おしまいの日、そしてはじまりの日
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ゆっくりとゆっくりと。
壊れてゆく弁慶に、望美が気付いたのは、もう手遅れになってからだった。
「弁慶さん」
望美が呼んでも、彼はもう振り返らない。瞳はどこか遠くを見つめ、望美を映さない。その琥珀色の瞳は、まるで本物の琥珀のように、何も写さずただ眼球にはまっているだけだ。かつて望美を愛しげに見つめてくれた瞳は、そこにはない。
弁慶の耳に、呼ぶ声はもう届かない。頬に触れても、きつく抱きしめても、なんの反応も返してはくれない。ただ、そこにいるだけの人形のように。それなのに、時折苦しそうに顔をゆがめ、救いを求めるようなうめき声を上げ、もがくように中空に腕を伸ばす。おそらくは彼の中で、自分の罪を振り返り、責められ、苦しんでいるのだろう。
「弁慶さん」
そんな弁慶を助けたくて、望美はもういちど名を呼んで、その腕にすがりつく。それでも弁慶は何の反応も示さなかった。
「望美。そいつはもう駄目だよ。楽にしてやろう」
ヒノエの言葉に、かたくなに首を振った。楽にしてやるというのは、死を与えるということだ。確かにそれは彼を苦しみから救ってくれるだろう。彼の身の内で、彼を責める呪詛の声を消すには、死しかないのかもしれない。それでもそんなこと、出来なかった。
──本当は、望美も分かっていたのだ。もう無理なのだと。弁慶がもう一度笑いかけてくれる日は、来ないのだと。
弁慶は、心を壊してしまった。
望美が弁慶のもとに嫁いで、二度目の冬だった。
しあわせになりましょう、と弁慶は言った。
そうなれると、望美は信じていた。そして実際、望美はしあわせだった。
長く続いた戦の末、清盛は消え応龍は復活し、京に龍神の加護は戻った。だからもうこれですべて終わりだと、望美は思っていたのだ。終わりなんてないと、分かっていたはずだったのに。しあわせすぎて、忘れてしまっていたのだ。
しあわせになりましょう、と弁慶は言った。
けれど同時に、しあわせになることが怖いのだとも言った。
「僕は、咎人ですから」
あれは、望美と弁慶が祝言を挙げた夜だった。
望美を抱きしめて、弁慶がちいさく呟いた。彼がそんなふうに弱音を吐くのはめずらしかった。
「大丈夫ですよ。一緒に、しあわせになりましょう」
望美はそんな弁慶を抱きしめ返して笑った。
彼の心なんて、なにひとつ、見えていなかった。
「お前のせいだ! おまえが父ちゃんを殺したんだ!!」
子供に、石を投げつけられた。まだ幼い、十を過ぎたか過ぎないかの子供だろう。
五条で薬師として暮らし、患者に薬を届けた帰り道だった。
その子供が誰の子供かなど、望美には分からない。三草山で見捨てた兵の子供か、間者として使っていた者の子供か、それとも平家に仕えていた武士の子供か。心当たりなど、ありすぎた。
「お前さえいなければ父ちゃんは死なずにすんだのに! 何でお前なんかが生きてるんだ!!」
幼さに似合わぬ激しい憎悪をこめた瞳で弁慶をにらみつけ、子供はいくつもいくつも石を投げてきた。弁慶はただ、望美に石が当たらぬよう背にかばうだけで、それを避けることもしなかった。それが頬に当たり血が流れても、弁慶はただじっとそこに立っていた。望美が子供をとめようとしても、やんわりとけれど有無を言わせない様子で彼女をとめた。まるで、それが義務であるかのように、責める言葉を受けていた。
そんなことは、日常茶飯事とは言わずとも、何度か望美も目にしていた。相手は子供だけでなく、夫を亡くした女であったり、息子をなくした親であったりした。みなが激しい憎悪をこめて、弁慶を責めた。
おそらくはそのたびに、弁慶の心は傷付き壊れていったのだろう。
あるいは、そんな言葉ではなく、自分がしあわせだと感じるたびに沸きあがる罪悪感が、弁慶を壊していったのかもしれない。いくつものしあわせを壊した自分が、しあわせになることなど許されないと。その想いが、弁慶を壊していったのかもしれない。
しあわせになりましょうと言った彼の言葉は、本心だろう。
望美を愛していると言ったその言葉に嘘などひとつもない。
それでも。
罪の意識は彼をさいなみ、ゆっくりとゆっくりと、彼を壊していった。
望美は気付いてあげられなかったのだ。彼の苦しみに。彼の抱える罪の意識に。
それは、応龍が復活したくらいでぬぐえるものではなかったのだと。
弁慶が死んだのは、春が来るほんのすこし前だ。
かつて前の運命で弁慶を失ったときと同じ季節に、望美はまた弁慶を失った。
この世界の医療技術は発達していない。壊れた弁慶は、ろくに食事を取ることも出来ずに、弱って死んでいった。優しかった手は、枯れ枝のように細くなっていた。それでも望美は、その手をずっと握っていた。
壊れた彼は、最後まで望美を見ることは二度となかった。
望美さんだけはどうかよろしくお願いしますと、弁慶が甥や友人たちに頼んでいたと──壊れてしまう前、あの彼が頭を下げてみんなに頼んでいたのだと、のちに聞いた。優秀な軍師である彼は、気付いていたのだろうか。いつか、こんな未来が来ると。自分が、壊れてゆくと。
望美に選択肢はいくつもあった。このまま京で何不自由なく暮らせるようにと、九郎や景時や朔が手配してくれた。熊野に移ってもいい、ヒノエも湛快もそれを勧めてくれた。もとの世界に帰ることも出来た。向こうには譲がいる。
それでも、そのどれも、望美は選ばなかった。
望美が望んだのは、たったひとり。
(べんけいさん)
かつて二度、望美は自分の意思で時空を超えた。
一度目は、燃え盛る京でみんなを失い、望美ひとりだけがもとの世界に帰されたとき。
二度目は、厳島で弁慶が清盛とともに消えたとき。
その二度の時空跳躍を経て、彼を救えたのだと思った。これで大丈夫なのだと。しあわせになれるのだと。
それが、どれほどの思い上がりだったか。
(べんけいさんべんけいさんべんけいさん)
罪でいい。
龍神の力を勝手に、自分のわがままだけで振るう望美は、かつての清盛とどう違うというのだろう。いつか必ず、罰が下るだろう。
(それでも、わたしは)
願うのは、ただひとりだけ。
そして望美は、もういちど、時空を超えた。
To be continued.