confidence game [7]


 あの夜以来、望美は弁慶と話をしていない。あの、頬を叩かれた夜から。
 弁慶が怒っているのかそうでないのかも分からないまま、とりあえず謝りたいと思うのに、なかなかその機会を得ることが出来なかった。あからさまに避けられているわけではない。皆揃っての食事時などは、弁慶も同じ席に着く。だが、ことがことだけに、皆がいる前では言い出しにくい。出来ればふたりきりのときに謝りたいと思うのに、なかなかそんな機会がなかった。
(やっぱり、避けられてるのかな)
 忙しいとはいえ、いちどくらいふたりきりになる機会があってもよさそうなのに、それがまったくないというのはやはり避けられているのだろう。あの弁慶のことだ。巧妙に望美を避けることくらい、お手の物だろう。
 はじめは望美も何とか弁慶と話す機会を作ろうと努力していたが、だんだんと弁慶のことばかりに悩んではいられなくなってしまった。
(もうすぐ、和議が)
 数日前に頼朝から九郎のもとへ正式に和議の話が伝えられ、今はその準備にみんな奔走している。正式な源氏の者ではない望美は特に仕事があるわけではないが、ぼんやりとしている暇はなかった。
 望美はこの先の未来を知っている。和議はならず、一の谷の奇襲に失敗し、敗走する源氏の運命を。その運命を変えることが、いちばん大切だ。弁慶と話をしたいと思うけれど、それにかまけて運命を変えられなかったら本末転倒だ。
(今は、福原での戦いのことだけ考えよう)
 もし福原での運命を変えられたとして、すぐに戦が終結するとは思わない。けれど、またひとときの平穏は訪れるだろう。そうしたらまたゆっくり弁慶とのことを考えればいい。望美ははそう思っていた。
 だんだんと秋が深まりゆく中、和議の日はすぐにやってきた。
 当然和議が成るはずもなく、以前辿った歴史と同じように、福原での和議に向かう陣で、政子は奇襲を命じてきた。それを九郎に告げるより前に景時を戦場へ向かわせ、どうしても奇襲をかけざるを得ない状況を作るという用意周到ぶりだ。頼朝と政子のそのやり口を分かっていても、望美はそれをとめられなかった。
「くっ……皆の者、出陣だ!!」
 奇襲など望まないとはいえ、行かなければ景時を見捨てることになる。九郎はしかたなく出陣していった。望美もそれに付き従う。
 望美の記憶どおり、一の谷で奇襲を提案する九郎に、望美は反対の声を上げた。
「ダメです! ここから奇襲をかけちゃいけない! もしも平家が奇襲に備えていたらどうするんですか!」
「なんだと? 平家が奇襲に備えているなど……そんなことがあるのか?」
 確かに九郎の戦法は、通常なら誰も思いつかないだろう。元平家の敦盛でさえ、そんな作戦があったのかと感心したほどだ。実際、望美のもとの世界でも、九郎のその作戦は成功している。だが、この世界では駄目なのだ。一の谷の奇襲は失敗してしまう。望美は、前と同じ運命を辿って仲間を失うことだけはどうしても避けたかった。
「お願いです、一の谷から攻めちゃいけない!」
 望美の必死の説得に、ヒノエやリズヴァーンの仲裁も加わって、いぶかしみながらも九郎は奇襲をかける前に物見を出してくれた。迅速な行動も勝利の重要な鍵となる戦で、特に早さが必要とされる奇襲で、本来なら物見を出している時間などない。それでも九郎は望美の言葉を聞き入れてくれたのだ。
 結果、物見は一の谷の下に潜む伏兵を見つけ、奇襲は中止となった。正面から平家の陣へ攻めてみても、平家はすでに撤退していた。そこから景時を助けるために急いで生田神社へ向かい、そこでも平家を撤退させることに成功した。
 逃げた平家を追うということで、みんなと共に大輪田泊へ向かいながら、望美はちいさく安堵の息を吐いた。
(よかった)
 隣を見れば、そこにリズヴァーンがいる。戦そのものを回避することは出来ずとも、少なくともリズヴァーンを失うあの歴史だけは回避できた。歴史を変えることが出来たのだ。
 けれど一方で、胸がちいさく痛んだ。
(私は、ずるい)
 以前の運命と違い、源氏の勝利になったとはいえ、多くの兵が死んだり傷付いたことに変わりはない。前の歴史でも、この歴史でも、多くの者が血を流し倒れた。こうして大輪田泊へ向かう道中でも、倒れて死んでいる兵は路傍にいくつも見られた。当然その分だけ悲しむひとがいるだろう。苦しむひとがいるだろう。名も知らぬ兵にだって、家族や友人がいるのだ。
 多くの者が傷付き死んでいく運命の中で、望美は自分の大切なひとだけを選り好んで助けているのだ。今回で言えばリズヴァーンを。
 この運命でリズヴァーンは助かったけれど、他の多くの命が失われたことに変わりはない。それでも、リズヴァーンを助けられたことが嬉しいのだ。それは、リズヴァーンさえ助かればいいというのと同義だ。
 神子、という名がひどく重く感じられた。望美は傍を歩く白龍に目を向けた。熊野で急に成長を遂げ、今は青年の姿の白龍は、本来は京を守護する龍神だ。普段はそんなことを感じないが、やはりふとした折に、彼は神なのだと感じることがある。彼はこの世界のすべてを愛し、慈しんでいる。けれど望美は、そんなふうにはなれない。
 大輪田泊でも平家との戦闘になるかと身構えて来てみたが、平家はすでにそこにいなかった。あらかたの平家の将は、既に沖へ逃げてしまったのだろう。遠くに小さく船が見えるばかりだった。
「源氏は船もないし、もう追いかけるのは無理だね」
「う〜ん、逃げられたのは残念だけど、勝ててよかったよ。あんまり被害も出なかったしね」
 沖を見つめながら船との距離を測るヒノエに、景時が安堵したように答える。主だった平家の将や帝に逃げられたともいえる結果だが、それでも源氏の勝利には違いなかった。生田神社での戦闘はあったが、一の谷でも大輪田泊でも戦闘にはならず、源氏の被害も思った以上に少なくすんだことを、喜んでいるようだった。
「でも、そんな喜んでばかりもいられないんじゃない? こっちの被害も少なかったけど、むこうの被害も少なかっただろうしね。平家はまだ戦力を温存してると考えていいんじゃないかな」
 ヒノエの言葉に、みなに一瞬緊張が走る。けれど九郎の明るい声がその空気をすぐに打ち破った。
「だが、今回は平家に勝てたんだ。有馬まで戻って、兄上に──政子様に報告しよう」
 九郎の言葉に、傍にいた兵たちが勝鬨の声をあげた。とにもかくにも、今回は源氏の勝利という形で戦は終わったのだ。
 源氏の軍は、九郎と景時の指揮のもと、陣のある有馬へと退却をはじめた。望美たちも有馬へと向かいはじめたとき、弁慶が隊から離れた。
「僕はやることがありますので……皆さんは先に行っていてください」
 ひとりどこかへ向かうその後姿を、望美は見つめた。
(やることって、なんだろう)
 以前の一の谷の戦いでは、奇襲が失敗しそのまま陣に逃げ帰った。あのときは、大輪田泊まで来ることもなかった。だから今弁慶が何をしようとしているのか望美には分からない。
 運命を変えることを望み、実際に運命を変えているのは望美自身なのだが、それでも不安は消えない。ひとつ運命を変えたからといって、それが本当に正しい選択なのかは分からないからだ。たとえば良かれと思って目先の運命を変えたとして、それが長い目で見たら間違った選択へ繋がるものなのかもしれない。望んだ方向へ運命が変わっているのか、それともより大きな悲劇を招いてしまうのか。可能性はいくらでもあって、不安は消えない。
 この運命で、もうリズヴァーンを失うことはないだろう。けれど、その代わりに誰かを失ってしまうということはないだろうか。傍にいてくれればまだ安心できるのに、姿が見えないと不安になってしまう。
「私、ちょっと弁慶さんのところに行ってきます!」
「先輩!?」
 不安に耐え切れずに、望美は隊を離れ大輪田泊へ走り出した。
 他のみんなは源氏の軍の中にいるから、何かあっても多分大丈夫だろう。隊から離れひとりになった弁慶が心配だった。もし敵や怨霊が出たら困るだろう。弁慶の用事がどんなものか分からないが、望美が手伝えることなら手伝って、そうでないなら終わるのを待って、一緒に有馬に戻ればいい。
 そんなに進んではいなかったから、走ればすぐに大輪田泊に着いた。人のまばらな湊で、黒い法衣姿はすぐに見つけられた。
「弁慶さん!」
「望美さん!? どうしてここに……みんなと陣へ戻ったんではないんですか?」
 弁慶は驚いて目を丸くしている。彼も望美が戻ってくるとは思っていなかったのだろう。
「弁慶さんひとりじゃ、危ないんじゃないかと思って……。用事って、なんですか? 私に手伝えることなら手伝います」
 弁慶は沖に何艘か浮かんでいる船に目をやった。望美もその視線の先を追う。
 大きな船は、もう水平線の向こうに消えて、近くに見えるのはみすぼらしいちいさな船ばかりだ。おそらくは、雑兵ばかりが乗っているのだろう。
「ここから船を追撃しようと思ったんですよ。主だった将には逃げられてしまいましたが、まだ矢の届く範囲にも船はいる。火矢をかければ、沈めることが出来ます」
「なっ……」
 言われたことに、望美は言葉を失った。弁慶を振り仰げば、弁慶は変わらぬ笑みをたたえて望美を見つめていた。
 確かに戦では人を殺す。望美だって、怨霊だけでなく、生きている人間を殺したことがある。でもそれは刃を振りかざし襲ってきた相手を切り返したときだ。戦意のない、無抵抗な人間を殺したことはない。
 少なくとも今ここにいる平家の兵に戦意はない。負けて戦う力をなくし逃げるだけだ。もし戦意があったとしても、船の上で火矢をかけられては無抵抗に殺されるだけだ。その残虐な行為をすると、弁慶は笑顔で言うのだ。
 言葉を失う望美に、けれど急に弁慶は笑みを消して真剣な顔になった。
「──でも、それはやめておきます。君に嫌われたくはないですから」
「え」
 ころころと変わる話に、望美の頭がついていかない。もしかしてからかわれたのだろうか。探るように弁慶を見つめてみても、その真意など分からない。
 そういえば、弁慶とふたりきりで話をするのはあの夜以来だと、不意に気付いた。いったん戦が終わって、心に余裕が出来たせいかもしれない。けれどそう思ったとたんに、羞恥と焦りが心に浮かんだ。弁慶に何をいえばいいのか分からないし、どういう顔を向ければいいのかも分からない。とりあえず和議のことが先だと思っていたから、弁慶に対してまだ気持ちの整理が出来ていないのだ。
 困った顔をする望美に、弁慶はそんな胸のうちさえ見透かしているかのように優しい笑みを向ける。
「望美さん、僕はここに残っている兵に指示を出さないといけませんから、先に戻っていてもらえますか?」
「……はい」
 このまま弁慶とふたりきりでここにいるのもなんとなく気まずくて、望美は弁慶の言葉に素直にうなずいた。弁慶に何かあるのではと心配してここまで来たが、まわりには特に怨霊の気配もないし、平家軍も海の上にはいるものの、こちらを攻撃してくることはないだろう。
 望美はひとり、大輪田泊を離れて歩き出した。さいわいにも、まだ源氏軍はそう遠くへは行っていないだろうから、すこし急げばすぐに追いつけるだろう。
(でも、そうだよね。これでいったん戦が終わったんだから、弁慶さんのこと、ちゃんと考えないと)
 歩きながら、望美は先ほどの弁慶を思い出した。望美ばかり慌てて、弁慶はまるで何もなかったかのように接してきた。いつもと変わらぬ笑みで。
(いつもと、同じ──?)
 何かが頭の隅に引っかかった。そう、同じだったのだ。いつもと変わらぬ笑顔。
(あの笑顔に、騙されてはいけない)
 ふいに望美の中に、そんな想いがひらめいた。そう思った瞬間、望美の足は、再び大輪田泊へと駆け出していた。
 望美が再び戻ってきたとき、湊は赤く燃え上がっていた。
 炎に赤く照らされたその背中に近づく。望美が帰ってきたことなど、気配で気付いているのだろう。けれど弁慶は振り向かない。
「どうして……」
「彼らは敵です。ここで見逃せば、あとの戦いで出てきます」
 言葉どおりの炎の海を見ながら、望美は泣いていた。残酷な情景に恐怖したからではない。死んでゆく平家の兵たちに同情したからではない。
 もしも望美が一の谷の奇襲を止めなければ──前の運命のままなら、ここで弁慶が船に火をかけることはなかった。これは、望美が運命を捻じ曲げたからこそ起こった出来事だ。その意味では、望美がこの残酷な情景を引き起こしたと言ってもいい。けれど弁慶はそれを自分の罪だというのだ。そして、その苦しみを背負っていくのだろう。

「どうして、全部ひとりで背負おうとするんですか」

 望美のほうを振り向かない弁慶の背に手を伸ばした。触れた瞬間、ちいさく弁慶が震えたような気がした。けれどそんなことには構わず、彼にしがみつく。
 弁慶にしがみついて、望美は癇癪を起こした子供のように声を上げて泣いた。これが、運命を捻じ曲げる代償なのだと実感した。これは、今ここで死んだ者たちは、すべて望美のせいだ。望美が、殺した。
 それでも。
 それでももういちど運命を選べるとしても、きっと大切なひとを守る道を選んでしまうのだろうと、分かっていた。


 To be continued.

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