爪切り(手)


 東の名探偵工藤新一は、やることが特に何もなく、自宅の豪華なソファでゴロゴロしていた。
 向かい側のソファでは、西の名探偵服部平次が雑誌を読んでいる。
 事件も何もない休日の昼下がりというのは、こんなものである。もちろん、事件が頻繁におきる現代において、こんな日は多少めずらしいことでもあったが。
 暇を持て余していた新一は、ふと気づいて、自分の指先を見つめた。
 爪が、伸びていたのである。
 生活に支障がでたり、見ていて不快になるような長さではないけれど、切っておいた方がよいくらいには伸びていた。爪を切ることにして、小物を入れる引き出しから爪切りと、切った爪を受け取る紙を持ってくる。
 爪切りの準備を万全に整えながら、けれど新一は、自分の爪と爪切りとを苦い顔で見比べながら、なかなか切りはじめようとはしなかった。
「なんや、切らんのか?」
 その様子に、雑誌から顔をあげて平次が尋ねる。
「……爪切りって、苦手だ」
 ぼそりと、新一が答えた。
 平次はそういえばよく深爪していたなと思いだした。
 新一は別に不器用というわけではないのだが、それでも何故か爪切りが苦手だった。プチプチと一本ずつ爪を切る過程でだんだんとめんどくさくなり、切り方がいい加減になってきて結局深爪をしてしまうことがしばしばあるのだ。
「女っていいよな。ファッションとかいって爪切らなくてすむんだからな」
 そのぶん女性は伸ばした爪の手入れをしなければならないのだが、それを棚にあげて新一は文句を言う。
「ほな、俺が爪切ったろか?」
「おまえがか?」
 予想外の提案に、新一は何を言い出すんだと平次を見たが、本人は至って本気らしく、新一から爪切りを取り上げた。
「ほら、手ぇだしや」
 向かい合わせに座って、新一の手をとる。
 そうしてとりあえず左手の親指の爪を切ってはみるものの、なんとなく勝手が違ってやりづらい。
「なんや切りにくいな〜」
 もっと簡単だと思っていたのに、思わぬやりづらさに平次はぼやく。
 自分の爪を切るときとは、手の向いている方向が逆になっているのだ。だから、何となく距離感がつかみにくいし、切りにくい。
 これで間違って深爪でもしてしまったら、新一が痛いだろうし、怒られることは目に見えている。
 一瞬考えた平次の脳裏に、名案が浮かんだ。
「そや。こうすればええんやな」
 言うなり、平次は新一をふわりと抱き上げた。軽い新一の身体は、楽々と抱き上げられてしまう。
「な、なにすんだよ」
「こうすればええんやん」
 平次はソファに座ると、背中から抱きしめるように新一を自分の膝に乗せた。
「こうして切れば、手の向きが逆んならんですむやん」
 後ろから回した腕で、再び新一の左手をとる。
 確かにこうして切れば、手の向きは自分の爪を切るときと一緒だ。
「だからってなあ」
「ええやん。深爪するよりええやろ。ほら、切るで」
 仕方なしに、新一は平次の腕の中でおとなしくする。
 新一より一回り大きい平次は、新一の肩に顎を乗せた。そうすると、手がよく見えるのだ。
 呼吸のたびに上下する平次の胸の動きが新一の背中にダイレクトに伝わってくる。耳元をかすめる吐息だとか、首筋に当たる体温とかが、新一を変にどきどきさせる。
 別に他意はないはずなのに、それでも火照ってしまう頬はどうしようもない。せめてそれに気づかれないようにと、まっすぐ前を向く。
 左手の親指から、順番に爪が切られてゆく。丁寧にも平次は切った爪にヤスリまでかけてくれる。その様を、不思議な感覚で新一は見つめていた。
 左手が終わり、今度は右手がとられる。
 また親指から切りはじめて、どんどん次の指に移るたびに、新一はふと思った。
(腕が、あと2本くらいあったらいいのに)
 考えてしまってから、自分のその考えに恥ずかしくなる。頬の温度が少しあがった。
「ほい。爪切り終わり」
 すべての指の爪をきれいに切り、ヤスリまでかけて整えたあと、平次はそう言って、新一の手を離した。新一の膝の上に乗せていた、切った爪を受け取るための紙をどかすと、新一はさっと平次の膝から立ち上がった。
 平次の方を振り向かずに新一が言う。

「爪切り、今度からおまえの仕事な」

 投げられた言葉に、平次が驚いて顔をあげると、真っ赤に染まった新一の耳が見えた。こちらを向かないその表情も、容易に想像できて、平次は思わず笑った。
「おおきに。ありがたく務めさせてもらうわ」


 こうして、工藤邸において、新一の爪切りは平次の仕事となった。



 END