ノスタルジア


 弁慶と望美が暮らす五条の小屋の近くに、いつの間にか犬がやってくるようになった。茶色い毛並みの小柄な犬だ。野犬のような凶暴さはなく、呼べば人懐っこく尻尾を振って寄ってくる。無駄に吠えたり噛み付いたりするようなこともなく、手を伸ばせば頭を撫でさせて、時には転がってその腹を見せることさえある。その愛想のよさで、いろいろな家を回っては餌をもらっているらしい。
 この時代、動物を飼うという習慣はあまり一般には浸透していない。一部の裕福な貴族などが娯楽をかねて飼うくらいのものだ。この犬も、かつて何処かの貴族が飼っていたものが、逃げ出したのか捨てられたのかしたのかもしれない。
 犬を見た望美はたいそう喜び、かまいつつ残飯などをあげていたら、すっかり懐かれてしまった。今では五条の小屋に、数日に一度は必ず顔を出す。薬師という仕事柄、衛生面にも気を配らなければならず、犬を飼うことは出来ないが、通いでやってくる犬を時折相手にするくらいはいいだろうと、弁慶も黙認していた。
 今日も望美は庭先に訪れた犬に朝餉に残った飯に汁をかけたものを与えたあと、腹いっぱいになって眠そうな顔をしている犬の前で、『お手!』だとか『おすわり!』などと必死になって言っている。どうやら芸を仕込みたいらしい。しかし犬のほうは望美の言葉を聞いているのか聞いていないのか、のんびりあくびなどしている。
 弁慶は縁側からその様子を微笑ましく眺めながら、平泉にいたころをふと思い出した。
「そういえば、昔、平泉にいたころ、九郎が犬を拾ってきたことがありましたね」
「そうなんですか。九郎さん、犬飼ってたんですか」
「いえ、そのときは僕も九郎も秀衡殿のところにお世話になっている身でしたから、飼うことは出来なかったんですが、秀衡殿の嫡男の泰衡殿が代わりに飼ってくれました」
 丸々と太った、綺麗な毛並みの犬を思い出す。金と名付けられたその犬は、拾い主である九郎にも懐いていたが、飼い主である泰衡にもずいぶん懐いていた。あの無愛想な泰衡に動物の世話などできるものかと思っていたが、あの懐きようを見ていると、案外人の目のないところではかまっていたのかもしれない。
 ふと思い出して笑みをこぼす弁慶につられたのか、望美も笑いながら話し出す。
「うちも犬を飼ってたんですよ。ずっと犬が飼いたくて、私が中学生になったときに、お父さんにねだって買ってもらったんです。ウエルシュコーギーっていう犬種で、すごくなついてたんです。でもいたずら好きでいっつも私の靴とか噛んで、怒るとすぐにお母さんのところに逃げて。お母さんは甘いから、『あらあら、しょうがないわねえ』って言って……」
 そこでふと、望美は言葉を途切れさせた。犬の頭を撫でながら、瞳はどこか遠くを見つめている。その瞳は──心は、遙か遠く、その故郷へと飛ばされているのだろう。その姿を、弁慶は目をすがめて見つめた。
 望美がもとの世界の話をすることは少ない。かつては弁慶に、こんな世界なのだといろいろ語ってくれたが、こちらに残ると決めてからは、めっきりもとの世界の話をすることがなくなった。それは彼女なりのけじめで、また、弁慶への気遣いだったのだろう。
「……帰りたいですか?」
 そっと、弁慶は問いかけた。
 彼女がここに残ることを乞うたのは弁慶だ。それは同時に、彼女から生まれ育った世界を奪ったのと同じだ。親にも友人にも、二度と逢えぬ境遇に閉じ込めた。ここに残ると決めたことで、彼女が失ったものはどれほどなのか。それを願った弁慶は、かつて龍神を滅したのと同じほどの咎を負うのかもしれない。
 それでも、もし望美が帰りたいと言ったとしても、帰す気などさらさらない。どんな手を使ってでもここに引き止めようとするだろう。それこそ、どんな手を、使ってでも。そんな自分を醜いとは思うけれど、どうしようもない。
 犬を撫でていた手を離して、望美は弁慶を振り返る。その深い緑の瞳は、まっすぐに弁慶を映す。かつて弁慶が軍師として非情な選択をしたときも、源氏を裏切ったときも、彼女は同じように弁慶をまっすぐ見つめていた。
「両親や友達に、逢いたいと思うことはあります。元気にしてるかなって心配したり、逢えなくて寂しいって思うこともあります。でも、『帰りたい』とは思いません」
 望美は微笑む。満開の、花のような笑みで。

「だって、私の帰る場所は、弁慶さんの傍なんですから」

「────」
 息が止まる。いつだって当たり前のように、望美は弁慶を壊していく。築き上げた壁も、凍りつかせたはずの心も、深く暗い沼に沈んでいきそうな想いも、すべて。そうして最後には、ただひたすらに愛しいという想いしか、残らなくなる。
 弁慶は腕を伸ばして望美を抱きしめる。愛しくて愛しくてたまらない。
「弁慶さん?」
「よければまた今度、君の世界の話を聞かせてください。それから、君のご両親の話や、君の家の犬の話を」
「──はい。その代わり、弁慶さんも聞かせてくださいね、弁慶さんの昔のことや、いろんなことを」
 その細い腕を弁慶の背にまわして、彼女も抱きしめ返してくれる。そのぬくもりに、そっと目を閉じる。
 望美は弁慶の傍を帰る場所だと言ったが、きっと逆だ。望美が、弁慶の帰る場所なのだ。たったひとつの、帰り着く場所。
 いつの間にか犬は足元からいなくなっていた。また気ままに、他の家へと行ったのだろう。あの犬にも、たったひとつの帰る家があるのだろうか。餌をくれる家はいくつもあるのだろうが、心を落ち着かせて安らげるただひとつの家は、あるのだろうか。今はないとしても、いつか見つけるのだろうか。そうであればいいと願う。いつか、自分のように。
 弁慶は、望美を抱きしめる腕に力を込めた。


 END.