それでも君を


「弁慶さん!」
 黒い法衣をまとった男のもとへかけてゆく望美の後姿を見つめながら、リズヴァーンは、自分の胸元の逆鱗を握り締めた。

(神子)

 何度時空を越えただろう。何度歴史を書き換えただろう。そのたびに望美を失って、嘆きながらまた時空を飛び越えた。
 何十度目か、何百度目かのこの歴史で、望美は死ななかった。そして望美の命を失うことなく、今、清盛を倒し、応龍を復活させることができた。すべてを終わらせることができた。ずっとずっと、望んでいたとおりに。
 けれどその代わりに、彼女は他の男と結ばれようとしている。
 望美を失った歴史では、彼女はリズヴァーンを好きだと言った。愛していると言った。だから離れたくないと言って傍らにいて、そしていつも死なせてしまった。だがこの歴史で、望美はリズヴァーンを愛さなかった。代わりに、八葉の仲間である他の男を愛した。
 歴史のどこがどんな分岐点になっているのか、何度も時空を飛んでいるリズヴァーンでさえ分からない。今まで上書きしてきた運命のいつどこで、望美がリズヴァーンを想うようになったのか。この運命のいつどこで、望美がリズヴァーンではなく弁慶を想うようになったのか。何がその違いを生み出したのか。

(もしも、今、逆鱗を使ったら)

 望美を取り戻せるだろうか。
 新しく上書きした歴史で、また望美は、リズヴァーンを愛していると、言ってくれるだろうか。
 望美の命を失うことと、望美の愛を失うことと。その喪失による痛みはこんなにも似ている。

(望美)

 胸元の逆鱗を強く握る。
 逆鱗を使い上書きをしたなら、望美を取り戻せるのかもしれない。彼女はまた、リズヴァーンを愛していると、言ってくれるのかもしれない。
 また死なせてしまうのかもしれないけれど、それでもまた何度も繰り返したなら、やがていつかは望美を死なせることもなく、望美を得る日も来るのかもしれない。

(私は)

 リズヴァーンはゆっくりと、望美に歩み寄った。弁慶に肩を抱かれ、頬を染めながらしあわせそうに微笑んでいる。
 彼女はリズヴァーンに気付くと、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「先生! 先生のおかげで清盛を倒すことが出来ました。先生がいつも助けてくれたおかげです! ありがとうございます」
 望美は笑っている。しあわせそうに。
 リズヴァーンが繰り返してきた歴史の中で、こんなふうに彼女が笑うことがあっただろうか。分からない。記憶はいつも死に逝く望美の姿ばかりを強く刻まれ、正しく思い出すことが出来ない。
 だが今、望美は笑っている。
「──神子。おまえはしあわせか?」
「はい!」
 望美は力強くうなずいた。

(──ああ)

 これで、いいのだ。
 リズヴァーンが何度も時空を飛んだことを、望美は知らない。上書きされ、今は存在しないいつかの歴史で、リズヴァーンを愛していると言ったことも。

(それでも)

 今、望美は生きていて、これからも生きて、笑っている。この手の中にいなくても、結ばれることが叶わなくても。
 それだけで、もういいのだ。
 上書きは、もう必要ない。

 その役目を終えたことを感じたのか、リズヴァーンの手の中で逆鱗が砕ける。粉々になったそれは、光の粒となって、風に吹かれて舞い上がる。空にいる龍神の元へと還ったのかもしれない。
「あっ、弁慶さん見てください!」
 空に向かう美しい光の粒を見つけて、望美が声をあげる。それ自体が光っているだけでなく、空からの陽光を弾いて、輝きを増している。それはきっと、天からの祝福のように見えるだろう。
 いや、それは実際に祝福だ。望美と弁慶の、これからの未来への祝福だ。
 しあわせに、なればいい。誰よりも、誰よりも。

 リズヴァーンは自分の手を見つめる。
 その手には今はもう何もない。白龍の逆鱗も、望美も。
 遙かな時空を彷徨い続けて、辿り着いた果て。

(それでも、君を)

 しあわせそうに微笑む望美を見つめ、リズヴァーンも微笑んだ。


 END.