流星群 9


 望美が弁慶のもとに嫁ぐために、熊野から京へ移ったのは、紅葉の美しくなる秋のはじめのころだった。
 彼女が京へ行くことを、誰もが歓迎したわけではない。熊野にいる多くの者は、望美とヒノエの婚姻を望んでいたのだ。それなのに、いくら前別当の弟とはいえ、今は熊野にいない弁慶のもとに嫁ぐということに、落胆や反対の声も多かった。聞こえよがしに弁慶と望美を悪く言う者もいた。
 それらを一喝して黙らせたのはヒノエだ。彼は誰よりもふたりを祝福し、前熊野別当の弟の祝言を取り仕切った。熊野別当であるヒノエが祝っているというのに、他の者が祝わないわけにはいかない。内心はどうであれ、表面上はそれ以上誰も口出しできなくなった。
 それから数ヶ月が経ち、熊野はすでに冬を迎えている。
 ヒノエは、かつて望美が暮らしていた部屋から雪化粧を施された庭を見ながら、ひとり酒を飲んでいた。雪はすでにやんでいるものの、空気はしんしんと冷えているが、酒のおかげでそんなに寒さは感じなかった。
 望美がいなくなった邸は、火が消えたように静かだ。特に、望美に仕えていた女房たちは落胆を隠しきれないようで、皆、元気がない。だがやがて、それにも慣れるだろう。
「ヒノエ、入るぞ」
 一言だけ言い置いて襖が開けられ、敦盛が部屋に入ってくる。
「よお、ひさしぶりだな」
 ヒノエは手にしていた杯を軽く上げることで挨拶を返す。
「神子から、文が届いたと聞いて」
「ああ。ほらこれだよ」
 ヒノエは懐にしまっていた文を差し出した。敦盛はそれをうれしそうに受け取る。
 時折ヒノエのもとには望美からの文が届く。相変わらずあまりうまくない字で、それでも懸命に書いたのだと分かる、心のこもった文だ。文には、昨日はせっかくもらった魚を焦がしてしまったとか、弁慶とともに仁和寺で紅葉狩りをしたなど、近況や日々のよしなしごとが綴られている。望美にとっては『はじめての京での生活』に戸惑いつつも、しあわせに暮らしているのだろう。
 そして、今日届いた文には、先日弁慶の友人の九郎と景時という男に会ったと、楽しそうに書かれていた。景時には珍しい彼の発明品を見せてもらい、九郎には剣術を見せてもらったそうだ。その様子が、ありありと目に浮かぶ。
「そうか、九郎殿と景時殿に会ったか……」
 手紙に綴られた懐かしい名前に、敦盛が目を細めて微笑む。
「そのうち朔ちゃんやリズ先生にも会うんじゃないか」
「ああ。きっとそうだな」
 おそらくそう遠くない未来に、望美は九郎を介してリズヴァーンと、景時を介して朔とも出会うだろう。そうしたらきっと、望美と朔は親友になるだろう。またリズヴァーンを『先生』と呼ぶようになるのだろうか。九郎とは、些細なことで言い合いをしたりするかもしれない。それを困ったような顔をした景時がなだめるのだ。
 記憶なんてなくても、もとの場所に、収まっていく。それが本来の形であるように。川のせせらぎが、いつか必ず海にたどり着くように。清盛の呪詛は、それでもふたりを引き離せやしなかった。
「なあ、敦盛。俺達以外の奴らから望美の記憶が消えたのは、おそらく清盛の呪詛なんだろうが……望美自身が記憶を失ったのも清盛のせいだと思うか?」
 ヒノエは酒の杯に口をつけながら、隣で文を見ている敦盛に呟いた。
「どういうことだ……? それ以外に、何が……?」
「いや、ずっと思ってたんだ。清盛の呪詛だとしたら、何で望美まで、記憶をなくしちまったんだろうって」
 清盛が最期の力で、憎い薬師と龍神の神子に呪詛をかけたというのは分かる。すでに死人である敦盛と、熊野大権現の加護を持つヒノエと湛快には呪詛が効かなかったということも納得できる。でも、それによって望美から記憶が消えてしまったことが、どうしても解せなかったのだ。
 愛する我が子に忘れられてしまったと嘆いた清盛が、彼らに同じ苦しみを味あわせようとしたのなら、望美自身の記憶まで消えてしまうのはおかしい。たしかに、自身の記憶がないことで望美は苦しむだろうが、それは『愛するものに自身のことを忘れられてしまう苦しみ』ではない。清盛の意図を考えるなら、望美は弁慶のことを覚えていなければおかしいのだ。
 だが、こうしてすべてがもとの形に収まったとき、ヒノエはやっとひとつの答えを見つけた気がした。
「俺は、望美から記憶を奪ったのは白龍じゃないかと思ってるんだ」
「白龍が……!?」
 ヒノエの言葉に、敦盛は目を見開く。
 白龍は応龍となり、京の守護者となっている。だが、かの神は京を守ると同時に、神子である望美にも加護を与えているはずだ。彼が人の姿を取り共に旅をしていたとき、どれほど望美を慕い、守ろうとしていたか、傍にいたヒノエも敦盛もよく知っている。
 だが力が及ばなかったのか、何か他の理由があるのか、力を取り戻したはずの白龍は自分の神子を呪詛から守れなかった。清盛の呪詛はこの世界にばら撒かれ、ヒノエや敦盛など数人を除き、みんな望美のことを忘れてしまった。弁慶でさえ。
 だから、白龍は代わりに、彼女が『愛するものに自身のことを忘れられてしまう苦しみ』を負うことがないようにしたのではないだろうか。弁慶が望美のことを忘れてしまっても、望美も弁慶のことを忘れてしまっているなら、彼女が愛するものに自身のことを忘れられてしまう苦しみを感じることはない。
 そして、かの神は分かっていたのだ。記憶などなくとも、弁慶と望美はもういちど出会って、愛し合うと。こうして、もとの場所にたどり着くと。
「──そうかもしれないな」
 静かに、敦盛はうなずいた。ヒノエはそれには答えずに、酒をあおった。
 手紙を丁寧にたたんで、敦盛はそれをヒノエに返す。帰ろうと立ち上がった敦盛は、不意に思い出したように振り向いた。
「そうだヒノエ」
「ん?」
「今夜は、星がたくさん降るそうだ」
 彼はそれだけを告げると、また静かに帰っていった。
 敦盛が帰った後、ヒノエはひとり縁側へ出て、夜空を見上げる。月のない、凍るような夜空は澄み切っている。数え切れないほどの星が、頭上できらめいている。
 ちいさな星がひとつ、空を横切っていく。そしてそれに続くようにふたつみっつと星が幾筋も幾筋も落ちていく。もうしばらくしたら、雨のように星が無数に落ちていくだろう。
『流れ星──ヨバイボシにお願い事をすると、叶うんだよ』
 望美の言葉を思い出す。それはきっと、彼女のもとの世界の迷信なのだろう。
 流れ星が落ちる。この星の雨を、あのふたりも、寄り添って縁側に座りながら見ているのだろうか。それともすでに褥の奥で、星になど気付いていないだろうか。
(望美)
 彼女が好きだった。できるなら、手に入れたいと願った。
 だが、本当に望美を手に入れたかったなら、望美と弁慶がもう一度出会う前に、無理にでも彼女を自分のものにしておけばよかったのだ。妻にして、抱いて、孕ませてしまえばよかったのだ。彼女に記憶がなく、弁慶と出会う前なら、おそらく可能だった。
 それなのに、そうできなかったのは──それが望美を傷つけると分かっていたからだ。そのときはよくても、やがて望美が傷付くと、分かっていたからだ。
 ヒノエは、どうしても、愛しい少女を傷付けることができなかった。
 またひとつ、星が流れて落ちる。星になんて祈っても、何も変わらない。そんなことは分かっているけれど。
(もしも願いが叶うなら)
 熊野を守るというのは、星に願うようなことではない。ヒノエがただ実行するだけのことだ。そして、この空に輝く星がすべて落ちたとしても、きっと望美はヒノエを愛さない。
 そっと心の中でつぶやく。
(どうか、しあわせに)



 無数の星が降り注ぐ。
 星に願いは、届いたかな?



 END.