妄想劇場 <髪留め>


 たまたま父の部屋の前を通りかかったとき、いつもは忙しく働いている父が、めずらしくぼんやりと座り込んで、手に持った何かを見つめていた。おそらくは丁寧に布に包まれて保存されていたのだろう。その布を手の上で広げた形のまま、その中にある何かを大切そうに見つめていた。
 薬師をしている父の部屋はいろいろなものが乱雑に置かれている。よく分からない絵や難しい書物や怪しげな瓶が足の踏み場もないほど山のように積み上げられていて、その中で書物を読み漁っている姿はよく見かけるが、こんなふうに物思いにふけるような姿は珍しい。
 興味を引かれて、部屋の入り口から父に声をかけた。
「父上、それなに?」
「これですか? これは髪留めですよ。本を読もうと思ったら、たまたまこれを見つけて、懐かしくて見入ってしまいました」
 父は手を差し出して、その手にあるものを見せてくれた。不思議な細長い形状のそれは、髪留めとは言うものの、見たことのない形のものだった。どう使うのかもよく分からない。ところどころ色がはげてしまっているそれは、おそらく古いものなのだろう。
 父の髪も長いけれど、こんな髪留めを使うことはないだろう。とすれば、これは誰か他の──おそらくは女性のものだ。
「これ、昔の恋人のもの?」
 無遠慮に尋ねると、父はすこし考えるように首を傾げた。
「……そうですね、まああのころは戦中でしたから、いろいろあって、恋人と言えるのかどうか……。そんなことを言っている余裕がなかったというか、そういうことをあえて考えないようにしていましたから」
 父が、かつて起こった源平の戦乱に深く関わっていたということは聞いていた。けれどそのときどんなことが起こり、父がどんなことをしたのかは詳しく聞いたことがない。戦というのだから、やはり凄惨なことや残忍なこともあったのだろう。それを無理に聞きたいとも思わない。
 しかし、そんな戦乱のなかでも、そんなふうに淡い想いを抱く相手がいたのだろう。父の知らない一面を見た気がして、むくむくと好奇心がわきあがる。
「どんなひと?」
「きれいで強くて弱くて優しいひとですよ」
「そのひとのこと、好きだった?」
「ええ、もちろん」
「どうして別れたの?」
「昔の僕はとても愚かで──しあわせにすることは出来ないからと、自分から、その手を離してしまいました」
 ほんのすこし寂しそうに、父が目を伏せる。
「そのときに、せめて彼女の思い出の品が欲しいと思い、彼女がいつもつけていたこの髪留めをもらったんですよ」
 父の指が、そっと髪留めをなぞる。とてもとても、愛しそうに。
 おそらくは、その遠い日々を思い出しているのだろう。
「そのひとの手を離したこと、後悔してる?」
「さあ、どうでしょうね」
 曖昧に、父は笑う。
 その遠い昔、父がどんなふうに過ごし、どんなふうにそのひとを愛したのか、思いをはせる。叶わなかった恋と、残されたたったひとつの髪留め。それを父はどんな気持ちで眺めているのか──。
「ああ、ひとつ訂正です」
 笑みを絶やさないまま、父が言った。
「そのひとのことは、『好きだった』のではないですね。『愛していた』んです。そして今でも愛しています」
「……」
 父の言葉に、自然に口がへの字に曲がる。そんなことを言われれば、さすがに気分が悪い。今までの好奇心もちょっとした父への同情も吹き飛んでしまう。過去のことならともかく、それでは母の立場がない。さらにその間に生まれた自分は何だというのか。父を睨みつけてみても、変わらずに飄々と笑っている。
「僕は愚かで手を離してしまいましたが──、彼女はそんな僕を追いかけてきてくれたんですよ」
「──え?」
「あら、何の話してるんですか?」
 不意に母が後ろから顔を覗かせた。
 父の昔の恋人の話をしているところに母が来て、思わずあわてそうになるが、父はまったく余裕の表情だ。そして、母は父が手に持っているものに目をとめると、途端に顔を輝かせた。
「わあ、懐かしい。弁慶さんまだそんなもの持ってたんですか?」
「ええ。君との思い出の品ですから」
 父は手を伸ばすと、母の髪にその髪留めをさした。
「もう、今じゃこんなの似合わないですよ」
「そんなことありませんよ、望美さん。昔と変わらず、とてもよく似合っていますよ」
 父の言葉に、母は少女のように頬を染める。
 父と母のそんなやり取りをあっけにとられたまま見ていた。数秒間、訳が分からず固まっていたあと、ただ父にからかわれ、のろけられたのだとやっと理解した。
 むかついたので、手近にあった本を父に投げつけてみたが、あっさり片手で受けとめられてしまった。


 END.