密 1


「私は時空を越えて戻ってきたんです! 弁慶さんに消えてほしくないから!」
 涙を浮かべながら、それでも強い意志を秘めた瞳で望美がそう言ったとき、弁慶は絶望にも似た気持ちを感じた。
(ああ……)
 彼女は恋をしている。他の誰でもなく、弁慶に。年頃の娘が頬を染めるような淡いかわいらしいものではなく、もっと激しい燃えるような恋心だ。簡単には消えることのない、本気の想い。愛と呼んでも、かまわないほどの。
(どうして)
 どうしてこんなことになってしまったのか、どこで間違えたのか。
 弁慶の『計画』では、こんなふうに望美が弁慶に本気で恋をするなど、考えていなかった。否、まったく想定されていなかったわけではないが、弁慶としてはそれを避け、彼女が他の者に想いを寄せるようにと、誘導してきたつもりだった。
 だが、どこかで間違ってしまったらしい。望美に近づきすぎたのかもしれない。もともと弁慶は、厳島で清盛もろとも消滅するつもりだったから、どうせ消える身だからと思っていた気持ちが、彼女との距離の判断を誤らせたのかもしれない。
 望美が弁慶に惹かれていることは、ずっと前から、弁慶自身気付いていた。そしてそれを利用してきた。
 弁慶は、自惚れではなく単なる事実として、自分の容姿が人並み以上に整っていることを自覚している。たいていの女性がそれに惹かれるということも。加えて柔らかな物腰や、甘やかな言葉が、どんな効果を持つかも分かっている。分かった上で、駆使しているのだ。
 望美に対してもそうだった。宇治川で出逢ったときから、わざと彼女の気を引く言動を取った。『白龍の神子』である彼女には、なんとしても源氏軍にいてもらわなければならなかったからだ。そのために、彼女に甘い言葉を囁いて、優しく接して、時には翻弄するようなそぶりを見せて、こちらに気を引かせていた。
 すべては計算だった。他の女性と違い一筋縄ではいかず、たびたび弁慶の予想外の行動をとる彼女ではあったから、それが心地よくて、つい必要以上に彼女にかまってしまったことは認める。それでも、ほぼ計画どおりに進んでいると思っていた。
(それなのに)
 弁慶の計画では、望美の気を引きつつも、彼女を本気にさせるつもりなどなかった。
 弁慶としては、九郎、ヒノエ、景時、リズヴァーンの四人の中の誰かと恋仲になって欲しかったのだ。彼らの中の誰かと恋をして、望美がこの世界に残ってくれればいいと思っていた。
 京に応龍の加護が戻ったとして──二人の神子の片方がこの世界からいなくなってしまったら、どうなるのだろう。
 百年前、先代の神子の願いによって応龍の加護を受けて後、神子のいない時期がずっと続いていた。それでも京に龍神の加護は続いた。だから、神子がいなくとも、加護は受けられるのだろう。
 だが、もし何かあったとき──たとえば、また龍脈が乱され五行の力が偏ったとき、それを治せるのは神子だけなのだ。もう一度望美を召還するにしろ、新しい神子を選ぶにしろ、すぐに対応できるとは限らない。実際、今回龍脈が乱されてから白龍の神子が選ばれるまでに2年近い時間がかかっているのだ。神子が二人とも、ずっとこの京にいてくれるなら──。弁慶はそう思っていた。
 黒龍の神子である朔はいい。何処かへ行くとしても、母のいる鎌倉へ行くという程度だろう。だが望美は違う。彼女はもともとここではない世界の人間だ。
 源氏の神子として戦う望美の第一の目的は、『もとの世界に帰ること』だった。当然だ。話を聞けば、彼女は争いもない平和で豊かな世界から、訳も分からぬままにここへ連れて来られたのだという。見知らぬ世界で関係のない戦に巻き込まれ、不便な生活を強いられているのだ。それに家族も友もむこうの世界にいるのだ。望美が帰りたいと、そう考えるのは当たり前だった。
 そんな気持ちを理解して、それでも弁慶は、望美がこの世界に残ることを望んだ。
 帰りたいと望む望美を、無理にこの世界に留め置くことも、出来なくはない。人ひとりを、どこへも行けないよう拘束することなど、弁慶にとってはたやすいことだ。誰にも気付かれぬうちに、人知れぬ山中の庵に閉じ込めてしまうことなど簡単だ。
 だがそれを望美に行うわけにはいかなかった。彼女は龍神の神子だ。もし彼女を無理矢理監禁したのなら、すぐに龍神に知られるだろう。白龍は神子を深く慕っている。その彼女を傷つけて、京への加護を得られるわけがない。つまり、望美自身に、この世界にいたいと思わせなければならなかった。
 その方法として、いちばん簡単なことは、この世界に想い人を作ることだ。ここに好きな人がいて、その人と共にいたいと想ってくれるなら──。
 その相手として、一番いいのが九郎だった。
 幸いにも、九郎は望美に好意を抱いているようだった。不器用な性格のせいで、想いをまともに伝えられるような状態ではないが、見ていて微笑ましいような想いを寄せていた。
 応龍が復活し、平家がいなくなったあと、京は九郎の管轄下となるだろう。頼朝は九郎の力に脅威を感じて手を出してくるかもしれないが、それは景時や部下たちとで手を回せば何とかなるだろう。龍の加護が復活し穏やかになった京で、九郎が正しい治世を行う。その傍らに白龍の神子がいてくれるのなら、それが一番いい。
 その次によいのはヒノエだった。
 彼は熊野別当で、彼と結ばれた場合、望美が住むのはおそらく熊野になってしまうが、それでも神子がこの世界にいるという状況は作れる。何かあったときに、すぐに対応できるだろう。また、弁慶の故郷である熊野にも龍神の加護がもたらされるならよいことだ。
 そうでないなら、相手はリズヴァーンや景時でもよいのだ。住む場所や立場などは多少変われど、彼女は京に残ることになるだろう。ここではない世界から来た譲や将臣、既に死人である敦盛では困る。
 だから弁慶はさりげなく、望美と九郎やヒノエが親しくなるように、いくらか画策したりもしていたのだ。九郎がたどたどしくも望美に好意を表わすのを、ヒノエが甘い言葉と魅惑的な笑みで望美を口説くのを、わずかな胸の燻りと共に影から見守っていたのだ。
 それなのに。
(ああ、望美さん──)
 彼女の瞳はまっすぐに弁慶に向けられている。その瞳に宿る想いに、気付けぬ弁慶ではない。
(どうして僕などを、選んでしまったんですか?)
 こんな、腹黒い罪人を好きにならずとも、よかっただろうに。
 見た目のよさでいうのならリズヴァーンのほうが整っている。心根でいうのなら九郎ほどまっすぐで誠実な者はいない。優しい甘い言葉ならヒノエがかけてくれるだろう。景時はいつだってまわりを気遣い、心を和ませてくれる。
 何故、彼らを好きにならずに、弁慶などを選んだのか。何故こんな咎人を。
 それでも。
 望美が恋をした相手が弁慶だというのなら、彼が取る手段はたったひとつだった。この世界から、龍神の神子を消えさせるわけにはいかない。なんとしても彼女をこの世界に、彼女の意志で留め置かなくてはならないのだから。
 だから弁慶は望美の頬に手を伸ばし、そっと触れながら言った。
「望美さん……、僕は君が好きです。どうか、僕と共に、この世界にいてくれませんか?」



 源氏と平家の戦が一段落してのち、弁慶と望美は五条大橋近くで共に生活をはじめた。もともと弁慶が診療所として使っていた小屋の傍らに、ふたりが生活するのには十分なちいさな家を建てて、そこで薬師を営んでいた。
 弁慶の診療所はいつも人があふれている。あまり裕福でない者が多く暮らしている地域で、ほぼ無償で病や怪我を見てくれる弁慶は、町の者たちにとって大切な存在だった。戦も終わり京に龍の加護が戻った今、流行り病や穢れによる悪疫も少なくなった。それに弁慶が時折しか診療所に現れなかったときと比べ、ほぼ毎日診療所にいる今はそのぶん患者も分散されて、一日に訪れる患者の数は一時よりは少なくなっている。それでも訪れる者は多く、忙しい日々を送っていた。
「弁慶さん、この薬草は、洗ったあと干しておけばいいんですよね?」
 診療所の奥の戸口から望美が顔をのぞかせて、患者を診ている弁慶に尋ねた。手には薬草がいっぱいに詰まった籠を抱えている。
「ええお願いします。それが終わったら、一昨日乾燥させた薬草をすりつぶしておいてもらえますか」
「はい、まかせてください!」
 望美の明るい笑顔に、弁慶も、そこにいた患者たちもつられて笑顔になる。
 元は薬草のことなど何ひとつ知らなかった彼女だが、自分から弁慶に教えを乞い、今では簡単な作業なら任せられるほどになっていた。
「弁慶先生の奥さん、いい子ですねえ」
 患者の一人がそう言うと、他の患者たちも口々に望美を褒めた。いつも明るく笑顔で町の者たちに接する望美は、皆に慕われていた。神子として、源氏軍にいるときもそうだった。彼女の笑顔や行動に、兵士たちも励まされていた。怨霊を封印する力を持っているというだけでなく、そういうところが、望美が『源氏の神子』であったゆえんなのだろう。
 実際、望美はよくやってくれている。薬師としての弁慶の手伝いだけでなく、家事や炊事も頑張ってこなしている。彼女の世界では、湯を沸かすのも飯を炊くのも、なんら手間をかけることなく『機械』と呼ばれるものですぐにできたのだという。だがここではそうはいかない。ひとつひとつを手作業でこなしていかなければならないのだ。まるで勝手が違うこちらでの生活に、それでも望美は文句ひとつ言わない。はじめは戸惑うことも多かったようだが、彼女なりに努力を重ね、今ではだんだんと馴染んできているように見える。
「あんないい嫁さんをもらえて、弁慶先生はしあわせ者だねえ。大事にしなきゃいけないよ」
 からかうような患者の言葉に、弁慶は曖昧に笑って答えた。
 弁慶はいい。それこそ、企んだとおりになっているのだから。ここに龍神の神子である望美がいて、京は龍神の加護を得て。荒廃していた町もだいぶ落ち着きを見せている。気候も安定していて、このぶんなら今年は不作になることはないだろう。まだいたるところに戦の爪痕が残っているものの、着実に復興に向かっている。弁慶はしあわせかと問われたら、しあわせだと答えるだろう。
 ──でも、望美はどうなのだろう。本当にしあわせだと、いえるのだろうか。
 薬師として働く弁慶との生活は、そう裕福なものではない。とりあえず食べるに困ることはないけれど、贅沢が出来るわけでもない。まして、望美のもといた世界に比べたら、どれほどの不便と苦労を強いているのだろう。
 日暮れ近くになって、ようやくすべての患者を診終わった。人の絶えることがなかった診療所に静寂が戻ってくる。弁慶はようやく肩の力を抜いて、大きく息を吐き出した。
「弁慶さん、今日はもう終わりですか?」
「ええ、今日もご苦労さまでした」
「じゃあ、夕飯の用意しますね」
「僕も手伝いますよ」
 まだ幾分危なっかしい手つきの望美を手伝いながら料理を作り、ふたりでささやかな夕餉を取る。贅沢な品は何ひとつないが、それでもいつだってあたたかい料理が並べられる。もともと料理上手ではない望美が、指に切り傷や火傷を負いながら、それでも頑張って料理を作っていることを知っている。もとの世界ではあまりすることのなかった水仕事のせいで、その手が荒れていることも。
「もうすぐ薬がなくなりそうなので、明日は薬草取りに行ってこようと思います」
「私もついていっていいですか?」
「ええもちろん、君が手伝ってくれると助かります」
 弁慶が望美に微笑みかければ、彼女は嬉しそうに微笑み返してくる。そんな望美の姿を見るたびに、心が痛む。
 弁慶は望美の気持ちを利用している。弁慶が好きだという、その想いを。『龍神の神子』である望美をこの世界に留め置くために、望美に愛を囁き、この腕に抱いている。そんなふうにすることは簡単だ。今までだってそうやって、多くの女を騙して利用してきた。望美にばれない自信はある。
 でも、そうやって彼女を騙すことが、つらいと思ってしまうのだ。
 まっすぐな彼女を騙す自分が、とても醜い存在に感じる。いや実際に醜いのだ。弁慶は黒龍を殺し、京を荒廃させた。源氏の軍師として非情な決断を下し、多くの者を死に追いやった。清盛を消滅させ応龍を復活させたことによって一応の贖罪を果たしたとはいえ、その罪が消えるわけでもない。そして更に今、望美の気持ちを利用してこの世界に留め置くという罪を重ねている。そのせいで、彼女は慣れない暮らしを強いられ、本来ならしなくてもいい苦労をしなければならないのだ。
(望美さん、僕は、君にそんなふうに想ってもらえる人間ではないんですよ)
 そんな自分が望美のそばにいることが、彼女を騙すことが、つらいのだ。
 だから、いつも思ってしまうのだ。
 たとえば、望美が今からでも心変わりして、たとえば九郎やヒノエに心を寄せるようになったら──。
 そうなったらいいのに、と。


 To be continued.

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