分かっている。平次が出かけるのだって、いつものことだ。

 でも。

 コナンは、『いつもどおり』が、いちばん怖い。
 あの日も、いつもとまったく変わらずに快斗は出かけていって、そして帰ってこなかったから。
『いつもどおり』は、ある日突然、なんの前触れもなしに途切れるのだ。
 それがいつ終わるか、途切れてしまうか、変わってしまうか、何もわからない。だからよけい怖いのだ。
(今日もちゃんと帰ってくる?)
 その保証は、何処にもないのだ。


 ひとりきりの部屋で、コナンはただ時計をにらんで過ごす。その秒針がすこしずつすこしずつ進んでゆくのを、ただじっと見つめているのだ。時計を見つめるばかりで、他のことなど手につかない。
(あの針が7のところまでいったら、平次が帰ってくる)
 じりじりと、その時がくるのを待つ。
 こんなとき時間の進みは、苛立つほどに遅い。
 早く時間が進んで欲しいと思うのに、けれど同時に、コナンの心の中に恐怖も積もってゆくのだ。
(もしも平次が帰ってこなかったら)
 平次が嘘をついたとか、約束を破ったという問題ではなくて、ただ、そうなってしまうことが怖かった。



 それまでは。快斗がいなくなってしまうまでは。
 自分をとりまく世界のすべてが『あたりまえ』のことだと思っていた。
 傍には快斗がいて、出かけて行ってもすぐに帰ってきてくれて。快斗に甘やかされて愛されて、自分はそこにいるだけでよかった。

 でもほんとうは、なにひとつ、『あたりまえ』なんかじゃなかった。

 それは、『奇跡』で、『幸福』だった。

 快斗が傍にいたことも。
 出かけても帰ってきてくれたことも。
 自分を愛してくれたことも。
 すべて。
『あたりまえ』だと思っていたこと、すべて。

 快斗がいなくなって、やっと、そんなことに気づいた。



 平次だって、出かけていって、ちゃんと帰ってくるという保証なんてないのだ。快斗と同じように、もう帰ってこないかもしれない。
 もう傍にいてくれないかもしれない。
(傍に?)
 ふと、疑問が思い浮かぶ。
 そういえば、平次は、どうして自分の傍にいてくれるのだろう。
 快斗の場合は、コナンが物心ついたときには、もう快斗が傍にいた。自分の持ついちばん古い記憶にも、すでに快斗の姿がある。最初から、家族のように傍にいたから、それを疑問に思うこともなかった。

 でも、平次は、どうして自分の傍にいてくれるのだろう。

(どうして)
 そのことも考えたことはなかったが、考えてみると不思議だ。
 あの雨の日に、平次は自分を助けてくれた。それから、ずっと傍にいてくれる。優しくしてくれて、愛してくれる。
 よく考えると、それはとても不思議だ。

 それは、やっぱり、『奇跡』で『幸福』なのかもしれない。

 快斗と共にあったそのすべてが奇跡だったのなら、今こうして平次と一緒にいることも、すべて奇跡なのかもしれない。



 外を歩いてくる音が聞こえた。その音に、コナンの耳はぴんと立つ。その足音は、もう聞き分けられるようになった。
 コナンは玄関に走りだした。
 ドアの鍵が開けられ、ドアノブが回される。扉が開く。
「工藤〜、帰ったで〜」
 平次がドアを開けると同時に、コナンは平次に抱きついた。

 今日も『奇跡』は起きた。こうして平次が帰ってきてくれた。だから『幸福』だ。
 それだけのことが、うれしくてうれしくて、安心して、涙があふれるのをとめられなかった。

「へいじっ、へいじ〜〜!!」
「なっ、なんや工藤!? どないした!? なんかあったんか!?」
 突然抱きついて泣きじゃくるコナンに驚いて、平次はあわてる。いつもいつもじっと平次の帰りを待っているコナンだが、飛びついて泣きじゃくるなんてことは今までなかった。
「どっか痛いんか? 哀しいことでもあったんか?」
 自分の気持ちをうまく説明できなくて、コナンは泣きながら必死で首を横に振った。
 何があったのかもよく分からず、平次はどうすればいいのか分からずに困ってしまう。
 とりあえず平次はコナンを抱き上げて、抱きしめた。あやすように、そっと背中をたたく。
「ええこや。大丈夫やから、そんな泣かんとき」

 前にも同じように抱きしめられて、同じようなことを言われた。
 あれは、はじめて会った日だった。あの雨の中で、寂しさに押しつぶされそうになっていたとき。

 あのとき、また自分のうえに『奇跡』が落ちてきたのだ。
 平次と出会うという、『幸福』が。

「へいじっ……へいじ……」

 もう失くさないように。平次が何処かへ行ってしまわないようにと、コナンは必死で抱きつく腕の力を強めた。
 ただ必死で、平次にすがりついていた。



『奇跡』の意味も、『幸福』に込められた感情も。
 そのときはまだ、コナンはなにも知らずにいた。



 END