雪宵闇



 雪はやむこともなく、ずっと降り続いている。
 弁慶の上に。そして傍らに横たわる、望美の上に。



 弁慶がゆるりと目を開けると、一面の白が目に飛び込んできた。
 一面の、白──いや、白の中に、鮮やかな二藍が流れている。真っ白なシーツの中に、しなやかな望美の髪が。
 腕枕をするというよりは、ちょうど弁慶の胸元に顔をうずめるようにぴったりとくっついて望美が眠っている。それは彼女がくっついているだけでなく、弁慶が腕を回して彼女を抱え込んでいるからに他ならないのだけど。
 布団からはみ出た何も身に着けていないむき出しの肩にわずかに寒さを感じて、弁慶はちいさく身を震わせた。今は冬だ。この世界の建物は機密性がよく、隙間風が入るようなことはないとはいえ、明け方の空気は室内でもしんと冷えている。
 この世界では、極寒の冬でも、火桶などとは比べ物にならないくらい部屋を暖める機械が当然のように備わっている。『エアコン』と呼ばれるその機械を作動させてこようかと考えて──弁慶はそれを却下した。代わりに、望美をさらに抱き寄せて、布団を肩まで引っ張りあげた。それだけで、十分あたたかい。
 まだ望美が起きる様子はない。もともと寝起きのよくない彼女に、昨晩はさらに無理を強いたのだ。ちょっとやそっとのことでは起きないだろう。
 傍らで穏やかに眠る愛しい少女に笑みが漏れる。
 かつて弁慶がいた世界で、望美と共に過ごしていたときは、そのほとんどが戦中だった。いつも気を張り詰めさせて、深く眠ることなどありはしなかった。それは望美も同じことで、ちいさな物音やわずかな気配がするたびに、傍らに置いておいた剣を持って飛び起きていた。京邸や熊野など戦とは関係なく穏やかにすごせるはずの地でも、身についてしまった習性なのか、やがて来る戦に備えていたのか、こんなふうに穏やかに深く眠ることはなかった。
(望美さん)
 これほどのしあわせを、弁慶は知らない。
 戦のない穏やかな世界で、傍らには愛しい少女がいて、安らかな寝息を立てている。やがて陽が昇り朝が来たなら、彼女は目を覚まし、羞恥に頬を染めながら、昨晩無茶を強いた弁慶を怒るだろう。そうしたら弁慶は甘い言葉とほんのすこしの意地悪と優しいくちづけを彼女に落とすのだ。
 痛みを感じそうなほどの、しあわせ。弁慶が望んだままの、夢のようなしあわせ。



 地に横たわる弁慶の視界を埋め尽くすのは、白い雪。歪む視界の端に見える二藍の望美の髪は、ところどころ紅色に染まっている。その真白に反するような、鮮やかな──血の色。
 寒さを感じないのは、傍らに望美がいるからではない。彼女にもう、熱は残っていない。この雪と同じ温度になってしまった。寒さを感じないのは、もうすでに弁慶の体から温度を感じる感覚が消えてしまったというだけだ。
 ほとんど動かない腕で、それでも望美を抱き寄せた。それが残っていた最後の力で、あとはもう首を動かす力さえなかった。だから望美の顔を見ることができない。弁慶の視界に入るのは、一面の白と、愛しい少女の二藍の髪だけ。



「──弁慶さん!」
 自分を呼ぶ声に、弁慶は目を覚ました。いつの間にか、自分でも気づかぬうちに浅く眠ってしまっていたようだ。すぐ目の前に、望美の心配そうな顔がある。
「望美さん、どうかしましたか?」
 その問いには答えずに、望美はそっと弁慶に手を伸ばした。あたたかなぬくもりが、弁慶の頬に触れる。
「なんだか弁慶さんが、苦しそうだったから」
 弁慶よりもよほど苦しそうに眉根を寄せて、望美が告げる。
「なんでも、ないんですよ」
「嘘」
 心優しい彼女は、弁慶の痛みに敏感だ。彼がどんなに策をめぐらせて、ばれないようにうわべを取り繕って微笑んでみせても、望美だけはだまされてもくれずに弁慶を暴いていく。いつだってそうだ。
「怖い夢を見たんです。それだけですよ」
「夢、ですか?」
「ええ」
 そう、あれは夢だ。
 弁慶は今ここにいて、望美は今ここにいて、こんなにも、しあわせだ。まるで夢のように。夢見たままに。
 平家を打ち破った九郎の力を恐れ、何かと理由をつけて頼朝が九郎討伐に乗り出すだろうことは、ずっと前から予想していた。それに望美を巻き込みたくなくて、わざと冷たい態度をとって彼女をもとの世界に送り返した。もう二度と会うこともないと思っていたのに、平泉で追い詰められ死にかけた弁慶の前に現れたのは望美だった。
 そして逆鱗の力で彼女の世界に来て、弁慶はこうして穏やかな暮らしを手に入れた。慣れない世界でまだ戸惑うことも多いけれど、それは同時に弁慶の知的好奇心を満たしてくれる。なにより望美が傍にいてくれる。手にすることはできないとあきらめていた愛しい少女が、今こうして腕の中にいるのだ。
 だから、あれは、夢なのだ。望美が来てくれたけれど、追っ手から逃げ切れずに、失ってしまうなんて。あれは、夢、なのだ。
 望美はここにいる。ここに、いるのだから。
 ああ、なんて、しあわせなのだろう。まるで、夢の、ように。
「望美さん。これからは、ずっと、一緒ですよ」
 夜明けまで、まだ時間がある。
 弁慶は再び望美を抱き寄せて、ゆっくりと目を閉じた。



 雪が、降りしきる。
 やむことのない雪は音もなく降り積もり、すべてを覆い隠していく。
 弁慶も、望美も、散らばる血も、涙も。

 白い、白い世界。
 もう他に、何も見えない。



 END.