てのひら -北辰-


 何故戦うのか、という問いは、常に九郎の中にある。
 戦うということは、すなわち誰かを殺すことだ。直接刃で切り付けなかったとしても、戦がおこればどこかで誰かが死ぬ。だから常に九郎は自らに問い続けるのだ。何故戦うのか、と。
 兄が天下を取るため、怨霊を使い都を荒らす平家をそのままにはしておけないから、平治の乱の敵討ち──理由はいくらでもある。だが、そのひとつひとつの理由が、戦うに値する理由なのかを問い続け、そしてそれを見失わないように、間違えないようにと、常に自分を戒めている。そうでなければ、ただの殺戮者と変わらない。
 それでも時折、迷いが生じてしまう。本当にそれは正しいのか。本当にそれでいいのか。軍の大将が迷いを見せることは兵たちの士気に関わるから、それを表に出すことは決してないけれど。
(何故、戦うのか)
 それは九郎の中に常にある問いだった。



 偶然、五条へ向かう弁慶と望美の姿を見かけた。九郎が六条の自分の邸から京邸へ来たときに、ちょうどふたりが出かけてゆくところだったのだ。
 五条にある自分の小屋に弁慶が時々戻っていることは、九郎も知っていた。そこで薬師として働いていることも、最近望美がそこについていくようになったことも。別にそれはかまわない。戦のない休息日に何をしようとそれは自由だ。そこまで束縛するつもりはない。戦に何か支障が出るようなら止めもするが、軍師や神子としての働きに支障が出るようなことはないし、また市井の人々から仕入れてくる情報が役立つこともある。
 九郎は何とはなしに、五条へ向かうふたりの後姿を見つめた。
 邸から出るまではただ隣に並んでいただけだったのに、邸を出て通りをすこし歩いたところで、弁慶と望美はどちらからともなく、まるで自然に手をつないだ。当たり前みたいに寄り添って、同じ歩調で歩いていた。
 夕暮れになったころ、帰ってくるふたりも見かけた。そのときもふたりも手をつないでいた。そして邸のすこし手前で、また当たり前のように手は離された。
 おそらくは、本人たちも意識していないのかもしれない。それほどの自然さで、手はつながれ、そして外されていた。
 本人たちですら無意識かもしれないその理由を、九郎は気付いていた。
 ここにいるのは『軍師』と『神子』だから、手はつながない。
 ここを離れ五条に行くときは、『軍師』や『神子』なんて肩書きは持っていないから、傍にいることが当たり前みたいに、手をつないで。
 いつかふたりがその手を離さなくてもよくなる日が来るのだろうか。
 戦が終わって、あのふたりが『軍師』でも『神子』でもなくなって、つないだその手を離さずにいられる日が来るのだろうか。
 その日が来るのは、九郎にとってほんのすこしし寂しく、けれどとてもうれしいことだと思う。
(何故、戦うのか)
 戦う理由。それはこんな些細なことであってもいいのではないだろうか。
 大切な友人たちが、その手を離さずにすむ日が来るように。重い肩書きを捨てて、傍らにあれる日が来るように。
 それはストンと九郎の胸に落ち着いた。
 大層な大義名分なんて振りかざさなくてもいいのかもしれない。対外的には大義名分が必要でも、この胸に秘める『理由』はそんなちいさなことでいいのかもしれない。
 みんなそれぞれに戦う理由があって、きっとそれを誰も口にしたりはしないけれど。
 迷ったときに思い出すこのちいさな理由は、きっと夜の海の北辰のように、自分を導いてくれるだろう。
 そうして、いつか言えたらいい。戦も終わり泰平になった町で、寄り添って生きる弁慶と望美に、そのふたりのつながれた手に導かれたのだと。そう言ったら弁慶はどんな顔をするだろう。あの底の見えない軍師に一泡吹かせられるかもしれない。
 いつかの未来を思って、九郎は小さく笑った。


 END.