飛行機雲


 茜色に染まるあぜ道を、手をつないで歩いた。
 沈みかける夕陽が、弁慶の髪も肌も淡く橙に染めている。その横顔は、穏やかに微笑んでいる。それを隣から見つめていると、望美の胸はやわらかく締め付けられる。てのひらから伝わる体温が、とても心地よくて、とても愛しい。大切なひとが、ここにいてくれる。ただそれだけのことが、どんなに大切でかけがえのないことか、望美は知っている。
 薬師をしている弁慶のところには、たくさんのひとが彼を慕って詰めかけてくる。たいていは、午前中は診療所に来た人を診て、午後は往診に行くか薬草を採りにいく、というのがいつもの日課だ。望美は診療を手伝い、午後も共についていく。片時も、弁慶と離れることはない。今日は弁慶と共に薬草を採りに行った。草木は豊かに茂り、必要な薬草も十分採ることができた。これだけ採れれば、しばらく薬に困ることはないだろう。
 とても、とてもしあわせだ。戦もなく穏やかで、大切なひとが隣にいてくれる。彼らも、こんなふうにしあわせであればいいと思った。逢えなくても、元気で、しあわせであれば。
「みんな、元気かな」
 思わずそう言葉に出して、望美は違和感を覚える。
(──あれ?)
 みんな、とは誰だったろう。自分は今、誰のことを、思い出したのだろう。しあわせであればいいと願う大切な友人、仲間たち。それは、誰だったろう。あれは──。
「望美さん」
 不意に、弁慶に名を呼ばれると同時に手を引かれて、引き寄せられる。望美はそのまま弁慶の胸に顔をうずめるように抱きしめられた。
「僕以外の人の事を想っていたんですか? いけないひとですね」
「ち、違いますよっ、そんなんじゃないですっ」
 まるで浮気を責めるような言葉に望美はあわてる。もちろん弁慶も本気ではなくからかっているだけなのだろうが、こんなとき望美は上手くかわすことが出来ない。いつも弁慶に翻弄されてしまう。
「君には、僕のことだけ、考えていて欲しいんですよ」
 頬を両手で包まれ、瞳を覗き込まれるようにしてささやかれる。弁慶の色の薄い瞳に見つめられると、もう望美は他に何も考えられなくなる。
「……考えていますよ、いつだって、弁慶さんのことだけ」
 望美はわずかに頬を染めながらちいさな声で答えた。その言葉に、弁慶が安心するように、嬉しそうに微笑む。その笑顔に、また胸が締め付けられる。
 そうだ、ここには弁慶がいる。だからそれでいいのだ。それ以外に何を望むことがあるだろう。他に誰もいらない。何もいらない。弁慶だけでいい。
 また手をつないで、ふたりで家路への道を歩き出す。
「あっ、弁慶さん、飛行機雲ですよ!」
 茜色の空の中に、一筋の雲の軌跡が描かれていく。何もなかったところに一本の線を引くように、まっすぐに雲ができてゆく。それを見つけ、つないでいないほうの手で空を指し、望美は子供のようにはしゃいだ。
 その不思議な現象を見つけると、昔からいつもわくわくした。一体どこまで続くのかと、飛行機雲が消えるまで空を眺めていた。昔、飛行機雲が出来る理由を聞いた気がするが、もう忘れてしまった。
「飛行機雲ってどうやって出来るんだろう。弁慶さん知っていますか?」
「さあ……僕にはちょっと分かりませんね」
 博学な彼なら知っているかと思ったのだが、彼も知らないようだった。弁慶は空を見上げ、何かを考えるように眉を寄せている。ただの話のひとつとして聞いてみたのだが、弁慶を困らせてしまったようだ。望美はただ飛行機雲が見られたことがうれしかっただけで、本当に飛行機雲の原理が知りたかったわけではない。それに、どうしても気になるのなら、家に帰ってから調べればいいのだ。
 調べれば──。
「────」
 まるで頭に霞が掛かるように、何かが頭をよぎる。調べればいいと思ったものの、どうやって調べればいいのか。ここには調べる手段は何もない。辞書もパソコンもないのだから。ここは──そう、それなら何故──。
「どうしました、望美さん?」
「あ、いいえ。なんでもないんです」
 一瞬何かを思い出しかけていた望美は、弁慶の声で現実に引き戻される。その瞬間に、思い出しかけたものは手のひらに落ちた粉雪のように消えてしまった。
「さあ、早く帰りましょう」
「はい!」
 弁慶と手をつないで、家路を急ぐ。
 大切なひとが隣にいて、微笑んでくれる。それ以外、望むことなど何ひとつない。しあわせな、しあわせな日々。



 家に着くと、弁慶は採った薬草を洗うために庭のほうへまわっていった。望美は夕餉の支度をするために部屋に入る。料理の下手だった望美だが、京で暮らすようになってだいぶ料理の腕は上達した。とりあえず食べられる、そこそこのものはできるようになった。
(今日の夕飯は、何にしようかな?)
 現代ほど物が豊かではないから、何でも望んだものが作れるというわけではない。食材も限られている。それでもさすがに毎日同じものでは飽きてしまうので、せめて昨日とは違うものを作ろうと、望美は頭をめぐらせる。
(昨日は──、──あれ?)
 望美はひとり首をかしげる。昨日の夕飯はなんだったろうか。思い出せない。昨日使った食材の残りでも置いてないかと、ぐるりとまわりを見回した。そのとき、ふと、光る何かが視界の端に映った。
(なんだろう?)
 きらりと光るそれに引かれるように、台所になってる土間から部屋の方へと上がる。そこにあったのは、金色の懐中時計だった。投げ出されるように、無造作に文机の上に置かれている。
(時計?)
 こんなもの、家にあっただろうか。望美はまた首をかしげる。
 文机の上には何も置いていなかったはずだ。この文机は望美もよく使うが、今朝は確かに──今朝? どうだったろう、思い出せない。どうして思い出せない? まるでそこだけ穴が開いたように──いや違う、穴ではない、まるっきり記憶が存在しないのだ。
 望美は必死になって思い出そうとした。今朝のことだけではない。昨日のこと、一昨日のこと、十日前のこと、それより前のこと。──なのに、何も思い出せない。ついさっき、弁慶と共に茜色のあぜ道を帰ってきた。ではその前は? まるで世界は数刻前からはじまっているかのように、それより前のことを何も思い出せなかった。
(どう、して?)
 混乱しながら、震える手で時計へと手を伸ばす。
「あ」
 震える手では上手く持てず、懐中時計は望美の手からこぼれて床へと落ちた。その拍子に蓋が開いて、懐かしい音楽が流れる。優しいオルゴールの旋律。これをくれたのは──。
(──ま、さおみ、くん)
 不意に思い出す。そうだ、この懐中時計は、彼にもらったものだ。同い年で幼馴染の有川将臣。家が隣同士で、ちいさい頃からずっと一緒だったのに、ある日雨の学校で時空の波に飲まれてはぐれて、再会したときには彼は年上になっていた。
 ひとつ思い出せば、連鎖的に次々といろいろなことがよみがえってくる。
 譲のこと、九郎のこと、景時のこと、ヒノエのこと、敦盛のこと、リズヴァーンのこと、朔のこと、白龍のこと。どうして忘れていたのだろう。どうして思い出せなかったのだろう。みんな、大切なひとたちだったのに。
 望美はゆっくりと顔を上げて窓の外を見た。茜色に染まる空。
 ──ここは、どこなのだろう。
 永遠に茜色の世界。夜が来ることも、朝が来ることもない。時の止まった世界。
 どうしてそれに気付かずにいたのだろう。
 午後に往診に行ったことなどない。誰かがこの小屋に来たこともない。ずっと弁慶とふたりきり。空が茜色に染まるこの数刻を、同じ時をずっと繰り返すだけ。それなのに、そのことにさえ気付かずにいた。
(ここは)
 この場所を、望美は知っていた。かつて、逢えずにいた将臣と逢うことのできた場所。
 ──望美の、夢の中。
(どうして私は気付かなかったのだろう)
 あの飛行機雲を見たときに、気付くべきだった。京に、飛行機なんて存在しないのに。ここは京ではない。望美の夢が作り出した、偽物の世界。儚い夢とは違う、龍脈の力によって思ったものを具現化できるという白龍の神子の力が作用しているのか、現実と同じような夢の世界。けれどそれは現実ではない。閉じられた世界だ。
 将臣と逢っていたときは、なじみの深い学校だった。今度は弁慶に合わせて京の町並みを作り出していたのだろう。けれど、ここは望美の作った世界だから、望美の現代での記憶が混じって、京にはありえるはずのない飛行機雲などがあったのだろう。
「望美さん」
 後ろから名を呼ばれて、望美はゆっくりと振り向いた。窓から入る夕陽に照らされて、弁慶が立っていた。日はだんだんと沈み、やがて茜色は消えていくだろう。だが夜は来ない。また数刻戻って、茜色の世界を延々と繰り返すだけ。
「弁慶さん……」
「思い出して、しまったんですね」
「私、私……」
 聡い彼は、気付いていたのだろう。ここが、現実の世界ではないと。閉ざされた、同じ時を繰り返すだけの世界だと。
 一体いつから、どうしてこの世界に入り込んでしまったのか、望美自身正しく思い出すことはできない。それでも、望美が弁慶をこの世界に引き込んでしまったのだろう。身勝手にも、愛しい人もこの狂った世界に閉じ込めてしまったのだろう。自分のしてしまったことの罪の重さに愕然とする。
 望美をなだめるように、弁慶が傍らに膝をついて、そっと背を撫でてくれる。弁慶は優しい。こんなときでさえ。この世界に、彼を留めておくことはできない。
「弁慶さんだけでも、この世界から、必ず帰しますから」
 何故こんなことになってしまったのか、望美にも思い出せない。けれど、夢の中へ入り込んだのは望美の責任だ。この世界がどうやって成り立っているのか、望美自身にも分からない。それでも弁慶だけは解放してあげなければならない。
「──その必要は、ありませんよ」
「え」
 うつむいていた望美が顔を上げた瞬間、弁慶が望美の額に手をかざす。
 そこで、望美の意識は途切れた。



 茜色に染まるあぜ道を、手をつないで歩いた。
 沈みかける夕陽が、弁慶の髪も肌も淡く橙に染めている。その横顔は、穏やかに微笑んでいる。それを隣から見つめていると、望美の胸はやわらかく締め付けられる。てのひらから伝わる体温が、とても心地よくて、とても愛しい。大切なひとが、ここにいてくれる。ただそれだけのことが、どんなに大切でかけがえのないことか、望美は知っている。
 手をつないで、家路への道を急ぐ。
「あ、弁慶さん、あれ──」
 望美は空を指差す。
「どうしました?」
「──、──あれ?」
 夢から目覚めるように、望美は目を瞬かせた。空には何もない。茜色の空に、雲がいくつか浮かんでいるだけだ。
「──なんでもないんです」
 弁慶に曖昧に笑って、望美はもういちど空を見上げる。そこには美しい茜色の空と、いくつかの雲が浮かんでいるだけだ。さっきまで空に何かがあったような気もしたが、何もない。──空に何もないのなんて、当たり前だ。きっと、気のせいだろう。
「今日の夕飯、何にしましょうか?」
 弁慶は静かに微笑んだ。それに望美は気付かなかった。
 望美は知らない。
 この世界は、望美の夢ではない。弁慶の夢だ。望美が作り出した世界を、弁慶が利用した。
 閉じ込められているのは、弁慶ではない。白龍の逆鱗は、弁慶の手にある。ここは、望美を閉じ込める鳥籠。永遠に変わらない日々。
「ずっと一緒にいましょうね、望美さん」
 弁慶の言葉に望美は頬を染めて微笑み返す。その真実に、気付かないまま。
 茜色の空には、一筋の飛行機雲。


 END