吊橋


「さあ。キャンプ場は、あの橋を渡った向こうじゃ」
 地図と見比べながら阿笠博士が指さした先にあったのは、切り立った深い崖の間をつなぐ細い吊橋だった。
 思いのほか深い崖に架かっているその橋は、いかにも今にも落ちそうな、というほどではないが、木とロープで作られ、足もとも手摺も何処となく心許ない感じがした。
「おいおい……こんなとこ渡んなきゃなんねーのかよ……」
 歩き続けて疲れていたコナンは、思わず愚痴をこぼす。
 これは、本来あまり使われていない橋だった。
 今日は少年探偵団と阿笠博士でキャンプに来たのだが、キャンプ地への正式なルートは別にあり、そこにはもっとしっかりした橋があるはずだった。道だって、こんなに遠回りして険しい山道を歩くこともないはずだった。けれど、方向音痴な博士の案内で途中迷い、別の道を探したところ、この橋を通ることになってしまったのだった。
 だが、他の子供達は逆にその吊橋の様子にはしゃいだ。
「わーーすごい吊橋ですねえ」
「すっげーー。冒険映画とかに出てきそうな橋だな。歩いてたら、途中で落ちちまいそうだなー」
「やだー歩美こわーい」
 こんな吊橋は、都会育ちの子供達にはめずらしく、冒険心をくすぐられる絶好のものなのだろう。
 大声ではしゃぎながら、駆け足で橋を渡っていく。途中で立ち止まり、手摺の隙間から崖の下をのぞいたり、橋の途中でジャンプしたり手摺を揺すったりして橋が揺れるのを楽しんでいた。
「これこれ、危ないだろう。落ちたらどうするんじゃ」
 阿笠博士は大きなおなかを揺らしながら急いで追いかけて、はしゃぐ子供達をたしなめながら橋を渡ってゆく。
 皆が次々と橋を渡っていくなか、コナンと哀だけはまだこちら側に残っていた。
 はしゃいで渡っていく子供達に巻き込まれてはかなわないと、コナンは彼らが渡り終わるのを呆れた顔で待っていた。
「吊橋であんなにはしゃぐんじゃねーよなあ。なあ灰原……」
 コナンは、哀も自分と同じように、はしゃぐ歩美達をすこし呆れたように見ているのかと思っていた。けれど彼女は、思い詰めたような顔をして、吊橋をただじっと見つめていた。
「なんだよ灰原、もしかしておまえ吊橋が怖いのか?」
「別に……」
 強がって答えてみせるが、かすかに肩や足が震えるのはおさえようがなく、それはコナンにもはっきりと分かった。
 別に哀は高所恐怖症でもないし、橋が落ちるかもしれないと不安になっているわけでもなかった。実際に今までも吊橋を渡った経験もあるが、そのときは怖くもなんともなかった。
 けれど今は、何故だかこの吊橋が、むしょうに怖かった。こうして身体がちいさくなってしまってから、鏡が怖くなってしまったのと、同じように。
 あの足下の頼りない感じと不安定に揺れる感覚が怖かった。……まるで、今の自分自身の置かれている状況に重なるようで。
 足下には深い谷があって、そのうえに不安定に立っている。いつ谷底に落ちても、おかしくはない──。
「しゃーねーな。ほらよ」
 突然目の前に手のひらが現われて、哀は現実に引き戻されはっとする。
 コナンが、哀に手を差し出していた。
「俺が手えつないでってやるから。渡ろうぜ」
「何言ってるのよ。別に、怖くなんか……」
「わかったわかった。でもどっちにしろ、博士達向こうで待ってるし、さっさと渡っちまおうぜ。俺が一緒だから、大丈夫さ」
 コナンはさっと哀の手を握ると、橋を渡り出した。哀も引っ張られて、一緒に橋を渡る。
(俺が一緒だから、大丈夫さ)
 そんなふうに、どういう根拠があるのだかないのだか分からない言葉を、コナンはよく哀に言っていた。そんなことではすまされないこともある、と思いながらも、哀はその言葉を聞くたび勇気づけられていた。
 つないだ手から、コナンのぬくもりが伝わる。
 歩美などは子供特有の無邪気さでよくコナンと手をつないでいるが、哀は彼と手をつなぐことなんて滅多になかった。事件のときに、いちど手をつないだことがあったかないかというくらいだ。ためらうことを知らない歩美の無邪気さを、すこしうらやましく思ったこともあった。
(…………)
 すこしずるいとは思いながらも、怖いふりをして、哀はコナンの手を強く握った。それをどうとったのか、コナンもすこし強く、哀の手を握り返す。
 吊橋は、思ったほど怖くなかった。
 コナンの存在に勇気づけられているということもあるし、なにより、吊橋よりも意識がつないだ手のほうに向けられてしまうのだ。自分の顔は、赤くなどなっていないだろうか、この心臓の音が聞こえてしまわないだろうか、とそんなことばかり考えてしまうのだ。
 やがて、吊橋の真ん中あたりにきたとき、不意に足を止めてコナンが口を開いた。
「なあ灰原。吊橋理論って知ってるか?」
「なに、突然。知ってるわよ、それくらい」
 突然彼の言い出したことに、すこしどぎまぎしながら、哀はできるかぎりいつものクールさを保とうと必死の努力をしながら答えた。
 吊橋理論。心拍数の高い状態で人に逢うと、脳がそのひとを好きだから心拍数が上がっているのだと勘違いして、そのひとに恋愛感情を持つ確率が高い、という理論だ。吊橋の上で男女を引き合わせて実験したことから、吊橋理論と呼ばれている。
 確かに、今の自分達の状況は、吊橋理論の実験そのままだ。揺れる橋の上で、心拍数の高い状態で、見つめあっているのだから。
「あの理論本当かどうか、ちょっと実践してみるか?」
 哀の気持ちを知ってか知らずか、コナンはそんなことを言ってきた。この名探偵は、突然なにを言い出すのだろう。本当に。
「莫迦じゃないの、あなた」
 哀の心拍数をあげているのは、吊橋なんかじゃない。つないだコナンの手だ。それでは実験にならない。心拍数が高いときに逢ったからそのひとが好きなのか、そのひとが好きだから心拍数が上がっているのか、そこが最初から本末転倒になっている。
 第一、実践して……コナンが哀に恋愛感情を持つとでも言うのだろうか……。
 哀のその答に、コナンは肩をすくめてみせた。
「ま、そうだよな。心拍数あがってるときに逢うだけで惚れるっていうんだったら、事件現場で服部と推理勝負してるときとか、キッドと対決してるときとか、俺ドキドキしてるから、あいつらのこと惚れてることになっちまうもんな」
「あら。案外そうなんじゃないの?」
「おい……」
 すこし意地悪く言うと、コナンに呆れられたようににらまれた。
 橋の向こうから、すでに渡り終わった博士や歩美達が呼んでいる。
 軽く返事を返して、コナンと哀は手をつないだまま、また橋を歩き始めた。
 なんだか顔をあげられなくて、哀は足下を見つめる。歩くたび、頼りなく足もとが揺れる。ぎしぎしと、命綱でもあるロープがきしんで、か細い悲鳴のような音を立てる。まるで、今のふたりの関係のように。
「なあ……灰原」
 呼ばれて、哀は顔をあげた。コナンは振り向かない。哀に背を向けたまま、言う。
「もしもさ……もし……吊橋を渡りおわって、それでも心拍数あがってたら、……それは、なんだろうな?」
「────」
 それは──?
 コナンの足が、橋から地面に踏み出される。
 続いて、哀も、橋を渡り終える。
 それでも、つないだ手は離れなかった。どちらからともなく、力をゆるめられない。
 ゆっくりと、コナンが振り向く。哀を見つめる。その蒼い瞳から視線をはずせない。見つめあう。
 哀の心臓は、痛いくらい鼓動を刻んでいる。じゃあ彼の心臓は?
 吊橋を渡り終わって。
 さあ。その答は──?



 END