眠る四葩のその足元に 10


 五条大橋の袂で、弁慶と望美は共に暮らしている。慎ましいちいさな小屋は、それでもふたりで暮らすには十分だ。ふたりが暮らす小屋には、時々九郎や景時や朔が訪ねてくる。熊野からあまり出ることのできない敦盛は、烏を介してよく文を送ってくる。それらをいつも嬉しそうに望美は迎えている。
 長年独り者だった馴染みの薬師のところに突然降ってわいたように現われた奥方の存在に、近所の者たちは多大な関心を寄せつつも、心から歓迎してくれた。若い嫁をとった弁慶をからかいつつ、慣れない家事や炊事に戸惑う望美にいろいろと手を貸してくれる。はじめは失敗ばかりだった望美の料理も、最近はだいぶ腕を上げた。まだ完全には慣れない京での生活に、彼女もだんだんと馴染んできているように思う。
「望美さん、ちょっと薬を届けてきますね」
 弁慶は、ちいさな庭で、洗濯物を干している望美に声をかける。
「はい、いってらっしゃい」
 笑顔で答える望美の顔色は悪くない。季節の変わり目のせいか、望美は一昨日まで熱を出して寝込んでいたが、今日はもう元気そうだ。それを見て安心して、弁慶は出かけていく。
 優しい陽射しが落ちる。秋が深まりゆく京は、活気に満ち溢れていた。患者へ薬を届けた帰り道、市のほうへ足を向けると、各地から収穫された作物が所狭しと並べられている。今年も豊作だ。これなら冬支度には困らないだろう。
 通りには多くの人が行き交っている。人波を避けるように、道の外れの垣根に弁慶は腰をおろした。弁慶が座った垣根の背後にある木に、通りから隠れるようにもたれている人影。その気配を読んで、振り向かないまま声をかける。
「ひさしぶりですね、ヒノエ」
「……姫君が熱出したって聞いたけど、大丈夫なのか?」
「ええ。もう一昨日には熱は下がりました。昨日は大事を取って休ませましたし、今日はもう元気ですよ」
「そうか」
 お互い顔も合わせないまま会話を続ける。
 不意にヒノエが黙り込む。戸惑うような、ためらうような気配が、弁慶に伝わってくる。
「──あんたは、気付いてるんだろう?」
「……」
 何を、とは言わないし、聞かない。そして弁慶は何も答えない。それこそが答えだと、ヒノエも分かっているのだろう。
 望美の体は、おそらく、そう永くは持たない。
 京の穢れを浄化し続けた身体は、一見どこも変わっていないように見えても、あちこちが弱っている。それはもう、薬でどうこうできるようなものではない。1年や2年はいいだろう。だがその先は? 何度冬を越せるだろう。それは薬師である弁慶にもわからない。
 だが、それがどうだというのだろう。弁慶は、決めたのだ。もう望美を離さないと。ずっと共にいると。ただそれだけだ。
 しばらくの沈黙のあと、ヒノエがちいさく言った。
「あんた、また馬鹿なことしねーよな?」
「……さあ?」
 それは答えをはぐらかしているわけではなく、実際に弁慶自身にも分からないのだ。
 かつて弁慶は、龍脈に呪詛をかけ、応龍を殺した。弁慶にはそれくらいの知識と力はあるのだ。あの時は、若さゆえの無茶と、自分の呪詛がどれほどの力を持つのか分からずにいた無知によって、意図せずに起こしてしまった過ちだった。
 だがもし望美を失ってしまったら、弁慶はどうするだろう。
 もちろん京の人々をまた苦しめるような真似をするつもりはない。弁慶は、京とそこに住まう人々を愛している。だからこそ、命を懸けてでも応龍の加護を取り戻そうとしたのだ。だから、ヒノエが心配するような過ちは起こさないだろう。──少なくとも、正気でいる間は。一度手に入れた望美を失って、それでもまだ弁慶が正気でいられるか、わからないけれど。
 かつて弁慶は、失った息子を怨霊としてでも黄泉返らせようとした平経盛や、龍の逆鱗を無理矢理奪って世界を意のままに操ろうとした清盛を、愚かだと嘲笑った。いつか望美を失ったとき、弁慶は同じように彼らを愚かだと笑えるだろうか。
 望美が眠る前は身につけていた逆鱗は、目覚めた時には持っていなかったという。もう時間を遡ってのやり直しはできないのだ。
 何か言いたげなヒノエを残して、弁慶は立ち上がる。今これ以上話し合っても、意味のないことだ。いつか来る未来は、未来でしかない。それに怯えて、今を無駄に過ごすのは愚かだ。それでも今は、愛する者が傍にいて。京は穏やかに栄えていて。弁慶にとって何ひとつ、哀しいことなどない。
 弁慶が家に帰ると、望美が笑顔で出迎えてくれる。
「弁慶さん、おかえりなさい」
「ただいま帰りました。途中の市で、おいしそうな秋刀魚が売られていたので買ってきました。夕餉はこれにしましょう」
「わ、いいですね! ほんとおいしそう!」
 子供のようにはしゃいで喜ぶ望美を、弁慶は愛しげに見つめる。いつかどんな未来が来るとしても、望美は今ここにいる。
「どうかしたんですか、弁慶さん」
「いいえ。せっかくの秋刀魚ですから、焦がさないように気をつけてくださいね」
「もう、大丈夫ですよ!」
 すねた顔を見せる望美をやわらかく引き寄せて抱きしめる。ずっと手に入れることは叶わないと思っていたぬくもりが、腕の中にある。人は愚かだから、知らないままなら我慢ができても、一度知ってしまったらそれを失うことにきっと耐えられない。
「本当に、何かあったんですか、弁慶さん」
「あなたがここにいてくれる喜びを噛み締めているんですよ」
 弁慶はほんの少しだけ腕の力を強める。愛しい彼女が、何処へも行ってしまわないように。
 いつかまた愚かな罪を犯すとしても、今はただ、このしあわせの中で。


 END.