妄想劇場 <くちづけ>


 望美はそんなにくちづけが好きではないらしい、と弁慶が気付いたのは最近だ。
 弁慶がくちづけようと顔を寄せると、嫌がったり拒んだりすることは無いものの、一瞬顔をこわばらせ、眉根がきゅっと耐えるように寄せられる。それに気付いていながらも弁慶は知らぬ振りでくちびるを寄せてくちづける。一度くちびるが触れ合ってしまえば、あとはもう弁慶の手管に望美はとろけていくだけだ。
 拒まれているわけではないし、くちづけ自体には望美も悦を感じてくれている。しかし望美はくちづけの前にはわずかに怯えるようなそぶりを見せるのだ。夫婦となってすぐのころは、初心な望美が慣れぬ行為に怯えているのかと微笑ましく思っていたが、どうもそうではないらしい。
 新婚の夫婦としては、これは大きな問題なのではないだろうか。弁慶は愛しい妻が嫌がるようなことを無理強いしたくはないし、何か心に掛かることがあるなら憂いを取り除きたい。
 それ以前に、弁慶にとって、望美にくちづけを拒まれるなど、非常につらく、耐え難いことだ。
 長い戦がやっと終わり、元々は別の世界の住人だった望美がこの世界に残ってくれることになり、さらには弁慶の妻となってくれたのだ。戦の間は、くちづけるどころか、まともに想いを告げることさえなかった。それが、晴れて想いが通じ夫婦になり、本来なら誰にとがめられることも、何を気にすることもなくくちづけられるようになったはずだというのに、望美に嫌がられるのは非常につらい。
 今日も、部屋でたわいない話をしていたときに、その笑顔に引かれて弁慶が顔を寄せれば、望美はきつく目を閉じて眉根を寄せた。
「望美さんは……僕とくちづけるのは嫌ですか?」
 その様子に、くちづけはせずに顔を寄せたままで、わずかに沈んだ声で問いかける。望美がそんな声に弱いということを弁慶はよく知っている。
「そっ、そんなことはないです!!」
 弁慶の思惑通り、望美は顔を赤くしながらもあわてたように懸命に首を振る。
「ただ……今までずっと、弁慶さんとキスするときって、薬を飲まされるときだったじゃないですか」
『きす』というのが、望美の世界でのくちづけのことだというのは聞いていた。
 戦の間、望美が負傷したり体調を崩したときには、薬師である弁慶が特製の薬湯を作って飲ませていた。特製というからには効き目は折り紙つきなのだが、良薬口に苦しという言葉どおりに、味や匂いも恐ろしいほど特製のものになっていた。
 よく効くことは分かっていても、あまりのまずさに、薬を飲みたくないと駄々をこねる望美に、弁慶は口移しでほぼ無理やり薬を飲ませたことが数度あった。──数度といわず、軽く両手を超える数だったかもしれない。
 それは、望美に薬を飲ませるというだけでなく、それを口実にして望美にくちづけたいという想いもあった。あの頃は、弁慶はやがては清盛とともに消滅するつもりでいたから、望美に想いを告げる気もなかったし、ましてやこんなふうに望美とともに生きる未来など考えてもいなかった。ただそれでも愛しいという想いは消せずに、薬を口実に望美に触れていた。
「あれはそういう意味のキスじゃないですけど……でも弁慶さんとキスするときっていつも苦い薬を飲まされるときだったから、なんだか今でもキスされるとき、あの薬の味を思い出しちゃって……」
 言っているうちに薬の味を思い出したのか、望美の眉がしかめられる。弁慶の薬は彼女の中で、よっぽど苦い記憶となって染み付いてしまっているらしい。
 実のところ、もうすこし口当たりのよい飲みやすい薬を作ることも出来たのだが、望美とくちづける機会を得るために、ことさら苦い薬を作っていたのだが、それが、今になってこんな羽目になるとは思いもしなかった。
 因果応報、自業自得。しかし源氏の軍師はこんなことでへこたれる相手ではなかった。転んでもただでは起きはしない。
「分かりました」
 弁慶はにっこりと笑った。それはもう、清々しいほどの爽やかな笑みだ。あまりの胡散臭さに、望美は思わず体を引いてしまう。けれどその腰を弁慶はしっかりと抱き寄せた。
「僕とくちづけるのが、苦い記憶と重なってしまうというのなら、これから甘い記憶を重ねて塗り替えてしまえばいいんですよね」
「えっ……弁慶さん?」
 望美をとらえているのとは反対の手で、近くに置かれていた小壷を引き寄せる。ちょうどよく、熊野から取り寄せた蜂蜜だ。高価な品物ではあるけれど、望美のためならば惜しくない。
 弁慶は壷から蜂蜜を掬い少し口に含むと、望美にくちづけた。舌を割り込ませ、望美の口腔に蜂蜜を塗りこめるようにたどっていく。まさしく言葉どおりの、甘い甘いくちづけ。
「んっ……」
 丹念に味わうように、望美の口内を何度も何度も舌でまさぐる。時折望美の舌を無理矢理引き出しては軽く噛んで、噛んだ部分を癒すようにまた舐める。弁慶にとっては、蜂蜜よりも甘い。あるいは、中毒性のある麻薬のような甘さ、だろうか。
 やっとくちびるを離したときには、望美の息が上がっていた。そんな望美を横目に、弁慶はまた蜂蜜を手に取る。
「弁慶さん……」
 潤んだ瞳でどこかぼんやりしているような望美に、弁慶はにっこりと笑ってみせた。
「一度では足りませんね。君の記憶の中で、僕とのくちづけが甘くなるようにしないといけませんからね」
 そうしてまた蜂蜜を含むと、望美にくちづけた。


 END.