しあわせな結末


 日は傾き、だんだんと橙と藍が濃くなっていく空の下で、朔は京邸の門脇に立って景時の帰りを待っていた。
 景時はここ数日、再び厳島へ行っていた。そして今日戻ると早文が来たのだ。今か今かと待ちきれず、邸の中でじっとしていることが出来ずに、門のところまで来てしまっていた。
 朔は待っていた。兄が、何かひとつでもいい、欠片でもいい、彼女の手がかりを見つけて帰ってきてくれるのを。
 春はまだ浅く、夕暮れともなればだいぶ冷える。ずっと外にいる朔の手も冷たくかじかんでいた。いや、かじかんでいるのは、寒さのせいではないのかもしれない。指先がかすかに震えてしまうのは。
(望美……)
 苦しさに、朔は胸元を強く押さえた。彼女の対である愛しい少女は、今どこにいるのだろう。暗闇の中にいた朔に、再び光を与えてくれた、あの少女は。
 望美はいなくなってしまった。弁慶と共に。その行方を、誰も知らない。誰も、知らないのだ。
 応龍が復活し、この京に龍神の加護が戻ったのは、ほんのひと月ほど前のことだ。とめられていた龍脈は再び流れ出し、新たに黒龍が生じ、白龍は力を取り戻した。それと同時に、長く続いていた源平の戦にも一応の決着がついた。源氏が勝ち、生き残った平家の将と、幼い帝とその祖母は、この国を離れ南へ向かったのだという。
 だが、朔が知るそれらは、『結果』でしかない。その結果に至るまでに何があったのか──平家を仕切っていた清盛がどうなったのか、どのようにして龍神が復活したのか。その場には望美と弁慶がいたはずだが、そのとき何が起こり、彼らがどうなったのか、正しく知る者はひとりもいないのだ。
 屋島の行宮までは、みんな一緒だった。そのときには弁慶も望美もいた。だが行宮で、突然弁慶が源氏を裏切ると言い、望美を人質に去っていった。朔や九郎たちは後方から攻めてきた平家軍から逃げることが精一杯で、すぐに彼らを追うことが出来なかった。
 あのとき、弁慶に連れ去られる望美の姿が、朔が最後に見た彼女の姿だ。
 平家から逃げ切り源氏の軍を立て直したあと、湛快に託されていた弁慶の文を受け取り、一行は急いで弁慶と望美がいるはずの厳島の舞台へ向かった。その途中の船の上で、急に白龍が「力が満ちた」と言って龍の姿に変わり、空へと消えていった。そして、朔たちが舞台に着いたときに見たのは、空を駆け上っていく白と黒の二匹の龍だった。
 ただ、それだけ。他には何もない。
 舞台には清盛も、望美も、弁慶も、誰もいなかった。まるで、そこにははじめから誰もいなかったかのように、静かに誰もいない舞台だけがあった。
 応龍が復活したということは、おそらく清盛は消滅したのだろう。そうでなければ龍脈は正されない。それなら望美と弁慶は? 彼らはどこへ行ってしまったのだろう。舞台周辺や近くの弥山などを捜索したけれど、何も見つからなかった。ヒノエは水軍衆を出して、近くの海の中も探させたらしい。けれどそれでも、ふたりの髪一筋さえも見つからなかった。
 白龍と黒龍ならば、何があったのか知っているのかもしれない。けれど、完全な龍神となった黒龍は、もう朔の呼びかけに答えてはくれない。白龍も、もう誰の前に姿を現すこともなかった。
 あの日から、望美と弁慶の行方は分からないまま。生きているか死んでしまったのかさえ分からないのだ。
「あれ、朔?」
「兄上!」
 通りの向こうから帰ってくる兄の姿を見つけて、朔は駆け寄った。尼僧としてははしたないほどに裾が乱れたけれど、そんなことにはかまっていられなかった。景時の胸元にすがりつく。
「兄上! 何か分かりましたか!? 望美は……望美は……!!」
 必死な顔で言い募る妹の姿に、景時は困ったように、すこし哀しげに眉を下げる。それだけで、いい知らせとなるものは何も見つからなかったのだと朔は悟った。──いや違う。いい知らせが見つからなかったのではない。悪い知らせが見つかったのかもしれない。
「朔、落ち着いて。家の中で話そう」
 景時に促され、朔は家の中へ入る。
 いつもなら、長旅から帰ってきた兄を気遣い、濡らした手拭を渡したり茶を用意したりする。けれど今はそれよりも先に、話を聞きたかった。それは景時も同じようで、部屋に入ると彼は荷解きもせずに、朔を円座に座らせ自分もその正面に座り、ゆっくりと話しはじめた。
「舞台や、厳島の周辺をもう一度調べて回ったけどね、何も見つからなかったんだ」
「そう……」
「でも、まったく何も分からなかったわけじゃない。俺も陰陽師のはしくれだからね。今度は術で舞台を調べてみたんだよ」
 先を聞くか、と、景時の視線が問いかけてくる。朔はそれにちいさくうなずいた。
「舞台には、強い呪詛がかけられたような跡があった。どんな呪詛かまでは分からないけど、呪詛をかけたのはおそらく清盛殿だと思う」
「……!!」
 朔は声を詰まらせた。
 怨霊として黄泉返り、黒龍の逆鱗を使って強大な力を振るっていた清盛の、呪詛。そんなものをかけられて、どうなるのか。あのとき、あの舞台で、何があったのか。望美は……。
 知らず、手が震えた。その震えを押さえるように、きつく両手を組み合わせた。
「九郎殿とヒノエ殿にはその話……」
「まだしてないよ」
 今回、景時にもう一度厳島の捜索をするよう命じたのは九郎だ。戦後の処理に忙しい中、それでも彼は弁慶と望美の行方を探すため、軍奉行である景時を厳島に向かわせたのだ。ヒノエも熊野別当の権限を使い、まだふたりを捜している。
 おそらく、ふたりの生死が分からないことをいちばん気にかけ、自分自身を責めているのは九郎とヒノエなのだろう。九郎は源氏を裏切る振りをした弁慶を信じられずに、責める言葉を口にしたことを激しく悔やんでいた。ヒノエは、船がもっと早く厳島に着いていればと、力の足らなかった自分を責めていた。
 八葉として共に戦った他の者たちはもういない。
 リズヴァーンは、戦の終結を見届けると、どこへともなく去ってしまった。あの日以来、彼の姿を見た者はいない。
 怨霊であった敦盛は、龍脈の流れが正常になると同時に、光に溶けるように消えていった。浄化されてゆく彼は、行方の知れない望美のことを心配しながらも、穢れた身が浄化され本来の流れに戻ることに安堵の笑みを浮かべながら消えていった。
 譲はもとの世界に帰った。もしかしたら、望美が弁慶と共にもとの世界に帰っているのではないかというわずかな望みに賭けて。
 将臣は秋の京で別れて以来、行方知れずのままだ。
 朔は景時の首元に目をやる。かつてそこに埋まっていた青い宝玉は、今はもうない。白龍が龍の姿に変わった直後に、宝玉は八葉の身から離れ、ひとつの白い珠に戻った。それはもとの世界へ帰る前、譲の手により星の一族に渡された。
 宝玉が八葉から離れたのは、龍脈が正され、白龍が力を取り戻したからなのだろうか。それとも──守るべき神子が、もういないからなのだろうか。
(望美……)
 きつく組み合わせた手が、それでも大きく震えた。
 望美はどうなってしまったのだろう。あのとき、舞台で清盛の呪詛を受け、彼女はどうなってしまったのだろう。望美は──。
「ね。でも、朔。あのふたりのことだから、案外どこかで元気に暮らしてるかもしれないよ」
 不意にことさら明るい声で、景時がそう言った。
「もしかしたら、譲君が言っていたように、望美ちゃんの世界に行っているのかもしれないよ。弁慶は望美ちゃんの世界にすごく興味持ってたみたいだし、龍神に頼んで向こうの世界へ行ったのかもね。譲君が帰ったら、ちゃっかり向こうに望美ちゃんと弁慶がいて、何みんなに心配かけてるんですかって譲君に怒られてるかもしれないよ」
「兄上……」
 朔はあきれた声を出した。景時の言うことは無茶苦茶だ。
 まず、ふたりがみんなに黙って向こうの世界へ行く理由が分からない。まして、責任感の強いあのふたりが、九郎たちを放り出していくとは思えない。もし向こうの世界に行くとしても、戦にきちんとかたが着いてからだろう。そんなことくらい、景時も分かっているだろうに。
 朔の咎めるような視線も気にせずに、景時は言葉を続ける。
「ほら、もしかしたら、なんかの弾みで、ふたりの意思とは関係なく飛ばされちゃったとかさ。元気だけど連絡取れない状況って、結構あると思うんだ。それに弁慶のことだから、もう戦とか、武士のいざこざに巻き込まれたくないってことで、わざと連絡してこないのかもね。ひどいよね、こっちは事後処理に寝る間もないほど追われてるってのに、雑務は全部俺に押し付けて、自分はのんびり隠居生活なんてさ〜」
「────」
 明るく言い募る景時を見つめていた朔は、彼から視線をはずすとちいさく息を吐いた。きつく組み合わせていた手を、ゆっくりとほどく。
「……そうね、そうなのかもしれない」
 真実など、誰にも分からないのだ。景時が見てきたことだって、ただの推測の材料にしか成り得ない。いや、景時は陰陽師としてはそう優秀ではないのだ。間違っていることだって十分考えられる。
 何も分からないのだから、希望がないわけではないのだ。
 朔は不意に、急くようにもとの世界へと帰っていった譲を思い出した。おそらく彼も今の朔と同じ気持ちで向こうの世界へ帰っていったのだろう。
 行方の知れないふたりが、向こうの世界にいたのならそれがいちばんいい。でも、たとえ譲が向こうの世界へ帰って、やっぱり望美も弁慶もいなかったとしても──ふたりがこっちに来ていると早とちりして自分は帰ってきてしまったけれど、きっとふたりはあっちの世界のどこかでしあわせに暮らしているのだと、そう自分に言い聞かせることができる。
 真実など、知らないままでいられるように。
 そう。きっとふたりは、どこかでしあわせに暮らしているのだ。
 弁慶の薬師としての腕があれば、どこでだって生活していけるだろう。でも望美はきっと家事なんて出来ない。大丈夫だろうか。特に彼女の料理の腕はひどいものだった。それでもきっと、望美の失敗した料理を、弁慶はおいしそうに食べるのだろう。もしもおなかを壊しても、彼は薬師だから大丈夫だろう。
(もうすこしここにいてくれれば、私が家事を教えたのに)
 望美と弁慶は、ふたりで薬師をしながら質素なちいさな家に住んで。ささやかで、穏やかで、しあわせな暮らしを。そのうち子供が生まれるかもしれない。望美に似た元気で明るい子だといい。
(望美)
 しあわせな夢を、思い描く。
 きっとどこかで、ふたりはしあわせに暮らしているのだ。
 きっと、──きっと。
「……っ」
 噛み締めたくちびるから、嗚咽が漏れた。泣いてはいけない。泣いてはいけないのだ。だって、哀しいことなど、ひとつもないのだから。
 彼らはきっとどこかでしあわせに暮らしているのだから。
「朔……」
「そうね、兄上の言うとおりだわ。きっとどこかで望美は弁慶殿としあわせに暮らしているわ。戦のほとぼりが冷めたころに、またうちにもひょっこり遊びに来るかもしれないわね。もしかしたら、子供も一緒かもしれないわ。楽しみだわ」
「うん。うん、そうだね、朔。きっとそうだよ」
「望美は、ずっと弁慶殿を追いかけていたもの。弁慶殿がひとりでどこかへ行こうとしたって、あの子ならきっと無理にでもついていくわ。だからきっと、ふたり一緒にいるはずだもの。ふたりで、どこかでしあわせに暮らしているわ」
「うん……」
 景時が朔を抱き寄せて、短く切り揃えられた髪をやさしく撫でる。
 泣いてはいけない。泣いたりしたら、哀しい結末を認めることになってしまう。そんなことはありえないのだ。きっと、しあわせな結末が。この頬を濡らすのは、涙などではないのだ。
(望美……!)
 彼女の、明るい花のような笑顔を思い出す。弁慶に連れ去られるとき、人質になったというのにそれでも望美は穏やかに笑っていた。弁慶に置いていかれることが何より怖いのだと、彼女はそう言っていた。どこへ行ったのか分からないけれど、ふたり一緒であることだけは確かだろう。だから望美はきっと今も笑っている。そうに違いないのだ。だから朔も笑わなくてはいけないのだ。
 哀しいことなど、なにひとつ、ないのだから。
 そう思うのに、朔は咽の奥から嗚咽が漏れそうになるのを、景時にしがみつく手が震えるのを、とめることが出来なかった。


 END.